くちなしの庭

狂フラフープ

くちなしの庭

 山向こうの幹線道路から谷間を縫うと、寂れた漁港だけが自慢の赤錆びた町にたどり着く。子供の時分ぶりの母の実家は、既に戸や仕切りが取り外され、大人数が一堂に会せるよう開放されていた。自宅葬は祖父の希望だったそうだ。

 家族からひとり、自分の車で先行した私は、知らぬ顔ばかりの所在なさに背を押されて庭へ出た。

 からりとした初夏の陽光に汗を滲ませながら、他人事だな、と自嘲する。事実他人事なのだ。薄情にも私は祖父の顔を遺影を見てようやく思い出したのだから。

 陽射しがきつい。

 木陰を求めた私の目に、映り込む坊主頭があった。

 痩せてはいない。だがまだ背丈に追い付いてもいない。子供と若者の狭間の、不安定な、けれどはち切れるような溌溂さが朴訥な背に宿っている。

 違和感は、そうだ、喪服だ。この子であれば学生服だろうか。

 洗い過ぎて褪せたTシャツとジーンズ、首から掛けた無地のタオルはあまりにこの庭に似つかわしく、だからこそ葬儀の場には不似合いだった。

 植え込みから顔を上げた少年は葬儀には出ないのだと、私は合点する。

 だがならば、なおさらここで何をしているのかとも思う。

 少年が振り向いてこちらを向いた。どうしてかその手に、庭仕事の道具が握られているのに気が付いた。

 少し迷って、声を掛ける。

 単なる挨拶だったが、私が服装に向ける視線をちらと見て、少年は庭木に向かって呟いた。

「伯父さんが。関係ないから、おれは出なくていいって」

「伯父さんが?」

 聞き直すと、苦い顔をした少年は漏らした言葉を後悔するように、ただ短く会話を切り上げる。

「親はどっちもいない」

 やりとりを忘れようとでもいうように、少年はもう一度草木と向き合った。

 その没頭する慣れた手つきに驚きと感心を覚える。

「この庭の手入れ、ひょっとして君が?」

 少年がうっとうしそうに無言でうなずく。膝を悪くした独り暮らしの老人の庭だ。荒れていないならば誰かが手を入れていてくれたのだろうとは思ったが、それが自分よりずっと年若い者の仕事だとは思わなかった。

「ここの爺さんが、元気な時に、教えてくれたから」

 祖父が元気と言えたのは何年前の話だったろう、と思い返す。

 足元に敷かれた使い古しのマットが、椅子の足の形に削れていることに気が付いた。


 祖父はここに座っただろう。少年はここに屈んだだろう。

 何年も、何年もの間、ここでふたりは並んで同じものを見たのだろう。

 だとすれば。

 今この少年が庭の片隅になど居なければならないのは、私にはどうにも許し難いことに思えた。

「お葬式……今からでも遅くないからさ――、」 

 彼の手を取ろうと伸ばした私の腕を、少年は顔も向けずに振り払った。余計な世話と言われた気がした。

 思わず怯むような、強い目つきが、私を睨んだ。

「おれはもう十分に話したよ。あんたらと違う」

 その拒絶に返せる言葉などなく、去る背中を追うことなどできなかった。

 私もまた薄情な親族のひとりに過ぎやしない。

 老人が少年の孤独を知っていたなら、少年もまたきっと、老人の孤独を知っていただろう。

 人でごった返す母屋を振り返る。

 祖父が少年と過ごした最後の数年間を、あの場にひしめく誰も知らないのだ。




 夜中に目が覚めて水を飲んだ。

 少しだけ居心地の悪いトイレで用を足して、寝床への帰り道、仏間に座る母の姿に気が付いた。

「母さん?」

 酒呑みたちさえ寝静まった時間に、母はひとり常夜灯の下、椅子に腰掛けて祖父の棺の寝ずの番を務めている。

 その傾いた頭に触れて、声を掛けた。

「替わるよ。仕事と運転で疲れてるでしょ?」

 それじゃあ少しだけお願いしようかなと立ち上がる母を見送って席に着く。

 ぼんやりとしたかすかな灯りの、静まり返った仏間にひとり取り残されると、ただひたすらに遠くへ来たなという気持ちだけが私を満たした。

 棺の小窓を開け、覗き込む。死化粧で眠る祖父の顔をどれだけ見詰めても、やはり実感など湧きはしなかった。


 にじり寄る睡魔でわずかに意識が途切れたことを、耳に入ってくるその音で理解する。たしかに聞こえるその音が、いつ始まったのかわからない。

 誰かが庭で泣いている。

 声を殺し、誰かが庭ですすり泣いている。

 縁側のサンダルで真暗い庭へ出た私に、その背中は逃げるように去っていった。

 暗がりにようやく見えた、けれど一目でわかる背中。

 その場所に、私は誘われるようにふらふらと歩み寄った。

 私を背中から照らす常夜灯の光は一歩踏み出すごとに遠ざかり、目の前の私の影と辺りの闇とは膨れて混ざる。区別が付かなくなっていく。

 どうして。

 どうして誰よりも祖父を悼み、誰よりも祖父を必要とする彼は祖父の棺の前でなく、こんな場所で泣かなければならないのだろう。

 悲しみか哀れみか、言葉に出来ない自分の胸の内を持て余して、立ち尽くす私の足元を、夏の夜の温い風が舐めてゆく。

 どこかから匂いがした。

 暗闇の中、思わず出所を探す私の視界で、小さなそれはかすかに揺れてその姿を主張していた。わずかな月明かりを照り返す、小さな六枚の白い花びら。

 なんといっただろう。

 そう、くちなしの花だ。

 ずっと鼻の奥をくすぐっていた甘さが花の香りであることを、膝を付くほど近付いてようやく私は思い出した。

 この花の匂いを、祖父に教わった記憶がある。

 そうだ。私はこの庭で祖父とこの匂いを嗅いだことがある。

 私にとって祖父の匂いは、線香の匂いでも、焼香の匂いでもない。

 匂いと記憶が結びついて、古い古い思い出が綻び出てくる。

 頭を撫でられたことを、どこか頭の奥で覚えている。

 ああ、と私に理解が染み渡る。

――どうしてこんな場所で?

 ここでなければならなかったからだ。

 目の前の暗闇に思い出が滲む。

 祖父の顔を思い出せない。思い出せるのは痩せた膝と、膝の上で嗅いだくちなしの花の香り。それから頭を撫でる優しい手つき。それが私の祖父だった。折り重なった名も知らぬ花の名前のない香りは、私にとってすべて祖父の匂いだった。

 母に連れられて来る、見知らぬこの土地が好きだったことを思い出した。

 ここだ。祖父はずっと、ここにいたのだ。

 涙と嗚咽が自分のものだと気付く頃には、それを抑えるすべが私にはない。

 声を殺し、私はすすり泣く。



 空き地の砂利をタイヤが踏み鳴らす。葬儀を終え、連なって出ていく参列者たちの車に私のクーペも加わって列を成す。

 運転席からの視界を、唐突に遮るものがあった。 

 褪せたTシャツとジーンズ。私はブレーキを強く踏む。

 下げたパワーウインドウに、少年は汚らしいビニールの包みを差し出した。

 戸惑いと驚きが先に立って、問うよりも先に包みを受け取ってしまった。それを見届けて、少年はなにひとつ言葉を交わさぬまま踵を返す。

 ドアハンドルに手を掛けて、止めた。

 追ったところで、きっと少年は何も語るまい。

 香典返しを助手席の足元に敷いて、その上に包みを倒れないようそっと立てる。

 車を走らせ、ハンドルを握りながら去ってゆくミラー越しの景色をかすかに見やった。

 雲ひとつない空に、青々とした松葉が手を伸べる。 

 祖父はあの少年を、私のように膝に乗せただろうか。

 いや、祖父と出会った頃の少年も、そこまで小さくはなかったに違いない。

 昔の生まれらしく小柄だった祖父の座る椅子。少年はきっとその隣に立つ。

 もっと背が低かった頃の少年の頭を、あの優しい手つきが撫でただろうか。

 包みを開く必要はない。

 私はこの匂いを知っている。

 庭はこれから、あの日と同じ夏の盛りを迎えてゆく。


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