第3話 老夫婦

 いつの間にか、隣の席の奧さんは傾眠している。旦那さんは少しホッとした様子でペットボトルのお茶を一口飲んだ。

「妻にはずいぶん苦労をかけました。仕事ばかりで構ってやれなくてね。ある日、妻が買い物に行くと自転車で家を出て、帰り道がわからなくなったんですよ」

 ああ、と私は思う。認知症の始まりはこうした日常のふとした違和感だ。


「それからずっと拒んでいた病院に連れていって、病名がついたときにはかなりショックだったようです。私もひどく落ち込みました。でも本人の絶望感はそれ以上でしょう」

 旦那さんは遠い思い出を語るように、静かに続ける。


「最初はなんでこんなことができないんだ、なんて怒っていましたよ。病気と分かっていても腹立たしい。とてもしっかりした妻だったんです。情けなくてね」

 また、トンネルに突入した。奧さんはよく眠っている。旦那さんはその寝顔を見てホッとしたようだ。私はただ頷きながら話に耳を傾ける。


「でもね、今の妻が妻の姿。この先も一緒に生きようと決めたんですよ。これは私の勝手な罪滅ぼしでもあるんですけどね」

 旦那さんは恥ずかしそうにはにむ。

「だから、今を大切にしようと。これから熊本県の天草に行くんです。新婚旅行で行った天草の美しい海をもう一度一緒に見て、妻との新しい思い出にしようと思うんです」

 私は思わず零れそうになる涙を呑み込んだ。


「奧さんはきっと昔のことはよく覚えていますよ」

 認知症の特徴だ。三分前に食べたご飯のことは覚えていないが、30年前に登った山の名前を覚えている。そういうものなのだ。悲しいことに、新しい記憶から消えてゆく。


 奧さんが目を覚ました。

「おとうさん、トイレにいこうかねえ」

「はいはい、いこうか」

 旦那さんは立ち上がり、奧さんの手を取ってトイレに向かった。

 認知症は不可逆的な病だ。薬で進行を抑えることができても、治ることはない。

 きっと旦那さんにはこれから過酷な道が待っているだろう。それでも彼らは乗り越えていけるように思えた。


 ガタンと音がして、車輌はまた長いトンネルに突入した。


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