第4話 高千穂峡へ
小倉駅で夫婦に分かれを告げた。
特急ソニックで大分へ、キオスクで駅弁を買い、特急にちりんに乗る。
延岡駅からバスに揺られて1時間半。一日がかりでようやく高千穂へ到着した。時間に追われない旅ではあるが、目的地まで到達できると少しホッとした。
鬱蒼とした木々に囲まれた民宿の六畳間で、座椅子に腰掛けてしばし呆然とした。気が張り詰めているせいか疲労は感じないが、ずっと乗り物に揺られ続けた身体は軋み、悲鳴を上げているようだった。
明日は高千穂峡へ行く。
母の大切な思い出の地、高千穂峡へ。そこで私は決意したことをやり遂げるのだ。大それたことかもしれないが、それが母への弔いであり、母をこんなふうに死なせた父への復讐でもある。
私は縁側の椅子に置いた旅行カバンのチャックを開ける。母はここにいる。それを確認することで、心が落ち着いた。
民宿の夕食は地元の食材を使った素朴な田舎料理だ。優しい味付けは看護師だった母の手料理を思い出した。塩分を気にする母は薄味を好んでいた。
手狭な共同風呂は貸し切りで快適だった。旅の疲れを癒やすため、そして明日に備えて早めにふとんにもぐることにした。
翌朝、民宿を出て高千穂峡へ向かった。高千穂峡は阿蘇山の火山活動で噴出した火砕流が冷え固まり、浸食された断崖がそそり立つ峡谷だ。狭く切り立つ断崖に、ごうごうと流れ落ちる真名井の滝の風景は観光写真でも有名で、誰もが見たことがあるだろう。
高千穂峡に来るのは初めてではない。8年前の家族旅行で立ち寄ったことがあるが、あまりの混雑に父が待つのは面倒だとへそを曲げて通過したのだ。
今、目の前に見える清涼感を誘う雄大な景観に、きっとあの時母の目にもこの景色が映っていたのだろうと思うと、私の目に知らず涙がにじんだ。
しかし、私はやり遂げなければならない。
早い時間とあって、貸しボートの待ち列はさほど長くなく、三〇分ほどで順番がやってきた。ボートに乗り、深く澄んだ紺碧に漕ぎ出す。
ボートの操縦は想像以上に困難で、不器用な私はとても苦慮した。なんとか峡谷で一番美しい景色の場所に辿りつき、断崖の脇へボートを停めた。
旅行カバンのチャックを開けると、白い陶器が覗いている。私はその陶器に優しく手を触れた。
「窮屈だったね、母さん」
中には、骨になった母がいる。
もともと小柄だった母は、認知症で動けなくなり骨もずいぶん脆くなっていたのだろう、火葬の後に残った骨はあまりに小さく少なく、当初用意した大人用から子供用のこの小さな骨壺に変更したほどだ。
母を自宅に連れ帰ってからは、父は仏壇の前で毎日線香を欠かさず手を合わせていた。時々涙ながらに母に話しかける肩幅の狭くなった父の背を見ると、母にひどく依存しているように思えた。
母の生前、あれほど横暴だった父の姿を重ねて何を今更と、私は心の奥底から湧き上がる憎しみが抑えきれなくなっていた。
四十九日が終われば、母は墓に納骨されいずれ父もそこに収まる。死んでまで横暴な父と一緒にするのはあまりにも不憫で、私は母をここ高千穂へ葬ることに決めたのだ。これは、母の尊厳を守ることであり、父への復讐でもあった。
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