第2話 回想

 五年前。

 母が六五歳にして若年性アルツハイマー型認知症を発症した。尾道市内の総合病院で看護師長をしていた母は、手順ミスにより透析患者の血液逆流を起こした。同僚のすすめでMRI検査をしたところ、病名が明らかになった。

 母は失意のうちに定年を目前に、病院を早期退職せざるを得なかった。


 発症後も処方により、病気の進行をある程度抑えることはできた。しかし、五年前から歩くことが困難となり施設へ入所、二ヶ月前から食事を口に運んでも飲み込まなくなった。そうして、点滴で命を繋ぎながら亡くなった。


 私は母の死の間際、会社を退職し、母を看取った。

 すでに何も口に出来なかった母にできたのは、ひび割れた唇にリップクリームを塗ってやることだった。

 ずっと傾眠したままの母の姿を見つめていると、父への恨みがドス黒い沁みのように湧き上がってくるのを感じた。


 父は昔気質で、気に入らないことがあればよくものを壊し、暴力を振るった。母は結婚間も無い頃、投げつけられた皿で肋骨にヒビが入ったことがあるそうだ。父は小さな弟よりも、何かと理由をつけて私に手を上げることが多かった。


 私が中学生のとき、部屋が片付いていないことを理由に突如腹を立てた父が、部屋中のものを壊し、恐怖に怯えた母と私は真夜中に家を飛び出したこともあった。

 その日の父の怒り狂い血走った、獣のような目に怯えた感覚は今でも忘れられない。

 家族は平静を装いながらも、父の顔色を覗って過ごしていた。


 仕事の激務に加えて、父の暴力に怯えるストレスが母の病気を引き起こしたとしか思えなかった。

 世間体が悪いという理由から、父は認知症を発症した母の面倒を自宅で見ていた。認知症に起因する母の異常行動に腹を立て、暴力を振るうこともあったと市内に住む弟からは聞いていた。


 広島市内で会社員をしていた私が久々に実家へ帰ると、母は額に痣をつくり、上の空で天井を見上げていた。いつも溌剌としていた母のあまりの変わりように、私は野太い手で心臓を鷲づかみにされるような衝撃を受けた。

 その夜、母をふとんに寝かしつけていると、母が繰り返し何かを呟いている。


「高千穂峡」

 か細い声で、確かにそう言っていた。

 高千穂峡が、そう繰り返しながらぽろりと涙を流した。その先を語る語彙力は認知症により失われていた。


 私は胸が詰まる想いで、母の手を握りながらしばらく一緒に泣いた。高千穂峡は母の思い出の地なのだ。

 きっと独身時代、熊本県の病院勤めで同僚とよく旅行に行っていたときの楽しかった思い出が蘇ったのだろう。それ以来、私の胸には高千穂峡という言葉がずっと焼き付いていた。

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