水の棺

神崎あきら

第1話 旅立ち

 母の四十九日を目前にして私はひとり、旅に出た。


 日の出前に尾道を出発し、在来線で福山駅へ。西へ向かう新幹線の自由席に乗り込んだ。行き先だけは決まっている。それ以外は何も決めていない。


 自由席は思いの他混み合っており、私は窓際の空席を探した。乗り物に乗るときは窓際を選ぶ。窓の外を流れる何気ない風景をただ無心で眺めるのが好きだった。今は特にそうしたい気分だ。


 ようやく見つけた席は三人掛けシートだった。窓際に腰掛け、旅行カバンを膝の上に置いた。

「ここ、空いていますか」

 すぐに後からやってきた年配の夫婦が私の隣に座った。

 70代くらいだろうか、品の良い白髪の奥さんとごま塩頭の旦那さんだ。奥さんはありがとう、と優しい笑顔を向けた。私も愛想笑いで会釈を返す。


 アナウンスが流れて車輌が動き出す。私は膝に置いたバッグをしっかりと抱え込む。

 私にとってこの旅は、一生涯決して忘れられない旅になるだろう。これは私が決めたことだ、これでいい。私は窓に映る自分の顔を見つめ、決意を再確認した。


「あら、ねえ海が見えるわ」

 隣に座る奥さんが私の腕に手を置いて身を乗り出してきた。あまりの馴れ馴れしさに驚いていたところ、旦那さんが慌てて彼女を窘める。

「すみませんね」

 旦那さんはすまなそうに頭を下げる。奥さんはそれを気にすることなく、微笑みながら海を見ようとしきりに窓を覗き込む。


「ええ、いいですよ。どうぞ景色を楽しんでください」

 少し驚いたけれど、景色を楽しみたい気持ちは共感できる。私は気持ち身を逸らして、彼女ができるだけ窓からの景色を楽しめるようにした。


 おかしい、と気が付いたのはトンネルに差し掛かったときだった。


「おとうさん、おとうさん」

 奥さんが急に怯え始めた。窓の景色は黒く塗りつぶされ、車内にはごうごう、とくぐもった音が響く。トンネル内を走行している間、奥さんはそわそわと周囲を見回しながら旦那さんに縋り付いていた。

「大丈夫だよ、佳代。トンネルの中を走っているんだよ。すぐに明るくなるから」

 旦那さんはしきりに優しい声で奧さんを宥めている。


 その姿を見て、私は母を思い出した。


「すみません、妻は認知症なんです」

 旦那さんが申し訳なさそうに小声で囁いた。トンネルを抜けると、また明るい田園風景が広がる。奧さんは何ごともなかったかのように笑顔に戻り、嬉しそうに外の景色を眺め始めた。


 




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