証拠と炎

 本日、森川雄吾は一人で会社に出勤している。社長となれば、何日も休むわけにはいかないのだろう。


 次のイベント業務は、新しくできたレジャー施設の宣伝を大きな駅ですることらしい。そのような業務が詰まっているのだから、出勤するのも仕方がない。


 砂橋は機嫌が良さそうにインターホンを押さないまま、家の門を開けて、玄関扉の前には立たずに右を向き、芝生が生えている庭へと踏み入った。


「あ、間に合ったみたい」


 砂橋が庭へと足を踏み入れた途端、そう言った。


 庭には、焚火台に木をいれて、火を大きくしている途中だった森川静江がいた。その傍らには折り畳まれた段ボールがある。

 森川静江は急な訪問者に驚いていたが、彼女は傍らの段ボールを掴むと焚火台から立ち上る火に翳した。


「弾正、あの段ボール燃やさないで」


 砂橋は動く気配が一切ない。しかし、砂橋が言うのなら、あの段ボールを燃やされてしまったら大変なことになるのだろう。あれがこの事件の証拠品なのだ。まったくそうは思えなかったが、俺は走り出して、段ボールの端を掴んで、火から遠ざけた。

 森川静江も段ボールから手を離さず、火の上で段ボールを二人で掲げているような奇妙な図が出来上がる。


「どういうことだ?」


 あとからやってきた熊岸刑事が砂橋に尋ねた。不法侵入を咎められると思ったのか、砂橋はわざと熊岸刑事に遅れてくるようにずれた集合時間を伝えたのだろう。


「じゃあ、噛み砕いて説明しようか」


 砂橋は俺と森川静江を膠着状態にしている段ボールを指さした。


「あれは、森川静江が酔って眠ってしまった森川誠に被せて公園に運んだ時に使った段ボールだよ」


 砂橋の言葉に森川静江は口を引き結んだ。彼女は何も言わない。


「ママー?」


 がらりと窓ガラスが開いて、家の中にいたらしい森川家の一人娘が顔を出す。それを見て、俺は目を見開いた。

 この女性は娘に見える場所で証拠を隠滅しようとしていたのだ。


「……祥子しょうこ、まだ準備できていないから、もう少しお部屋で遊んでてくれる?」

「うん! 分かった! マシュマロ楽しみ!」


 森川祥子はにこにことしたまま、窓を閉めて、リビングから出て行った。砂橋が笑いを堪えたように肩を震わせた。


「証拠品を燃やした炎でマシュマロでも焼くつもり? しかも、娘と一緒に食べるって」

「証拠品ってなんのこと? 私は娘と焚火をして、ついでに邪魔な段ボールを片付けようと思っていただけよ」

「よく言うよ。ご近所さんがゴミの回収に段ボールを出しているんだから、それと一緒に出した方が楽なのに、わざわざ燃やす?」


 ここまで来る道で、確かにゴミの回収を待つ段ボールがいくつも並んでいるのを見た。彼女の言い分には無理があるだろう。


「……もしかして、私が誠さんを殺したと思ってるんですか? 彼は裸にコートが一枚の状態で死んだって聞きましたよ? こんな冬に……自業自得じゃないですか? 私はなにもしていませんよ」


「そりゃあ、強い酒を飲ませて、外に放置をしたらなにもしなくても死ぬでしょ」


 どうしても自分はなにもしていないと言い張る森川静江と、彼女のことを犯人だと決めつけている砂橋の話は平行線だ。砂橋がこちらを見る。


「弾正」


 俺は隙を見て、彼女の手から段ボールを取り上げた。


「ちょっと……!」


 彼女になにもされないように、段ボールを抱えて焚火台から離れて、砂橋の隣まで移動する。砂橋は初めから彼女のことを森川誠を殺した犯人として扱っているため、必要以上に距離を詰めたりはしない。


「監視カメラで君のことを見たよ。イベントが終わって、撤収作業も終わった九時半頃、その段ボールだけを抱えて公園から出てきた」


「だから、なに?」


「搬入作業の時は、わざわざ最後にやってきて、トラックからその段ボールを台車にのせて降ろして運んでたけど……どう考えてもトラックにその段ボール一つ、スタッフも君一人で荷物を運びこむなんておかしいでしょ。そんなに中身が知られたくなかったの?」


 馬鹿馬鹿しいとでもいうように森川静江は肩を竦めた。


「なによ、それ。それじゃ、まるで私が誠さんの死体を公園に運んだみたいじゃない」


 しかし、森川誠の死亡推定時刻は午後七時から八時。道具の搬入が終わったのは六時半だ。彼女が森川誠の死体を運んだとすると、辻褄が合わない。道具の搬入が終わってから、イベントの撤収作業が開始されるまで、彼女の姿は監視カメラに映っていなかったのだから。


「違うよ。死体を運んだんじゃない。公園に運ばれる時、また森川誠は生きていた」


 段ボール箱に入れられて運ばれたということまでは分かる。死亡推定時刻のことも考えると、イベント中は森川誠が生きていた可能性があるのも分かる。しかし、気になることは一つ。


「段ボールに人を一人いれたって……それなら、起きたらいつでも出られるじゃないの」

「荷物置き場にあった他の機材が入った段ボールで周りを塞いでしまえば、出られないよ」


 ケータリング作業をしていたスタッフが人が入れそうな大きさの段ボールの周りには他の荷物があり、それが人の手によりどかされた形跡もなかったと言っていた。

 森川誠が荷物置き場の段ボール箱の中で目を覚ましたのなら、声を出せばいいと思ったが、声を出そうとしても、バンドが演奏をしているステージがすぐ傍にあるから掻き消されてしまう。そもそも酔っぱらった頭で適切な判断ができたかどうかも怪しいものだ。


「君がすることは二つだけ、酔って寝た森川誠を公園に運んで、出てこれないように荷物置き場に段ボール箱を置くこと。そして、撤収作業が終わる頃に、段ボール箱を開いて、彼を公園の地面に転がすこと。それが終われば、あとは使った段ボールを持って、離れるだけ」


 目撃者を出さないようにスタッフ全員が帰った後まで残ることができるのは、社長の妻でもあり、雑用を多くこなしている森川静江ぐらいだろう。


 監視カメラでも彼女は最後に出てきた。その手には今俺が持っている段ボールを抱えていた。折り畳まれた段ボールは、横の面を無理やり切られて開いたみたいで、折り畳んだとしてもずれて、しっかりとした四角の形にならない。段ボール箱を横から開いて森川誠の死体を地面に転がせたのだろう。


「でも、そのぐらいだったら誰にでも」

「家から出ない森川誠に強い酒を勧めることができるのは家族だけ」


「……でも、イベントがあった日は私も雄吾も朝から出ていて」

「指揮をとらないといけない社長は現場を離れるのは難しいだろうけど、後からトラックに段ボール箱を一つだけのせて一人でやってきた君には好きに行動できる時間があったってことでしょ」


 彼女にはトラック一台を好きに動かせる時間と、それをしても周りのスタッフに怪しまれない立場にいる。


「じゃあ、裸にコート一枚で死んでた説明はどうするの。酔っぱらって寝た男を脱がせて、コートを着せるなんて、できないわ。誠さんは体重が九十五キロもあったのよ。台車にのせたり、転がしたりはできても、服を脱がせることも着せることも私には無理よ」


 彼女の言う事ももっともだ。

 砂橋は我が意を得たりと言わんばかりに口の端を吊り上げた。


「彼は非常に残念ながら、自分で服を脱いで、コートだけ着たんだよ」

「砂橋、さすがにそれは」


 俺が口を出そうとすると、ちらりと砂橋は窓ガラスの方を見た。砂橋の視線につられて窓を確認する。窓から見える位置には誰もいない。


「熊岸刑事、このあたりに出没していた変質者の被害にあったのはどんな人達?」

「小学生児童が下校中に一人で遭遇したものが多い。二人で下校中に遭遇したという証言もある。被害に合っているのは小学生の女子児童ばかりだ」


 砂橋は森川静江に視線を向けて静かに問う。


「祥子ちゃん。今年、六歳? 小学一年生だっけ?」

「まさか……」


 慌てて、森川静江を見る。彼女の表情は先ほどまで砂橋の追及を躱そうと冷静に振る舞っていた人間とは思えないほど、怒りに満ちていた。


「酒を勧める必要もない。脱がせる必要も着せる必要もない。ただ家を出る時に強い酒をたくさん置いて、自分と夫はイベント業務で夜遅く帰ってくるので、夕飯頃に帰ってくる娘をよろしくお願いしますといえばいい」


 小学生の女子児童を狙った露出行為は春先にしか行われていない。それはただ、春以外の季節は露出行為をする気が起きなかったというわけではないだろう。

 夏になれば、コートを着ているだけで怪しく、秋と冬はコート一枚ではどうしようもできないほど寒い。

 やりたくてもできないから我慢をしていただけだ。


 そんな中、同じ屋根の下で暮らす女の子が小学一年生となった。両親さえ家にいなければ、森川誠と小学生の森川祥子の二人きりだ。露出行為をしようとすれば、いくらでもできる環境になってしまった。

 そして、祥子の両親が仕事で遅くまで帰ってこず、祥子だけが夕飯時に帰ってくるとなったら、森川誠は欲望を押さえきれずに服を脱ぎ、コートを一枚羽織るだろう。


 しかし、その行為は確約されたものではない。


「森川誠が外で露出行為をしていたからといって、家の中でやるなんて予想は……」


 俺はそこまで言いかけて、理解した。

 森川静江のあの怒りの表情の意味を。


 森川誠は、すでにこの家で、露出行為を行ったことがある。それを森川静江は知っていたからこそ、自分の娘と二人きりになると分かれば、彼が服を脱ぐと分かっていたのだ。


 酒をちゃんと夕飯前に飲ませておくことに関しては、娘が勝手に飲まないように先に飲んでおいてくださいとでも言えばいい。


 自分で稼いでいない森川誠の家の中での地位は低いものだっただろう。酒なんて溺れる程に飲むことも普段はできない。だからこそ、勧められて、その機会に飲んで、眠ってしまうまで酔ってしまったのだ。


 それこそ、台車で運ばれても逃げ出す判断ができないほどに。


「家に帰って、酩酊状態で、裸にコート一枚の森川誠を見て、君は」

「その話は」


 砂橋の言葉を森川静江は遮った。


 その顔には先ほどまでの怒りの表情はなかった。視界の端に動くものを感じて、窓ガラスを見ると、マシュマロが入った袋を両手で抱えてわくわくしながらこちらを見ている森川祥子の姿があった。


「いくらでも話すわ。罪も認める。でも、あの子の前ではなにも言わないで。もう、思い出してほしくないの」

「……」


 砂橋は熊岸刑事を見た。俺と砂橋は警察官ではない。娘とのひと時を見逃すことは造作でもないが、ここには熊岸刑事がいる。熊岸刑事はしばらくの間、悩み、口を開いた。


「三十分だ。俺は署に連絡をする」

「ずいぶん、お優しいことで」


 砂橋が肩を竦めた。

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