フェス

 森川雄吾はイベントの主催をいくつかしている小さな地域密着型のイベント会社の社長であり、そんな社長の夫を支えているのが彼の妻の森川静江しずえだ。

イベントではテントや機材などの運び込みから設営、撤収まで細かい指示をしており、森川雄吾も妻の静江には助けられていると言っていた。


 森川静江は森川雄吾が経営しているイベント会社の従業員兼秘書のような役割をしており、件のフェスの間も忙しなく動いていたらしい。


「ただいま。あれ、刑事さん……どうしたんですか、また?」


 娘の手を引いて帰ってきた森川静江は娘に自分の部屋で遊んでくるように指示した。小さな娘は母親の言葉に元気に返事をして、廊下を駆けていった。


「静江、刑事さん達に質問されたんだが、控え室のテントの後ろのあたりで誠が見つかったらしいんだ。撤収の時とか、誠の姿を見ていないか?」


 簡潔に夫にそう尋ねられた彼女は、キッチンの戸棚を開けて、お菓子の袋を取り出すと、大きな器に個包装されたお菓子を並べた。俺の隣に座っていた砂橋がじっと器にいれられるお菓子を見ている。どんなお菓子か気になっているのだろう。


 夫の質問に彼女は首を横に振った。


「フェスの開催中に誰かが倒れていたら、絶対に救急車を呼んでいたわ。撤収の時だって、倒れていた人なんて見ていないし……誠さんのことは見かけなかったわよ」

「そうだよな……」


 森川雄吾が胸を撫でおろした。妻も自分も弟の死体を見逃したりはしていないという確信ができて安心したのだろう。

 テーブルに置かれたお菓子が詰められた器に待ってましたと言わんばかりに砂橋が手を伸ばす。チョコチップクッキーの個包装を開けながら、砂橋は夫の隣に座った森川静江を見た。


「撤収作業はいつ終わったの?」

「九時半頃ですね。撤収作業は一時間で終わらせると最初から決めていましたから。何度も時間を確認していました」


 森川静江は左手にはめた腕時計を指さした。


 イベントの撤収作業を終えた時、森川誠は公園にはいなかった。しかし、十五分後の九時四十五分、森川誠の死体が通行人により発見される。十五分という短い間に人が凍死するとは思えない。

 ならば、十五分の間に別の場所で亡くなった森川誠の死体が公園に運び込まれたことになる。


「仮設テントの裏の荷物置き場を利用した人を中心にもう一度、話を聞いてもいいでしょうか」


 熊岸刑事の言葉に森川雄吾は難色を示した。


「年始はイベント業務が詰まっているので、とても忙しいんです」

「業務に差し支えない程度の簡単な質問です」

「それなら……」


 警察の捜査に協力するのは市民の義務とはいえ、あちらにも仕事の事情はあるだろう。渋々と従業員への聞き込みを了承した森川雄吾は、部下たちに事情を説明しておくから、今からでも会社に向かって構わないと言った。


 森川家は、親族が亡くなったということで数日だけ慶弔休暇をとっているらしい。といっても、明日にはすぐに会社に顔を出すそうだ。

 会社を経営していると満足に慶弔休暇をとることもできないのか、それとも森川誠は彼らにとって一週間も使って喪に服すような相手ではなかったのだろうか。


 無職の居候で、その上、露出狂の変質者。

 喪に服す価値もないと身内が思うのも分かるが、とにかく、今は森川誠になにが起こったのかを探る必要があるだろう。


 森川宅を出て、熊岸刑事の車に全員が乗り込むと、おもむろに砂橋が口を開いた。


「あの公園って出入り口に監視カメラあるでしょ。九時半から九時四十五分までの監視カメラの映像は?」

「それなんだが……イベントが開催された午後七時から死体が発見されるまでの間の映像に森川誠は映っていなかった」


「それなら、森川誠はイベントよりも前に公園に入っていたということか?」

「森川夫妻は、早朝に家を出る時には、森川誠が家にいたと確認している。夫妻が家を出た午前八時から死体発見までの公園の出入り口の監視カメラの映像を後輩に確認してもらっている」


 ああ、だから今日は熊岸刑事一人だけで砂橋のお目付け役をしているのかと妙に納得した。


「とりあえず、僕らは聞き込み調査ってことだね。弾正質問してよ」

「なんで、俺が……」

「元はと言えば、弾正がこの事件に関わりたいって言ったんじゃん。僕じゃないよ」


 それもそうだ。いつものように砂橋が事件の渦中にいるわけでも、依頼をされて事件に向き合っているわけでもない。


「熊岸刑事、前にもイベントスタッフには話を聞いたんですよね。前はなんて聞いたんですか」


「前は不審な人物や森川誠を見た人物がいれば、名乗りをあげてくれとイベントに参加していたスタッフたちに通達したくらいだな。具体的な時間と場所については聞いていなかった。新事実が分かったら、また改めて話を聞くかもしれないことについても言ってある」


「それなら、仮設テントの荷物置き場を利用した人間に森川誠のことを見た人間がいないかどうか質問するか……」


 森川誠が倒れていたベンチの後ろには、公園らしく木と茂みがあった。イベントの間、森川誠の死体をあの茂みの中に隠していたらどうだろうか。


 イベントの撤収作業が済んだ時に、死体を茂みから運び出して、ベンチの前に転がす。しかし、わざわざ茂みから死体を出す意味が分からない。死体をベンチの傍に転がすよりも見つからないようにずっと隠していればいいのに。

 いや、茂みに隠したとしても、人が視線を向ければバレてしまうに決まっている。


 しばらく、車の助手席でペンとメモ帳を取り出し、イベントの開催時間や死体の発見時刻などを書き込んでいると、いつの間にか、森川夫妻が経営しているイベント会社の前についていた。


「くれぐれも失礼のないようにな」


 熊岸刑事がじっと砂橋のことを見る。言外に「特に砂橋は」と言っているようだった。


 イベント会社に入り、受付の人間に熊岸刑事が警察である旨を伝えると、社長夫妻が不在の間、会社を任されているらしい男が慌てて受付までやってきた。

 スーツ姿の男は下村しもむらと名乗った。目の下に隈ができている。細い枝のような腕を動かす度に少しベルトが緩い腕時計が滑っている。


「イベントで使われていた仮説テントの裏が荷物置き場になっていると聞いたが、その荷物置き場に行った人間を中心に話を聞きたい」


 熊岸刑事がそう聞くと下村の顔色が悪くなった。


「もしかして……死体って、そこで見つかったんですか?」


 刑事がそのような質問をする意図を瞬時に理解した彼は視線を下げた。自分たちが仕事をしていた場所に死体が現れたなんて、誰も信じたくないだろう。

 死体が出ることは仕方のないことだ。人間はどこでも死ぬのだから。しかし、それが自分と関わる場所なら、人間は嫌がる。

 通勤電車に飛び込む人間だって、普段は気にはならないが、自分が使う電車が遅延すれば、嫌がる人間が多いように。


「ああ、そうだ。荷物置き場の近くにあったベンチの前で亡くなっていた。だから、目撃情報や気になるものがなかったかどうかを聞きたいんだ」

「分かりました……道具班を集めますね」


 詳しい内容までは話さなかったみたいだが、森川雄吾はあらかじめ部下に事情聴取の場所と事情聴取される人間の業務停止を指示していたらしい。


 俺達が会議室の一つに通されて、数分待っただけで道具班の人間の一人がやってきた。

 メモ帳を開いて、なにかを見ていないかというテンプレの質問をして、その答えをメモ帳に書き留める。一人に質問して、質問が終われば次の人を呼ぶ。その繰り返しだ。


 ほとんどの人間が「見ていない」「そもそも、茂みやベンチなんて気にしていなかった」と言う。まったくめぼしい情報を得られずに焦る気持ちだけが募っていく中、砂橋がおもむろに口を開いた。


「ねぇ、荷物の中に隠れてたとかはないの?」

「荷物、ですか?」


 砂橋が口を開いたのは、若い女性スタッフを相手にしている時だった「芝浦しばうら」と名乗った彼女は仮設テントでイベントに参加するバンドメンバーのためにケータリングをしていたらしい。お菓子など補充の必要があるものは仮設テントの荷物置き場に置いてあった段ボールの中に入っていたから、一番仮設テント裏の荷物置き場に行った人間だと言っても過言ではないだろう。


「それはないと思いますよ。人が入れるほどの大きさの段ボールなんて、一つぐらいしかありませんでしたし、その一番大きな段ボールはイベントの開始の時から一度も開いてませんでしたから。周りに他の荷物もありましたし、それをどかして人が入って隠れるのは不可能だと思います」


 記憶の糸を手繰り寄せるように芝浦は顎に手を当てて、首を傾げたまま答えた。


「一度も開いていないって、どういうこと?」


「最初から最後まで箱のガムテープが剥がされてなかったんです。たぶん、予備の機材かなにかだったと思います。私はケータリング業務しか行っていないので、機材についてはまったく分かりませんけど……とりあえず、壊したりしたら嫌だったので触りませんでした」


 彼女の話をそこまで聞くと砂橋は「もういいよ」とでも言いたそうに椅子に深く腰掛けて俺に目配せした。さっさとテンプレ通りの質問をして終わらせろとでも言いたいのだろうか。


 テンプレ通りに、荷物置き場の周りにスタッフ以外の人間がいなかったかと聞いても、彼女は「見ていません」と答えるだけだった。

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