15. くろいおばけ(1)



「ふえ――っくしゅ!」


 空の上は寒くて、ぐっしょり濡れた髪も服も凍りそうなくらい冷たくなってしまった。しかもプルウィアが魔法でわたしから肌着以外を全部はぎ取ったものだから、寒くて寒くて凍えそうだ。

 魔法で作り出された温風を当ててもらっているし、日差しはあるけれど、まだ寒い。真っ赤になった指先を吐息で温めてみても焼け石に水だ。


 屋敷を出る前にニゲルがたくさん着せてくれた羽織は、プルウィアの魔法によって固く絞られ、水を撒き散らした。

 一枚一枚広げられた衣服が風に揺れる。寒いから早く着たいけれど、今すぐあれを着たら冷たそうだ。早く乾かないかな。


「はい、次。残りも全部脱ぎなさい」

「ええっ、やだよ! はだかんぼになっちゃう!!」

「下から見えるわけないでしょ」

「それでもやだっ。屋敷に帰って着替えたいな。一枚だけでいいから服を返してよ」

「ええー? 常に服を着てなきゃいけないなんて、人間は面倒ね。兄様あにさまの儀式は終わったかしら……」


 生乾なまがわきで冷え切った服をわたしに着せてくれてから、プルウィアが高度を下げ始める。薄い雲を抜けると森が少しずつ近づいてきた。白い神殿と赤茶色の屋根が緑の中で鮮やかに浮かび上がって見える。

 ニゲルはまだ神殿にいるんだろうか?

 身を乗り出して下に目を向けると、ずうんと低くて鈍い音が響いた。


「何の音かな?」

「さあ? 神殿のほう――っ!?」

「ひゃっ」


 プルウィアが急に速度を上げたので、危うく舌を噛むところだった。風が強くて寒さが増す。


「どうしたの?」

兄様あにさまの結界が消えてるの!」

「えっ……」


 ぞわりと胸に黒い不安が広がった。

 急降下したプルウィアが、魔法でわたしを神殿の端にそっと降ろしてくれる。


兄様あにさまっ!」


 神殿の中央に横たわる黒い龍。人型に戻ったプルウィアが駆け寄っていったけれど、目に映る景色が信じられなくて、わたしは降ろされた場所から動けなかった。

 横向きに倒れたニゲルは、背中を丸めて胸に手を当てている。大きな顔の前に座り込んだプルウィアが彼を揺すった。

 

「ねえっ、兄様あにさま! どうしたの? ねえったら!!」


 叫ぶプルウィアの声が遠い。全身の血がすうっと冷えて、頭の中から言葉が一つ残らず消えたみたいだった。

 光の粒が帯になって、ニゲルの体に巻き付いていく。

 プルウィアは黙り込んでしまったし、ニゲルもピクリとも動かない。静かで、静かすぎて、不安だけが膨らんで、自分の鼓動の音がうるさかった。

 その時間が感じたとおりに長かったのか、本当は短かったのか、わたしにはわからない。


「……ぅ」


 小さく低いうめき声が聞こえてようやく、弾かれるようにわたしの足は走り出した。


兄様あにさまっ」

「ニゲル!」


 ぐったりと横たわり、荒い息を吐きだしながら、ニゲルが胸のあたりを押さえている。

 プルウィアの隣に座って目を凝らしてみたけれど、彼の胸には何もない。強く閉じられていたニゲルの目が開いて、わたしとプルウィアを順に見た。


「プル、ウィア……屋敷、の、結界を――」


 苦しげな声を聞いていたら、目が熱くなって視界がにじんだ。でも唇が震えてしまって、わたしの喉からは何の音も出せなかった。


「そんなの後でいいじゃない!」


 プルウィアの湿った声に、ニゲルが首を横に振る。


「屋敷に、は……三人が……」

「こんな時に屋敷に誰か来るとは限らないでしょ!?」

「頼む……」


 ニゲルに見つめられ、プルウィアはぎゅっと手を握りしめてうつむいた。それからぱっと立ち上がると、わたしを見下ろす。


「ここにも結界を張っていくから、兄様あにさまをお願い! すぐ戻るわ!」


 わたしは「うん」とも「待って」とも言えなくて、龍に姿を変えたプルウィアの背を見送るしかなかった。

 静けさが戻ってきた神殿で、ニゲルがわたしに目を向ける。


 どうしてって、何があったのって聞きたい。

 儀式は一人でできるって、全然大変じゃないって言ってたのにって。

 でも呼吸すら苦しそうなニゲルに喋らせちゃいけないから、唇をかみしめることで、あふれそうになる涙を必死で耐えた。

 震える手でニゲルの指を握る。彼の指がわずかに動いたかと思ったら、すごくあったかい魔法の光がわたしを包んだ。でもとたんにニゲルは目を強く閉じて背を丸める。


「……ぐっ」

「待ってニゲル! 大丈夫だから! 寒くないよ、寒くないから……っ」


 本当はすごく寒い。でも、寒さなんかどうでもいい。

 こらえきれなくなった涙が、ぽたりぽたりと石の床に落ちる。声がうまく出せない。無理しないで。動かなくていいよ。何も話さなくていいから、ゆっくり休んで。そう言いたいのに、口が動いてくれない。


 ――思い出したい。


 初めて強くそう思った。

 思い出とか、約束とか、きっと大事な記憶はいっぱいあるんだろうけど、全部捨てていい。忘れたまんまでいい。だから、今、魔法の使い方だけ思い出させてほしい。プルウィアみたいに魔法でニゲルを助けられたらいいのに。

 そう強く願った瞬間、


〈――なんじの願いは?〉


 聞き覚えのある声が耳元で響いた。


「……えっ」


 振り返ると、わたしの背後に禁書が浮いていた。本に顔なんてないのに、真顔でじっと見降ろされているように感じる。手を差し出されているような気がした。

 わたしが表紙を開けば、禁書はニゲルを助けてくれるかな?


 ニゲルの指がわたしの手を引くように動いたので、彼に顔を向け直した。ニゲルが首を横に振る。でも、って言いそうになった。辛そうなニゲルを見ているだけじゃ嫌だって。

 だけど突然ニゲルが体を起こしたので、反論しそこなった。


「ニゲル!?」


 黒い大きな体がわたしの視界をふさいでいる。彼の向こうに何があるのか全く見えない。

 知らない誰かの舌打ちが聞こえ、戸惑いながら立ち上がった。でもニゲルがまた動いてわたしの視界を塞いだので、体を横に傾けたりしゃがんだりして向こうを見られる場所を探す。


 どこか見覚えのある、真っ黒な靴が見えた。漆黒の服を身にまとった人物が持つ剣から、赤い液体がぽたりぽたりと落ちている。

 ふっと昨日見た夢が脳裏によみがえってきて、心臓が跳ねた。


『くろいおばけ、いるよ』


 夢を見た時と同じように、ノヴァの言葉を思い出した。


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