10. 夢うつつ(1)
ああ、またこの夢だ。
周囲は真っ暗なのに、目の前の本だけがくっきりと浮かび上がって見える。
ニ階建ての建物くらい大きな本だ。タイトルは読めない。表紙の
前回は何だろうと首を傾げたけれど、今ならわかる。これは祝福と呪いの禁書だ。
この間は立っていたら本に食べられちゃったんだっけ。
あの時とは違う行動をしたらどうなるんだろう?
本に背を向けて逃げ出してみる。走りながら振り返ると、本は徐々に遠ざかっていった。
――ぱしゃん。
足元で水音がしたかと思うと、つるんとすべって尻餅をついた。
下に広がる水たまりは少しだけ冷たくて、少しだけ温かくて、錆びた金属の香りがする。
自分の体を見下ろしたら、腰から下が鮮やかな赤色に染まっていた。
――ぱしゃん。
動いていないのに水が鳴った。
黒い足が浮かび上がって見え、びくりと肩を硬直させる。ゆっくり顔を上げると、わたしの前には黒尽くめの人間が立っていた。
顔は黒い布に覆われているからわからない。細身で身長は高い。彼だか彼女だかわからないその人は、鈍く光る剣をだらんと下げ、棒立ちしている。
ニゲルとは違う、混沌とした黒色だ。綺麗なものも汚いものも、全部まぜこぜにして溶かして固めたような、無秩序な闇色。見つめていると恐怖がじわりと広がっていく。
『くろいおばけ、いるよ』
ノヴァの言葉を思い出した。
『森には武器を持った人間がうろついている』
ニゲルはそう言っていた。
同じものを差しているのかなんてわからないのに、黒と武器が二つの記憶を呼び覚ました。
眼の前の人物の顔が動き、わたしを見下ろす。表情が全く見えないのに、向けられた視線が冷たい気がして肌が泡立った。
銀に光る剣の切っ先がわたしの胸元に突きつけられた。相手は何も言わない。
そのまま一息に差し貫かれそうな気がして、背筋を冷たいものが駆け抜ける。わきあがってくる恐怖に体が冷えていく。
〈
背後から、甘くしびれる声で誘われた。
いつの間にか禁書がわたしの後ろに浮いている。本に顔なんてないのに、なぜだか本が
――助けてやろうか?
笑みを含んだ声で、
◇
「ステラ!」
目を開けたらニゲルがわたしを見下ろしていた。
パラパラという雨音が鼓膜を叩く。寝室のベッドの上だ。そうだ、さっき、ニゲルに抱きしめられたまま眠りに落ちたんだ。
「大丈夫か? ひどくうなされていたが……」
「あ、うん、ちょっと怖い夢を見ただけ」
ぬくもりに包まれて眠っていたはずなのに、体は冷えきっていた。
起き上がり、震える体を抱いて無理やり笑ってみる。少しでも気分を浮上させるために。
でもうまくいかない。困ったな。ただの夢だ。ただの夢なのに。
「ステラ、大丈夫だ。夢は現実まで追って来られないよ」
「うん……」
ニゲルに抱きしめられ、少しだけ気持ちが落ち着いた。体温と一緒に穏やかな心を分けてもらったみたいだ。
どうしてあんな夢を見たんだろう。
禁書を見たせい? でも、それなら、あの黒づくめの人間は誰?
〈
禁書の声がまだ耳に残っている。
願いなんてない。何が起こるかわからない呪いを受けてまで、叶えたいと願う強い想いなんてないよ。
なのにどうして、あの声が心に焼き付いて離れないんだろう。
「ステラ、どんな夢だったか聞いてもいいかい?」
「あ……うん」
夢の内容を告げる。人間に剣を向けられたことを話すと、わたしを抱くニゲルの腕に強い力がこもった。表情はよく見えないけれど、雰囲気が少し怖い。
「ニゲル、ちょっと痛いよ」
「あ、ああ……ごめん」
わたしから体を離したニゲルは、いつもみたいに穏やかな笑みを浮かべていた。
「ねえニゲル、わたしの夢に出てきた人間に心当たりはある?」
「……どうかな」
ニゲルの視線が一瞬惑い、目が伏せられる。しばらく考えていた彼の口が開いたかと思ったら、また閉じた。
窓をちらりと見てから、ニゲルはわたしの頭を軽くなでる。
「少し、見回りに行ってこようか」
「え?」
「俺がどう答えても、君が不安なのは変わらないだろう? それなら周囲の様子を見てこようか。この雨だし、何も見つけられないかもしれないが」
「でも、疲れてるんでしょ? 雨も降ってるし」
「
「……うん」
ニゲルが窓を開け、龍に姿を変えながらするりと部屋を抜け出していく。器用に脱がれた服だけがぽつんと残された。
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