09. 番(つが)う覚悟

 ニゲルが部屋に戻ると言うので、わたしもマレに声をかけてから寝室に足を向けた。


 外の雨は強くも弱くもない。雨粒が細長い糸のように伸び、屋敷に降り注いでいる。さあさあと、ざあざあと、静かな雨の歌が廊下に響いていた。少しだけ肌寒い。


 自室の戸を開けると、ニゲルはベッドにごろんと転がってくつろいでいる。

 そういえば昼寝をすると言っていたけれど、たぶん、さっきの騒ぎで眠れなかったんだろう。

 ちょっと迷ってから、わたしもニゲルの隣に寝転んだ。うつ伏せになって頬杖をつき、ニゲルの顔を見下ろしてみる。

 何度見ても綺麗な黒色。髪にも、瞳にも、吸い込まれそうだ。でも、ちょっとだけ顔色が悪いかも?


「ニゲル、疲れてる?」

「ああ、慣れないことをしたせいかな。今日は素直に疲れたよ」

「慣れないこと?」

「君とプルウィアに隠し事をしたり、真面目な話をしたりね」

「でも、探偵ごっこはちょっと楽しかったよ」

「そうか」


 淡く笑ったニゲルの指が、わたしの髪を一房すくい上げる。長くて細い指だ。関節の節や骨の形が少しだけ目立つ。

 ニゲルの視線がわたしの手首に移動したかと思うと、彼の手がほんの少し赤くなった肌に触れた。


「気づくのが遅れて悪かった。これはプルウィアか?」

「うん。でも、大丈夫だよ」


 少し強くつかまれただけだ。痛みは徐々に引いてきたし、たぶん明日までに治るだろう。

 でもニゲルはとても痛そうに表情を歪めた。


 ニゲルの指先がほのかに光る。小さな光の粒が帯になって、包帯みたいにわたしの手首に巻き付いた。魔法の光は少しだけあたたかい。パチンと弾けて光が消えると、痛みと赤みは急速に引いていった。


「どうだ?」

「もう痛くないよ。治してくれてありがとう」


 笑って見せたけれど、ニゲルの表情は曇ったままだ。


「痛い思いをさせて悪かった。俺の判断ミスだ。プルウィアの注意を神殿に向けることには成功していたし、少しくらい離れても大丈夫だと思ったんだ」

「ニゲルが悪いわけじゃないよ」


 あの時プルウィアは神殿で黒いお化けを探すと言っていた。そのプルウィアに書庫のことを告げたのはわたしだ。……言わなきゃよかった。


「ねえ、プルウィアは大丈夫かな?」


 一人で考えてみると言っていたから、邪魔はしちゃだめだと思う。でも雨の音が響く部屋で、一人っきりで、心細くはないんだろうか。

 わたしだったら少しさみしい。誰かがそばにいてくれたらいいなと思う。


「ああ、禁書に近づけさえしなければきっと大丈夫だよ。せっかちが災いして少し蹴つまづいてしまっただけで、プルウィアは、誰かとつがう覚悟を自分一人で決められた強い子だから」

つがう覚悟って?」

おれたちは個体によって時間の流れ方が違う話はしたかな。三十年足らずで生を終える龍もいれば、何百年も生きるものもいる。だから誰かとつがうと決めるには覚悟がいるんだ。相手を失ってから永い時を一人きりで過ごす覚悟、もしくは、過ごさせる覚悟」

「……うん」


 揺れた心を静めるように、唇をきゅっと結ぶ。まださっきのプルウィアの言葉が耳に残っていた。

 人間は簡単に死ぬじゃないーーその言葉はきっと正しい。ずっと一緒に生きようと誓うには、人と龍は持てる時間が違いすぎるから。


おれたちが群れずに生きることにはたぶん意味があるんだ。一人眺める宵月に、雨音を聞く時間に、淡い寂しさを感じることはあっても、それはやさしい孤独だ。誰かが隣に寄り添ってくれる幸福を知らないうちは、それが当たり前だから。でも一度ひとたび誰かがいる幸福を得てしまえば、知らない頃には戻れない」


 覚えてはいないけれど、プロポーズしたのはわたし。どうせわたしのことだから、考えなしに勢いで言ったんだろう。長く生きるニゲルにそんな覚悟をさせることなんて思いもせずに。

 視線を落とすと、ニゲルの硬い手がわたしの頬に触れた。


「そんな顔をしないでくれ。俺は君を知る前に戻りたいとは思わないし、この先も君を愛したことを悔いはしないよ」

「……でも」 


 さびしいのは嫌い。悲しいのも、つらいのも。自分が残されるのは嫌。でもニゲルがさびしいのは、もっと嫌だ。想像するだけで胸が潰されたように苦しい。

 ニゲルが身を起こして、わたしに顔を寄せてくる。優しい目がすぐそばでわたしを見つめていた。


「ステラ、君に笑ってもらうにはどうすればいい? 君を笑顔にするためなら、俺は何でも差し出すよ」


 そんなことを言われても、何を頼んでいいのかわからない。悩んでふと思い浮かべたのは、しゅんとしたときのノヴァだった。


「……じゃあ、ぎゅってして」

「いいよ。おいで」


 力を抜いて横になると、ニゲルの腕がわたしを引き寄せる。服ごしでもわかる厚い胸板が目の前にせまって、心臓が飛び跳ねた。

 うっひゃあ! 何を頼んじゃったんだわたしは!


 ふわっと優しい香りに包まれて、穏やかな心音を聴く。動揺しているのがわたしだけで、ちょっと悔しい。


 でもぬくもりに抱かれて頭をなでられているうちに、少しずつ気持ちが落ちついていた。

 あったかくて、幸福に満たされて、心がとけて、眠くなる。

 このまま寝てしまえたらどんなに幸せだろう。


 でも、ねえ、ニゲル。

 わたしは聞きたいことがあるんだよ。


「教えて、ニゲル。わたしは――禁書に何か願ったの?」


 その言葉を口にした途端、ニゲルの心臓が強く脈を打った。


 ああ、やっぱりそうなんだ。

 わたしは禁忌に触れたんだね。


 この世界の魔法では記憶を消すことはできないと、プルウィアが言っていた。

 でも禁書の呪いはこの世界のことわりでは不可能なことを可能にすると、ニゲルが言っていた。


 プルウィアが前に屋敷を出たときには、書庫には何もなかった。

 でも禁書は百五十年も前に現れたとニゲルは言った。


 じゃあ前はどこにあったんだろう。

 プルウィアが知らなかった場所。わたしが知る限り神殿の地下室だけだ。

 そこは倒れたわたしをニゲルが見つけてくれた部屋でもある。


「ねえニゲル、わたしは何を願ったの?」


 待ってみたけれど、答えはない。

 視線を向けてみると、ニゲルは表情を歪めて目をそらした。


「……俺は、その場にはいなかったよ」

「でもニゲルなら、過去のわたしの願いが何だったのか知ってるかなって」

「……」


 また空白の時間が生まれる。目を伏せたニゲルが息をついた。


「君に対しては正直でありたいと思っている。でもこの件について、俺は勝手な推測を告げることはできない」

「そっか」

「すまない……」


 わたしを抱く腕に力がこもる。ニゲルがすごく辛そうに見えたから、わたしも彼の背に手を回した。

 とん、とん、とん。軽い力で彼の背を叩く。大丈夫だよって伝えたくて。


 わたしは何を願ってしまったんだろう。

 きっとニゲルは、さっきプルウィアに対してそうしたように、禁書に頼らず願いを叶える方法を一緒に考えようと、わたしにも言ってくれる。

 なのにわたしが禁書を開いてしまったのはどうしてだったんだろう。


 柄にもなくあれこれ考え事をしていたら疲れてしまって、ニゲルのあたたかい腕の中で眠ってしまった。


 そしてまた、おかしな夢を見た。


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