08. 書庫の奥には(2)
ダイニングに戻ったわたしたちに、マレが温かいお茶をいれてくれた。
喉から流れ込んだぬくもりが、冷えた体をじんわりと温めてくれる。青ざめていたプルウィアの顔にも血色が戻ってきた。
一息つくと、さっき書庫で見たものは白昼夢だったのではないかと思えてくる。でもダイニングに満ちる重い空気が、赤くなった手首が、夢ではないと告げている。
「私はキッチンにおりますので、何かご用がありましたらお声がけください」
一礼したマレが出ていき、部屋の中がいっそう重たくなったような気がした。
ニゲルがため息をついてから、わたしたちに目を向ける。
「君たちが見たあの本は〝祝福と呪いの禁書〟と呼ばれているものだ。禁書を開いた者は願いを叶えてもらえる代わりに呪いを受ける。どんな炎の中にあっても燃えず、どんな刃でも傷つけられない。この世界の
「火の中……ニゲルは試したの?」
「ひととおりの破壊方法や隠し方は試したさ。火にくべても焦げ跡ひとつつかない、水に沈めてもヨレすらせずに水面に上がる、俺の魔法や牙でも破れない、埋めれば自然と浮かび上がってくる。俺には鎖で巻いて結界の中に押し込めるのが精一杯だったよ。……まあ、その結界もさっき消されたわけだが」
ニゲルが苦笑を広げる。でもすぐにまた真面目な表情になり、息をついた。
「稀代の魔女が恋破れた末に作った代物とも、気まぐれな魔法使いが遊び半分で作った物とも、世界を渡ってきた本とも言われている。だが本当のところは誰にもわからない。禁書が扱う魔法も、呪いも、この世界の
「どうしてそんな本がこの屋敷にあるの?」
「百五十年くらい前に突然現れたんだ。なんの前触れもなくね。……きっと、いつか唐突にここから去るんだろう。俺にできるのは、禁書がここにある間、できるだけ誰にも使われないようにすることだけだよ。かける願いによっては国の一つや二つ簡単に消しかねないし、受ける呪いもわからないものだから」
ちらりと隣に座るプルウィアの様子をうかがう。書庫を出てから一言も発していない。何かを考えているようにも、ただ呆然としているようにも見えた。
「プルウィア」
ニゲルに呼ばれ、プルウィアが肩を揺らす。いたずらを見つかった子供みたいにびくっとして、視線をテーブルの上に落とした。
「書庫に入ったことを責めはしない。無理強いはせずに待つつもりだったが、そうもいかなくなった。プルウィア、何があった? 困っているなら相談してほしい。できる限りの力になりたい。
強い声。テーブルの上でプルウィアが握りしめた手に、わたしの手を乗せてみる。たぶん、わたしにできることなんてないんだろうけど、せめて隣にいるよって伝えたかったから。
プルウィアがそろりとわたしを見上げてくる。彼女が顔を寄せてきたので、わたしも耳で受けた。
「あのね」
「うん」
ひそひそ声に、小声で返す。
なんだろ、ニゲルに言えない話かな。
「……好きな人ができたの」
たっぷり三秒くらい、思考が止まった。
「えっ、恋バナ?」
「声が大きいッ!」
「ご、ごめん」
体を離してプルウィアを見ると、赤くなった顔の上で眉が吊り上がっている。探偵ごっこの間は頼もしく見えた彼女が、今は年下の女の子の顔をしていた。
ニゲルは目を丸くしてこちらを見ている。わたしの発言は聞こえた、よね。うん、たぶん。
「へえ、どんな子?」
「ボケっとしたやつよ。怖がりだし、頼りないし……でも、優しいの」
「うんうん、それで?」
禁書の話を聞いていた時とは別の意味でドキドキする。身を乗り出してプルウィアに近づくと、「寄りすぎ」とおでこを押された。
「この間、好きだって伝えたの」
「うんうん」
「『僕も好きだよ』って返してもらえたんだけど」
「うん」
「『じゃあ今すぐ結婚して』って言ったら、『えっそれは無理』って即答されたのよ」
「ええーっ? なんでー!?」
「知らない」
ぶすっとした顔でプルウィアがわたしから顔を背ける。ピンクに染まってふくらんだ頬が可愛い。
さすがプルウィア、自分から告白するなんてわたしにはできないや。
「だから、その……
――ん? あれ?
誰が? 誰を? 口説き落としたって??
ひととおり考えてみたけれど、今のプルウィアの発言はどう解釈してもそういうことだ。
「……わたしがニゲルにプロポーズしたの?」
「そうよ? まあ、覚えてないんでしょうけど」
「じゃあ、『わたしたちのプロポーズはどんなだったの?』っていう質問に誰も答えてくれなかったのは」
「そりゃあ誰にも言えないでしょうよ。言った本人が忘れてるんだから。しかも告白をすっ飛ばしていきなり求婚したなんて」
「ええーっ!!」
過去のわたし、そんなことしたの!?
「それはどんな風に? わたし、何て言ったの!?」
「そんなの
わたしの頭を両手で挟んだプルウィアが、ぐいとニゲル側にわたしの顔を向ける。
ニゲルはうつむいて両目を押さえていた。服の袖から覗く腕が、黒髪の隙間からちょんと出た耳が、ほんのり赤い。
「とんだ流れ弾だ……」
絞るように吐き出された声はため息混じりだった。
「ねえニゲル」
「プルウィアの! 話を、しよう。な!」
動揺混じりの、ニゲルにしては大きな声が響いた。
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