01. 記憶喪失の巫女(2)
部屋に飛び込んできた謎の生き物は、空よりも深い青色をしていた。
丸っこい、ぷくぷく可愛く太ったとかげみたいな頭と体、それから尻尾。細く短い手足が胴体にちょんとついている。
とかげと違うのは、体がつやつやの鱗で覆われていることと、頭に細長い角がついていることだ。
黒いスカートと薄桃色のエプロンを腰に巻いたその生き物は、わたしを見るなり、つぶらな目を涙であふれさせた。
「ステラ様あああああああ!」
「な、なにっ?」
足の長さに見合わない速度で駆け寄ってきたその生き物は、わたしにぴょんと飛びついてきた。
背丈はわたしの腰下くらい。ぷっくり太いのに、想像したより軽い。
「無事お目覚めになられたこと、心よりお喜び申し上げますう!」
「えっとありがとう。ところであなたの名前は」
「信じておりました! 信じておりましたとも! ステラ様は必ず目を覚ましてくださると!」
「あのう、名前……」
「はっ、お食事ですよね! すぐにご用意いたします!」
「だから名前」
「お夜食ということでスープにいたしましたが、心を込めて作らせていただきました!」
「聞いて!」
青い生き物はわたしからサッと飛び降りて、また廊下に走っていく。
だめだ、全然聞いてくれない。
ニゲルの従者なんだろうけど、人間じゃないのはいいんだけど、名前は教えてほしい。
青い生き物が出ていった廊下に目を向けていたら、小さな光の粒がキラッと光った。
たくさんの光の粒が帯のように広がって、ふわふわと空中で揺れている。光の帯は湯気の立ち上る器やトレイ、コップを引き連れて部屋に入ってきた。
「……わあ」
なんて綺麗なんだろう。まるで星の川みたい。
淡い光の帯は部屋のテーブルの上まで伸びてきて、トレイ、スープの入った器、コップ、スプーンの順でテーブルに乗せていく。
初めて見たけど、これが魔法だよね?
「すごいすごい! 今の、どうやってやるの!?」
食器のあとから部屋に戻ってきた青い生き物に顔を向けると、彼女は自分の頬に小さな手を当てた。
「ステラ様も魔法をお使いになられましたが……それも忘れてしまわれたのですか?」
あれっ、今度はちゃんと返事があった。
目を丸くしていたら、青い生き物は自分のスカートの両端をちょんとつまんでお辞儀をした。
「先ほどは興奮してしまい、失礼をしました。私はニゲレオス様の従者の一人で、マレと申します。お食事の用意や掃除のほか、ステラ様の身の回りのお世話もさせていただいています」
「
「はい。さあさ、冷める前に召し上がってくださいな」
マレに促されるまま椅子に座り、スープを口に運ぶ。温かくて、優しい味がした。
お腹が空いていたわけでもないのに、美味しくてぺろっと平らげてしまった。
「ねえ、マレはえっと……トカゲ?」
「龍でございますっ!」
ちょっと強めに否定された。
龍というにはだいぶ丸っこ――いや、可愛い気がするのだけど。
マレは両手を腰に当て、わたしに背中を見せてきた。
「ご覧ください、この立派な角! ウロコ! どこからどう見ても龍でございましょう!?」
「……うん、ごめんね」
どこからどう見てもわかんないや。
龍ってもうちょっとこう、細くてシュッとした生き物じゃなかったっけな?
「じゃあ、ニゲルも龍なの?」
「はい。ニゲレオス様は我々龍族の王にございます」
「へえ」
あれっ、王様ってことは、すごい人だよね?
わたしはそんな人と結婚したの??
「ニゲレオス様はそれはそれはご立派な王なのでございますよ!」
目をキラッと光らせたマレが、ぴょんと飛び上がった。浮き上がってわたしの目線の高さと同じ位置で静止し、両手を越しに当てて胸をそらしている。
「龍の寿命は生まれ持った魔力の強さによって決まりますが、口伝によると歴代の龍王様方の平均寿命がニ百年というのに対し、ニゲレオス様は三百歳を過ぎてもあの若々しいお姿を保っておられます」
あ、またスイッチ入っちゃった。
「そしてそのような長い間、人の子や他の龍たちから恐れられても王の責務を怠ることなく続けておられます」
マレは小さな手をバタバタ動かしたり、握りこぶしを作ったり、せわしなく動きながら鼻息荒くしゃべり続けている。
これは話かけても聞いてもらえないやつかなあ。
「だいたいの龍は人を避けるものですが、人の子の学問や発明なども常に学んでおられます。我々の中で一番の博識ですし、ですから、その……」
マレが自分の胸の前で小さな手をもじもじと交わらせたかと思うと、ずいと前に出てきてわたしの手の指を握った。
「なので、大丈夫です! 記憶だってきっとどうにかなりますとも!」
……あ、そっか。
わたしをじっと見つめてくるマレの手を握り返し、にっこり笑う。
「ありがとう、励ましてくれたんだね。わたしは大丈夫だよ? 記憶くらいなんとかなるよ」
そう口にしたら、本当になんとかなるような気がしてきた。
何もない場所で目覚めたわけでもないし、マレのおいしいご飯もあるし。うん、なんとかなるなる。
それに覚えてないってことは、何にでも初めてのドキドキを味わえるってことじゃない? 楽しそうじゃない?
笑みを広げたけれど、マレのつぶらな藍色の目に涙がたまっていく。
わたしの指がさっきまでより強く握られた。
「ステラ様……! このマレ、今後も誠心誠意、お二人にお仕えいたしますからね!!」
「あ、うん、ありがとう」
龍に仕えてもらうって、なんだか変な感じ。記憶を失う前のわたしにとっては当たり前のことだったんだろうか。
わたしから手を離したマレは、少し下がって腰のエプロンで涙を拭く。
「ニゲレオス様のおっしゃったとおり、ステラ様はステラ様でございますね。少し安心いたしました」
ニゲルにも同じようなことを言われたけど、それはどういう意味なんだろう。
「そういえば、ニゲルは?」
「ニゲレオス様は……あら?」
マレが扉を返り見る。つられてわたしも扉に視線を向けたら、ニゲルがひょっこりと顔を出した。
「なんです、廊下でお待ちだなんて。入っていらっしゃればよろしいのに」
「お前の賛辞がむずがゆくて、入るに入れなかったんだ。俺はそんな立派な王ではないよ」
「またまた、ご謙遜を」
ふふっと笑ったマレがテーブルの上の食器を指差す。途端に食器の周りがキラキラ光って、ふわりと浮き上がった。
「では、私は下がらせていただきますね。明日の朝食はダイニングにご用意いたします。それでは、お休みなさいませ」
「ああ、おやすみ」
「おやすみなさい」
マレが食器を引き連れて部屋を出ていく。パタンと扉が閉まった途端に静けさが落ちてきた。
ニゲルを見上げてみると、彼は首を横に傾ける。
「それで、部屋を分けなくて本当にいいのか?」
「うん。いつもどおりにしてよ。そのほうが、何か思い出すかもしれないし」
「ステラがいいなら……試してみるか」
ふむと頷いたニゲルの影が、わたしにかかる。
目を瞬いていたら、前髪ごしに額にキスを落とされた。
触れるか触れないかの優しいキス。
「ひゃっ! な、なに!?」
「君がいつもどおりにしてくれと言うから」
「これがいつもどおりなの!?」
心臓がばくばく音を立てている。顔が、触れられた額が熱い。
両手で額を押さえていたら、ニゲルが困ったような表情になった。
「不快なら謝る。悪かった」
「いやっ、嫌じゃない、けど、びっくりしたっていうか……」
嫌じゃない? あれっ、嫌じゃない??
口から出た言葉に、心はあとからついてきた。
ほっとしたように笑ったニゲルの顔がすごく綺麗に見えたからドキドキして、わたしは今からこの人と一緒に寝るんだよねと想像してまたドキドキした。
ニゲルが指を一振りすると、部屋の明かりがふっと落ちる。
「じゃあ、おやすみ。ステラ」
どぎまぎしているわたしをよそに、ニゲルはベッドに入って早々に寝息を立て始める。
ええっ、なにそれ。
動揺したわたしがバカみたいじゃない?
「……龍ってわかんないなあ」
寝顔を眺めてみても、二十代半ばくらいの人間にしか見えない。
さっきの話のとおりなら、彼はもう三百歳を過ぎているって話だったけど。
「三百歳……」
数字が大きすぎてピンとこない。
ニゲルが「年齢に対する感覚が違う」と言っていたけれど、三百歳から見れば十五歳だろうが二十歳だろうが「おちびさん」かなあ。
……いや、別に、気にしているわけではないんだ。
ただちょっと、その、悔しかっただけで。
「……あ」
窓から差し込む月明りしかないから、もしかしたら気のせいかもしれないけれど、ニゲルの目元にうっすらとくまが見えた。
もしかして、眠るような時間になっても、わたしの手を握っていてくれたのかな。
いつから? ずっと――?
胸にあたたかな何かがじんわり広がっていく。でもその気持ちを何と呼んでいいのかわからない。
ニゲルは、自分をわたしの夫だと言った。
じゃあ彼はわたしのことを好きになってくれたのかな。記憶を失う前のわたしは、ニゲルのことが好きだったのかな。
わからない。
わからないけど、そうだったら素敵だな。
ニゲルの横に転がって彼を眺めていたら、わたしもいつの間にか眠ってしまった。
そして――なんだかヘンテコな夢を見た。
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