【完結】記憶喪失の巫女は龍の王に溺愛される

夏まつり🎆「私の推しは魔王パパ」3巻発売

01. 記憶喪失の巫女(1)



 わたしの手を握っている男のひとは誰だろう。


 目を開けたら知らないひとがいて、しかも自分が知らない部屋のベッドで寝ていて、わたしはパチパチとまばたきをした。


 ここがどこなのかも、どうして寝かされていたのかもわからないのに、そんな混乱は今のわたしにとっては〝そんなこと〟だった。


 きっと美しいという言葉はこの男のひとのためにあるんだろうな――そんな考えが頭を満たしていて、そのほかのことは蚊帳の外のささやきだったから。


 男のひとは髪も、瞳も、すべての光を吸い込んでしまいそうな純粋な黒。

 混じりっ気のない、静けささえ感じる純粋な黒色は、光を散りばめた夜空よりもずっと美しいんだと、初めて知った。


「ステラ! よかった、目が覚めたのか」


 低い声だけど怖くはない。どこかぬくもりを感じる不思議な声音。


 男のひとがほっと息を吐くと同時に、彼の表情がゆるむ。整った顔の中に生まれた笑顔がとても綺麗に見えた。

 最初は冷たく感じた切れ長の目も今は優しいカーブを描き、わたしに向けられている。


 こんなに美しいひと、他に見たことあったかな。

 他の誰かの顔を思い浮かべようとしたけれど、不思議なことに誰の顔も浮かばなかった。


 あれ? そういえば、わたしはどんな顔をしていたっけな?


「……ステラ? 俺がわかるか?」


 男のひとの笑みが不安げな表情に変わって、胸がざわざわした。


 だめだ、こんな顔をさせちゃ。

 そう思うのに、目の前の男のひとが誰なのかはやっぱりわからない。


「ごめんね、わかんない。あなたは誰?」

「……っ、そうか……」


 彼が目をみはる。

 ぽっかり空いた暗闇みたいな瞳孔の奥で悲しい光がちらついた気がして、気持ちがきゅうとしぼんだ。


 男のひとがわたしの手をベッドに置いて、少しだけ体を離す。

 ちょっと遠ざかっただけなのに、どうしてだか急にさみしさが襲ってきた。


 知らないひとだ。

 でも、彼がしゅんとしているとわたしは悲しい。

 彼が離れるとすごくさみしい。

 それはどうしてなんだろう。


「俺の名はニゲレオスだ」


 ニゲレオス――そっか。きっとこのひとのお母さんは、このひとの美しい色を名前にしようと思ったんだろう。だってこんなに綺麗なんだもの。

 光と一緒にわたしの視線も吸い込まれてしまったようで、まだ目が離せない。


「君は自分の名は覚えているか?」

「うん。わたしはステラだよ」


 名前は覚えているのに、わたしは今までどんなふうに生きてきたのかは何も思い出せなかった。


「体の調子はどうだ? 具合の悪いところや、違和感のあるところは?」

「うーん、なさそう」


 そういえば、ここはどこなんだっけ?

 体を起こして見回してみる。見覚えのあるものは何もない。


 広くて清潔な部屋だ。わたしが寝ていたベッドもすごく広くて、三人くらいは一緒に寝られそう。

 大きな窓の外には星空と月が見える。でも、部屋の中は昼間みたいに明るい。


「なら、名前のほかに覚えているものはあるか?」

「わかんない。ここはどこ?」

「この建物は俺たちの屋敷で、この部屋は俺と君の寝室だ。俺たちは結婚していたんだよ」

「ニゲレオスがわたしの旦那様なの?」


 こんなに綺麗な人がわたしと結婚?

 期待がふくらんで、ふわっとお尻が浮いたような気持ちになった。もちろん、実際には一ミリだって浮かんではいないのだけど。


 でもわたしの気持ちとは反対に、ニゲレオスはさびしそうな笑顔になった。


「そうだ。だが、知らない男に夫だと言われても困るだろう。俺のことは君の世話役だとでも思えばいいし、今日からはこの部屋をステラ一人で使いなさい。もし俺を思い出すことがあれば、またニゲルと呼んでくれ」

「待って」


 ニゲレオス――ううん、ニゲルの服の袖をつかまえる。

 彼を、さびしい気持ちのままにさせたくなかったから。


「まだ思い出せないけど、わたしはあなたをニゲルと呼ぶね」

「だが……」

「わたしが呼びたいの。いいでしょ? 部屋も出ていかなくていいよ。これまでどおり、一緒に使おうよ」


 わたしは笑みを広げたけれど、ニゲルは困り顔になった。


「ステラ、君はもう少し知らない男を警戒なさい」

「でも、ニゲルはわたしの旦那様なんでしょ?」

「もし嘘だったらどうする?」

「嘘なの?」

「いや……嘘ではないが……」


 ニゲルの声に困惑が混じっていく。

 目をしばたいていると、彼の左手がベッドの上に乗せられた。


「よく知らない男を部屋に気軽に入れると、たとえばこういうことをされてしまうかもしれないよ」


 ニゲルの右手がわたしの頬に添えられ、彼の顔が近づいてくる。

 近くで見る瞳の黒色がやっぱり美しくて、光と一緒にわたしの視線も吸い込まれていった。


 吐息が頬にかかる。

 まつ毛同士が触れ合いそうな、少し動けば唇が重なりそうな距離。

 微妙な距離で静止したニゲルが、まぶたで瞳を隠して体を離した。


「ステラ、知らない男にキスされそうになったら、逃げるか抵抗するかしなさい……!」

「え!?」


 キス、って、えっ!?

 さっきの顔の近さを思い出し、今頃になって恥ずかしさが襲ってきた。

 やだ、顔が熱くて頬がとけそう。


 難しい表情を片手でおおったニゲルがため息をつく。


「俺は、俺の奥さんが無防備すぎて不安しかないよ」

「違うの、その、ニゲルの黒い目が綺麗だなって思ったらぼおっとしちゃって」

「……普通、人の子は俺の色を怖れるのにね。果てのない暗闇に飲み込まれそうだと。俺の黒を綺麗だと言うのは君くらいだよ」

「こんなに綺麗なのに?」


 わたしの問いに、ニゲルは答えなかった。ただ少しさびしそうな笑みを浮かべただけ。

 ニゲルはあまり、自分の色が好きじゃないんだろうか。

 いつまでも見つめていたくなるような美しい色なのに。


 腕を伸ばし、両の手のひらでニゲルの頬に触れる。彼の頭を包み込むように。


「ニゲルの黒は、他のどんな色より綺麗だよ」


 大事なことだから、しっかり伝えておかなくちゃ。

 丸くなった黒い目をじっと見つめていると、ニゲルはふっとふきだした。


「何を忘れても、ステラはステラだな」

「どういう意味?」

「同じセリフを、記憶を失う前の君からも聞いたよ」

「ええーっ」


 ニゲルから手を離す。

 ぶうと頬を膨らませていたら、ニゲルが首を傾げた。


「どうした?」

「なんだか先を越されたみたいで嫌」

「両方ステラだろう」

「違うの!」


 体は同じなのかもしれないけれど、覚えてない以上はわたしじゃない。ふくれっ面をおさめられずにむくれていたら、ニゲルは「ははっ」と声をあげる。


 眉尻も目尻も下げて屈託なく笑う彼を見ていたら、頭の奥がしびれて何も考えられなくなった。

 彼の黒に吸い込まれていった光の粒が、笑顔の周りで弾けてキラキラ輝いているような気がして。


 いつの間にか早鐘を打っていた心臓に服の上から触れる。

 心の温度なんてわかるはずがないのに、ひどく熱いと思った。


「ニゲルは本当に、わたしの旦那様なんだよね?」

「ああ、そうだよ」

「だったら、その、わたしたちはもうキスとかしたのかな……っ!?」


 火照ほてった頬が熱い。

 でもどうしても確かめたくなって、わたしは声を絞り出した。

 肯定されたいような、されたくないような、微妙な気分だ。もししたよと言われたら、わたしは過去の自分に嫉妬してしまいそうだから。


 ニゲルはきれいな顔でまたふっと笑って、わたしの頭に片手を乗せた。

 優しく髪を梳かれ、心臓の動きがさらに速くなる。

 でも、


「それは君が大人のレディになってからだと思っているよ。おちびさん」


 なんだか小さな子供をあやすような響きにむっとして、わたしは口をとがらせた。

 さっきキスしようとしたのは何だったの? からかわれただけ?


「じゃあ、その〝おちびさん〟と結婚したニゲルはロリコンなんだね」

「……そういう言葉はしっかり覚えているんだな」

「あれ? ほんとだ」


 そういえば、どうしてだろう。

 わたしは夜をノックスと呼ぶことを知っている。スカイを、アビスを、周りにあるものの名前を知っている。でもニゲルのことや自分のことは何も思い出せない。


 わたしの記憶喪失は魔法のせいなんだろうか。魔法ならこんな不思議なことも起こるだろうと、なぜだか確信をもってそう思う。

 使い方を思い出せないどころか魔法というものを見た記憶すら残っていないのに、魔法は存在すると知っている。


「わたしがいろんなことを忘れてしまったのは、何かの魔法のせいなの?」

「ああ、きっとね」

「ニゲルはわたしが記憶を失った理由を知っているの?」

「いや。俺は倒れている君を見つけただけだ。何があったのかは知らないよ」

「そう……」


 わたしは何の魔法にかかったんだろう? 何があったんだろう?

 忘れているのだから、考えたところで答えは出ない。

 でも自分のことはさておいても、ニゲルのことは思い出したい。どうしてこんなに美しい人がわたしと結婚してくれたのか知りたい。


「一つだけ誤解を訂正しておきたい。ステラが思い浮かべたであろう人間の結婚と、俺たちの結婚は少し違うよ。俺は人ではないからね」

「えっ、違うの?」

「違うよ。俺たちは繁殖のためにつがうわけではないし、年齢に対する感覚も違う。人の子の常識に照らし合わせてロリコンと言われてしまうと少し困るな」


 わたしの頭から手を離して苦笑したニゲルを改めて眺めてみる。耳が尖っているわけでもなければ角が生えているわけでもない。どこからどう見ても人間としか思えなかった。


「もう外は暗いから、明日になったら俺の本当の姿を見せてやろう。うちの従者たちもみな人ではないから最初は驚くかもしれないが……ステラなら大丈夫だろうね」


 穏やかな笑みを浮かべてニゲルが立ち上がる。


「何か食べられそうかい? 可能なら、少し食べてから朝までもう一度眠るといい」

「あ……うん」


 反射的に返事をしてから、さして空腹でもないなと不思議に思った。

 どれくらい寝ていたのかは知らないけれど。


「あんまりお腹は空いてないよ」

「そうか。では少しにしよう」


 ニゲルが部屋を出ていってしまったので、わたしもベッドを降りてみた。

 体に違和感はない。その場で何度かジャンプしてみたけど平気。


 部屋の端に置かれていた鏡の前に立ってみると、十代半ばくらいの女の子が映った。

 淡い黄色のくせっ毛を肩の上で切りそろえた、青い瞳の女の子。

 それはわたしでしかないはずなのに、知らない子だなあという印象を持った。


 でも同時に、ああだからわたしの名前はステラなのだと、妙に納得もした。

 淡い髪色が星の光に似ている。


 自分で言うのも何だけど、まあまあ可愛いと思う。でも身長は低いし胸もあんまりないし、ニゲルに釣り合いそうな〝大人の女性〟には程遠い。


「おちびさん……」


 悔しいけれど、さっきニゲルに言われたことを否定できないかも――いや! わたしはこれから育つんだ。

 そう、きっと美人でボインで素敵な女性に………………なるかなあ?


 窓に寄って外を眺めると、たくさんの木が見えた。木々は窓より高くまで伸びている。たぶん森が広がっているのだろうけれど、月明かりだけでは近くの木くらいしか見えない。


 朝になればもう少し周りの様子がわかるかな。

 ベッドの脇に置かれていたチェストの中を見てみようかと手をかけたら、同時に部屋の扉が音を立てて開いた。


「ステラ様!!」

「ひゃっ!?」


 振り返って目をしばたく。

 まるまる太ったトカゲみたいな謎の生き物が、二本足で立っていた。



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