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『ヨーグルトネロン』の歌は、控え室にも届いていた。


 最後の一組である『ヨーグルトネロン』の曲は、つまり彼らを除く二十四組のアーティストが耳にし、その内、二十三組のアーティストを不安にさせた。


 控え室のアーティストで唯一不安を感じることがなかったのは、色ノ中いろのなか識乃しきのだけである。


 なぜ彼女だけなのかと言えば、それは彼女が今回のテーマを理解していたからだ。


『甘い歌詞』——それが今回の指定であり、無論彼女も甘い歌詞を用意した一人である。


 が、他の参加者はどうか——残念ながら、他の参加者は、葉集が作詞前に気づいたことに気づいていなかった。


 甘いではなく、甘酸っぱい。


 恋愛ソングで勝負したアーティストは、甘酸っぱい歌詞に寄っていた。もちろん中には、甘いと呼べる歌詞を書いた参加者もいた——が、そんな参加者だろうと『ヨーグルトネロン』の歌詞は不安を煽るには十分過ぎた。


 恋愛ソングで勝負していないアーティストは逆に悔しさを覚えていた。


 端的に言えば、それを甘いと言い張るか——と。そう思いながらも、自分たちにはその歌詞は書けないと自覚してしまったのだ。


 葉集の書いた歌詞は、甘さを通り越しているとも言えるが、しかしジャズロックメロディにより、刺激を緩和して甘さを強調させていた。


 スイカに塩を振りかけると甘くなる——そのような感覚が一番近いだろう。


 実際には甘くなっているわけではなく、塩味が甘さを引き立てているのだが、『ヨーグルトネロン』の曲はまさにそれに近い。


「さすがはっくんよね。泥棒ネコはどうでもいいとして、はっくんマジ凄すぎるわ。まさかジャズロックとは思っていなかったもの」


 ふふ——と。絶望感に満ちた控え室で、色ノ中識乃は一人笑みを漏らす。


 もし、色ノ中識乃が二番手ではなく、ラストだったのならば、控え室は同じく絶望していただろう。彼女もまた、甘酸っぱいの先を曲にした一人である。


「はっくんの歌詞をずっと歌ってきたことが、本当に助かったわね、今回」


 葉集——ハグルマン——の歌詞を歌っている彼女は、その経験を活かし、そして作詞をしている。


 葉集の書きそうな歌詞は彼女も書ける——が、彼女は葉集に書いて欲しいと強く願っている。


 独占欲よりも執着心が強い。それが色ノ中識乃という少女。独占欲がないというわけではない。


「はっくんを絶望させて、わたしだけが頼りになるとわからせる、そうすればはっくんはわたし無しでは生きていけなくなる、うふふ、早くそれになりたいわ、うふふ」


 そのためには——と。小さく呟き、目を閉じた。


「そのためにはまず、あの泥棒ネコを叩き潰す」


 うふふ、ふふ、ふふふ、ふふふふ、うふ——と。ぶつぶつ呟き小さく笑う彼女は、どこからどう見ても怖い人だった。



 ※※※



 一方、『ヨーグルトネロン』の曲を聴き終えた審査員、糸咲奇王は、彼らがステージを去ったあと、こちらも笑いを堪えることが出来ずにいた。


「くくっ、ははは」


「ちょっと糸咲さん急に笑わないでくれませんか。気持ち悪いです」


「あーいや、ごめんて旗靼はたなめちゃん。せやかて、想像以上のもん聴かされてもうて、我慢できひんわ」


「まあ……確かに驚きましたね、この歌詞。三次までの通過者で最年少アーティストなのに、ダントツで大人の甘いを書いてくるなんて……」


「ちゃうよ、歌詞は想像しとった。動画サイトで彼らの曲聴いてみてんけど、その傾向からヨーグルくんなら、こういう歌詞で勝負してくる思っとってん。けれどまさかジャズロックをぶち込んでくる発想は持っとらんがな。予想を超えて来よって、あかん嬉しなってまうわ」


「彼のこと知っていたんですか?」


「知っとった、ちゅーか、気づいてん。控え室チラ見した時に気づいてもうてん」


「は?」


「俺が呼びたかったんは彼やってん!」


 興奮した糸咲の言葉は、旗靼には理解できていない。


 糸咲が控え室をチラ見したのは、旗靼が最初の説明をしていた時である。


 ふらっと覗いた控え室。そこには自販機でコーヒーを飲んでいたヨーグル、そしてその隣に色ノ中識乃の姿を確認した。話している様子はなかったが、隣に座っている事実を見て繋がった。


 その瞬間、糸咲は確信したのだ。


「ヨーグル……あいつ、ハグルマンや」


 ハグルマン。それは葉集のサークル活動名であり、隠しているわけではないが、口外はしていない名前である。


「サークル経由で声掛けて、参加せえへんかったわけやなかったんや。まさかパートナーを変えて来とるとは……あかん、めっちゃテンション上がってきてしもた、ちゅーかなんやねん編曲やれるんかいなハグルマン!」


 嬉しさに笑みが抑えられない。その様子を旗靼がドン引きしているが、今の糸咲はどんな視線も気にならない。


「こほん。糸咲さん。気持ち悪いのは結構ですが、ファイナリストを決めてください」


「あーすまんすまん」


 平謝りした糸咲は、参加者全組の歌詞カードを並べた。


 その中から審査後にボールペンで目印をつけていた五枚を丁寧に抜き取り、旗靼に渡す。


「その五組がファイナリストや」


「かしこまりました」


 受け取った歌詞カードのアーティスト名を確認した旗靼は、自身の鞄からファイナルの説明資料が入った封筒を取り出した。


「では自分は、ここでお役御免ですね。お疲れ様でした」


 この場で唯一の四十代、審査員席に座っていた男性がそう言って、糸咲に会釈。


「ホンマありがとうございました、わがまま聞いてくれて助かりましたわ」


「いえいえ。審査員が二人だけだと見た目悪いから座っててくれと頼まれたときは驚きましたが、自分も楽しませていただきましたよ」


「そう言ってくれると、俺も助かりますわあ」


「こちらこそ、また機会があれば、うちのライブハウスに声をかけてくださいね、糸咲さん」


「もちろんでっせ、なんなら無理やり機会作ってでも声かけますわ」


「ははは、それは嬉しい」


 糸咲と旗靼以外に座っていた審査員の男性は、審査員ではなくこのライブハウスのオーナーだ。実を言うと、旗靼も審査員というわけではなく、審査員は糸咲一人。


 審査員が一人やとショボいやん——と、審査は自分が全部担当すると糸咲が自分から申し出たはずなのだが、しかし独自の偏見からショボいと判断したことで、旗靼とオーナーは座っていただけである。このことはもちろん参加者の誰も知らない。


「では、私はファイナリスト発表に行ってきます」


「ほなら俺も、挨拶行っとこか。なんや予想以上にレベル高いコンテストになっとるし、感謝せなバチ当たってまうわな」


 そう言って、旗靼の後ろを歩く糸咲が、旗靼に並ぼうとした——瞬間。


「うおっと」


 前方から物凄いスピードで走ってくる少女とすれ違い、糸咲は若干体勢を崩した。ぶつかることも、転ぶこともなかった——が、すれ違った少女はそのままライブハウスから出て行ってしまった。


「今の……ネロンちゃんやんな?」


 コンビニに行く様子には見えなかったが、それを知るすべは糸咲にも旗靼にもない。しばらく出入り口に視線を向けたが、走り去った少女がライブハウスに戻ってくることはなかった。


「揉め事でしょうか?」


 心配そうに旗靼が言った。


「どうやろ。ヨーグルくんなんかやってもうたんかな?」


「とりあえず私たちは、仕事を優先します」


「へいへい。わかっとるよー」



 ※※※



 音論が控え室を飛び出してから、僕はすぐに姉さんに電話を掛けた。確か千葉に行くって言ってたはずだ。


 運転していたら出てくれないだろうけど、掛けておけば折り返しはある——と思ったら出た。


「姉さん今どこ?」


「サービスエリア。団子食って落花生買った」


「目的地は?」


「海」


「どこの」


「千葉」


「頼みがある。現在地から一番近い駅で音論を拾ってやってくれ」


「は? どういう意味よそれ?」


「音論のお母さんが倒れたらしい。三次審査を歌い終えてからすぐ連絡が来て、さっき急いで会場から千葉に向かわせたんだけど、どうも駅から病院が遠いみたいなんだ」


「おっけー。んじゃ音論ちゃんに場所聞いて、あたしが拾って病院に行く。それでいいんしょ」


「僕はこのあとファイナリスト発表があって付き添えなかったんだけど、頼んでいいかな?」


「任せんしゃい。じゃあ音論ちゃんに連絡するから、切るよ」


「ごめん、ありがとう」


「謝ることないない。そっちが終わったら一応連絡して」


「わかった」


「いい報告もしろよー」


 そう言った姉さんは、通話をオフった。

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