8


「お邪魔しまーす!」


 すっかりマンションの入り方を覚えた音論は、わざわざ下まで迎えに行かなくても部屋に来れるようになった。成長である。


 玄関までは迎えに行くけれども。


「バイトお疲れ様。とりあえずリビングにどうぞ」


「うん、ありがとう」


 バイトを頑張って、夏の夕方に歩きで僕の住むマンションまでやって来たわけだが、しかしどうして良い匂いがするんだろう……女子が汗かいても良い匂いする仕組みってどうなってるんだろう?


 そもそも汗臭い女子って存在するのだろうか?


 謎だ。永遠の謎かもしれない——とまあ解明不能の謎を抱えた僕は、二人分のアイスコーヒーを淹れてからリビングへ。


「ほい、コーヒー。ミルクと砂糖はセルフでどうぞ」


「わあ、ありがとう葉集はぐるくん。すごく助かる……歩いたから喉乾いてたよお」


「おかわり自由だからたくさん飲め」


「わーい!」


 こうして音論と過ごすのも、なんか日常になったもんだなあ。思えば夏休みの半分くらいは一緒にいる気がする。


 まあ楽曲を製作してるから、それも当たり前だが。


「そういや音論。音論のバイト先の食パンって、いくらぐらい?」


「大きいやつ一本で千円。切ってあるやつは五百五十円だよ」


「結構いい値段するんだな」


「だよね。でも高級食パンブームが続いてるみたいで、ほとんど売り切れちゃうよ。どうして?」


「姉さんがホットサンドメーカーを買ったから、それ用に良い食パンを調達しようかと」


「ホットサンドって、あの表面カリカリで中はフワフワと噂の!?」


「どこで噂されてるんだよ、それ」


「きーば情報」


「雑な情報だなあ」


 たしかにその情報通りだけども。雑とは言ったけど、きっと僕もそれくらいしか言えない。


「まだ昼の食パンとポテサラ余ってるし、配信前に軽く食うか?」


「いいの!?!?!?!?!?!?!?!?」


「お、おう……そんなに腹減ってたのか?」


「あ、えーと…………はい」


 ぐうぅぅ——と。音論の腹からライオンが鳴いた。


「あうぅ」


「はは。すぐ作れるから待ってろよ」


「うんっ!」


 昼のポテサラも余ってるし、ちょうど良い。


 サンドイッチを作り、リビングに戻る。


「焼いてるところ見れないのはもどかしいね」


「プレスして焼いてるから、確かに見たいけど見れないよな」


 そのうち透明のホットサンドメーカーとか出そうな気もするが。耐熱ガラス使えば作れないんだろうか。


 いや、耐熱ガラスだと表面が熱くなって火傷のリスクがあって無理か。


「プレス焼きシーンが見れるようになるには、未来の技術に期待しておこうぜ」


 数分焼いて、取り出す。


「ほら、熱いから気をつけて食えよ」


「ありがとーう、うわ、ほっかほか!」


「だって焼きたてだし」


 切らずに渡したので、端っこを持ちながらふーふーした音論は、耳の部分を小さく齧った。


「ん〜!! カリってした! ねえ聞こえた!? カリってしたよ聞こえた!?」


「聞こえた。しっかりこの耳に届いたよ」


 ホットサンドの耳を齧って、ここまでテンション上がってくれるのか。なんというか、なんかズルいよなあその性格。


 こんな笑顔を見せられたら、色々な娯楽施設とかに連れて行ってやりたいと思わせるのはズルい。


 いつか僕も稼げるようになったら、テーマパークにでも連れて行ってやりたいが、僕が稼げるようになるイコール音論も稼げるようになっているので、複雑だ。


 こうして喜んでくれるのは今だけ——そう思うと、このアドバンテージは、かけがえのない時間を僕にプレゼントしてくれているのかもしれない。


「葉集くんは食べないの?」


「僕はさっき、晩メシの準備しててつまみ食いしたから大丈夫だよ」


 嘘ではない。僕は今夜はラーメン鍋を食べるのだ。


 どうせ明日の朝、姉さんが呑み過ぎて帰ってくるだろうし、余ったスープでリゾットにも出来ると計算してのラーメン鍋である。送ってもらった野菜の消費も出来るし、僕は計画性の塊だぜ。


「音論のぶんもあるから、晩メシ食ってってくれ」


「え、え……悪くないの?」


「食わないで帰る方が極悪だぞ」


「でも……でもお」


「別に音論の食生活を心配してるわけじゃないよ。バイト終わりにわざわざ来てもらってるんだし、これくらいさせてくれなきゃ僕が納得しないだけだ」


 音論の食生活の心配がないと言えば嘘になるけれど、音論のため——と、そう思わせるよりも、音論にはこうやって僕のためと言ったほうが納得する。


 まあ、なんだか僕がツンデレみたいな言い方になってしまったが。


「……葉集くんって」


「なんだよ」


「う、ううんなんでもないよ! そ、そう言えば今日葉恋さんは?」


「姉さんはサークルメンバーと呑み会。帰るのは明日だよ。なんか用事あったのか?」


「ううん、そっか……なんか久しぶりだね」


「なにが?」


「二人っきり」


「あーたしかに」


 そう言われてみれば、久しぶりである。


 夏休みに入ってからは、ほとんど僕んちで会っているので、姉さんもいるからな。


 しかしそれを言われると、遅まきながら『二人っきり』を意識してしまい、若干照れ臭く気まずい。


「さて、そろそろ配信準備すっか!」


 照れと気まずさを振り払い、僕は元気に立ち上がった。


「おお、なんか葉集くんやる気満々!」


「当たり前だろ、億万長者になるんだからな」


 億万長者——とまではいかなくとも、せめて普通の暮らしが出来るくらいにはなりたいし、そのために動画配信って手段しかないのがもどかしいけれど、今はまだ仕方ない。


 配信する場所は、僕の部屋なので移動。


 当然ながら、準備は終わっている。身元バレしそうなモノは片してある。


「あ、ギター」


「昨日も見ただろ」


「なんかお部屋にギターがあるって、格好良い」


「わかるその気持ち。僕も今、僕の部屋がイケメンにしか見えない」


「葉集くんもモテモテだから格好いいと思うよ?」


「僕のどこがモテモテだよ。要素ゼロだろ」


「え、だって色ノ中いろのなかさんにモテモテでしょう? あんな美人さんに」


「アイツを数に含めるのは僕には無理だ」


「でも美人さんってことは否定しないでしょう?」


「外見は否定しないが中身を否定し続けているよ」


「じゃあ、色ノ中さんが葉集くん好みの性格になったらどうする?」


「どうもしないよ。拒絶し続けるだけだ」


「えーほんとにー?」


「僕に二言はねえよ。本当だ」


「葉集くんに二言はない……じゃあやっぱり女の子の乗った自転車に乗りたがる人なんだ……」


「まだ覚えてるのかよ!?」


「だってあの日が初めましてだったもん」


「忘れろとは言わないけど、思い出せとも言わないからな?」


「初めましての日を忘れるのは無理でーす」


 えへへ——と、笑う音論。率直に言って、頭を撫で回したいくらいの笑顔だ。


「そろそろ目隠し巻いて準備しようぜ」


「うん」


 目隠しは配信と収録でしか使わないので、僕の部屋に置きっ放しである。勉強机に置いた目隠しを音論に手渡し、それぞれ巻く。


「あと何分?」


「あと六分だよ」


「うーむ」


「なんだよ」


「葉集くんって、色ノ中さんに興味ないんでしょう? じゃあどんな女子が好みなのかなあって」


「そりゃお前ね……」


 どうしよう。どうしようどうしよう。


 勢い余って、音論と正直に言ってしまいそうになった。なんとか堪えたけれど『ね』と言ってしまった。まずい。


「ね……姉さんみたいな」


 屈辱である。屈辱というか失態。失態というか失敗。


 ケアレスミスが招いた、本気の嘘。姉さんみたいな女とか絶対に嫌だ。


 ローションと電マをリビングに置いて、パンイチぴちティーで家を徘徊する女、僕の好みとは真逆だ!


「そ、その発言はあれだね……視聴者さんにチクろう」


「やめれえ!」


「ふふ、あと一分だよ。もう手遅れだもん。葉集くんに二言はないんでしょう?」


「二言はないから一言いわせて!?」


「配信スタート! エンターキーポチッと」


「おーい!」

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