第2話
「食べたいものはありますか?」
「な、なんでも美味しいです……」
「うーん、嫌いな物や、苦手なものはありますか?」
「と、特にないです……」
「じゃあ、お昼はフレンチでしたから……夜は和食にしましょうか。お魚とお肉なら、どちらが好きですか」
「ど、どうしようかなあ……」
本当に、どうしよう。
スーパーの青果売り場でオオカミさんが野菜を吟味している間、私は今日はどの下着を着てきたかを思い出すのに必死だった。
自意識過剰と言われてしまいそうだけど、備えあれば憂いなしと言うじゃない。
けれど、一番心配しなきゃいけないのはたぶんそこじゃない。ランチの後、いくらでも逃げるチャンスはあったのに私は前に進んでしまった。
必要な買い物を終えて、夕暮れが迫る街を並んで歩いた。とはいえ特に触れあうこともなく、握りこぶしいくつかの間隔を守ったまま私たちは歩いた。
西の空にはすでに燃えるような赤が差している。いつもなら美しさに心奪われているはずの光景が、今日はどうしようもなく胸をざわつかせる。
オオカミさんの家は、私の職場近くのマンションにあった。詳しくはよく知らないけど、割と高級なんじゃないかという印象を持っていた建物だった。
ここに住む、他の方のお宅に配達に来たこともあるので、エントランスを通って玄関先までは入ったことがある。けれど、当然そこまで。
オートロックを解除して、その先へ。エレベーターを七階まで上がる。男の人がひとりで暮らしている部屋に入るのは生まれて初めてだ。
「すみません、家を出る時間まで机に向かってたんで、ちょっとごちゃごちゃしてますけど」
「おじゃまします……」
オオカミさんについて玄関を入ると、目の前の光景に膨らませていた想像を打ち砕かれて言葉を失う。先ほどの言葉はどう考えても謙遜だったからだ。
インテリアはイメージに反して、明るい色合いでまとめられていた。飛び抜けておしゃれというわけではなく、実家から持ってきたのかなと思うようなものもあって、センスの良さと親しみやすさがうまくバランスを取っていた。
訪問は予定外だったはずなのに、まるであらかじめ準備してあったみたいに片付いている。
確かにリビングテーブルの上にはパソコンやファイル、メモの束なんかが置いてあるけれど、こんなのは散らかってるうちには入らない。
見覚えのある鉢植えは窓際にきちんと整列して、元気に花を咲かせ、光を目指して伸びている。枯葉や花がらはひとつもない。きちんと世話をされているのは明らかだった。
部屋全体が、まるでマメな人柄を写した鏡のようだ、と思う。
未だに実家暮らしの私は、雑然とした自室の様子を思い浮かべる。子供の時から暮らしているせいもあって積もったものが多い。こんな素敵なお部屋に住んでいる人にはとても見せられないと思う。
オオカミさんは、キッチンで買い物袋の中身を取り出していく。肉じゃがと、焼き鮭、サラダとお味噌汁が今日の献立らしい。私がはっきりしなかったから、きっと肉も魚も用意してくれたんだろう。
「お、お手伝いした方がいいですよね?」
「助かります。じゃあ、ジャガイモとニンジンの皮剥いてもらえますか?」
そのくらいならギリギリ務まるだろうと、私は腹を括った。
エプロンを借りて、手を綺麗に洗って、髪をまとめて。その間に、オオカミさんはお米を炊く支度をして、野菜を洗っている。ふっと懐かしい気持ちが胸に降りてきて、すぐに消えた。
あっという間に、感慨に浸っている場合ではなくなってしまった。
「……大丈夫ですか?」
オオカミさんがぎこちなくピーラーを動かす私を見て、心配そうに言う。
ニンジンはなんとかなったけど、ジャガイモが小ぶりで剥きづらい。
「だ、大丈夫ですッ」
その他の野菜をあっという間に切り終えたオオカミさんは、目の前のジャガイモを手に取り、包丁で器用に剥いていく。そのまったく迷いのない、流れるような手つきを、私は生まれたてのひよこみたいにたどたどしく、必死で追いかける。
私の手の中でジャガイモがどんどん小さくいびつな形になっていく。恥ずかしい。なんとか剥き終わったジャガイモを水を張ったボウルに入れて、もうひとつジャガイモを取る。
オオカミさんの手を止めてはいけないと焦る。
ガリっと嫌な音がした。
「痛っ」
左手の人差し指の先から血がこぼれた。白いシンクに、赤い花が次々咲く。
「伊吹さん、血が」
オオカミさんが私の手を取った瞬間、なぜか口の中に鉄臭さが広がる。まぶたの裏に、見たことのない景色がスライドショーのように次々現れた。
知らない街、知らない街、知らない街、知らない人、知らない人、赤、血の味、誰かの笑い声。終わらない暗闇。
明るい景色が、ひとつもない。
映像の切り替わりがどんどん激しさを増して、脳の処理能力をあっという間に飛び越していく。意識が遠のく。呼吸が乱れて、手足の感覚が末端からなくなっていく。とうとう膝が耐え切れずに、ガクッと折れた。
階段を踏み外したみたいに、転がり落ちていく。
「たすけて」
暗闇の中で、伸ばした手を誰かが掴んでくれたような感覚があった。
網膜に焼きついた暗闇が少しずつ剥がれていく。
必死で息をしていると、だんだん体の感覚が戻ってきた。柔軟剤の匂いの向こうから、微かに男の人の匂いがする。懐かしさと愛しさが込み上げてくる。
……懐かしい?
「大丈夫ですか!?」
オオカミさんの声でハッとした。
私は、オオカミさんの体に力いっぱいしがみついていて。
オオカミさんも、私をしっかりと捕まえてくれていた。
つまるところ、抱き合うような格好になっている。私は思わず心臓を吐き出してしまいそうになった。
「うひゃああああ!! 私ってば、なんてことを!! ごめんなさい、ごめんなさい」
取り乱して大声を上げる私を、オオカミさんはなかなか離してくれない。私とは違って慌てる様子もなく、極めて冷静なようだった。
「いや、違います、俺が先です、伊吹さんが鍋にぶつかりそうになったので……今からゆっくり離しますね、ちゃんと、まっすぐ立てますか?」
コンロの上で鍋が湯気を噴いている。もしあれを引っ掛けていたら、大惨事になっていただろう。
「怪我させてしまってすみません」
私が全面的に悪いのに、オオカミさんは申し訳なさそうに言った。
私は絆創膏を貼ってもらった手を恨めしく見つめる。ガーゼはすっかり血で染まっていて、じくじくと脈打つように痛かった。まだ心臓は駆け足をしているくらいの速度で鳴っている。血はまだ止まってなさそうだ。
「怪我は仕事でもよくしますし……慣れてますから、大丈夫です」
「血が苦手なんでしょう?」
「いやいやまさか。そんな繊細じゃないですよ。血は平気です。痛いのにも強いです……本来は」
大人の女だから毎月のこともある。それに、仕事で使う花鋏で手を切ってしまった時はもっと悲惨なことになった。それに比べれば、このくらいは些細な怪我のうちに入る。
たったあれだけのことで、気を失いかけるなんて自分でも驚いた。確かにピーラーで切ると傷の大きさの割にたくさん血は出るけれど。
大袈裟な反応になってしまったのは、単にオオカミさんへの後ろめたさがあったからなのか。
「そういえば、ごめんなさい、嘘つきました。実は私、料理はまったく出来なくって……」
「別に隠さなくてもよかったのに」
「……せっかく仲良くなれたんで、嫌われたくないなあ、って思っちゃって。今から頑張れば、って思ったんですけど」
コトコトと、鍋が鳴っている。オオカミさんは少しだけ考えるような様子を見せると、大きく息をついた。
「俺は気にしませんよ。誰にでも得手不得手はありますし、きっと肩の荷を下ろせただけなんだと思いますし」
肩の荷って、どういうことなのかな? これからの時代、料理をするのは女だけじゃなくてもいいということだろうか。
オオカミさんは時々こんなふうによくわからないことを言う。少し遠くに意識を置いたような目をして、優しい声で。
「あの、皿洗いはしますからね! さすがにそのくらいはできますから!」
「怪我してるんですから、気を使わないで。ああ、退屈でしたら、あっちでテレビとか見ててもらってもいいので」
オオカミさんは、こちらに背中を向けたままで言った。
「じゃあ、ここで見学してます」
「わかりました。緊張しますね」
ダイニングの椅子を引いて座った。肉じゃがが煮える美味しそうな匂いが漂うなか、私は夕飯の支度を続けるオオカミさんの背中をじっと見つめる。緊張する、なんて言いつつも、手つきに澱みはない。全然退屈しない。
オオカミさんは背が高い。鴨居に頭がぶつかるんじゃないかと、勝手にハラハラするくらいの高さ。色白でまるでモヤシみたいと思ってたけど、単に着痩せしているだけなんだとさっき知った。たぶん、ちゃんと鍛えているんじゃないかな。
顔立ちは綺麗に整っていて、お世辞抜きでかっこいいと思う。瞳の色も珍しいし、どこかに外国の血が入っているかもしれない。海外ドラマが大好きらしい店長の奥さんが裏で騒ぐのも無理はない。
見た目だけじゃない、真面目で優しくて、話も上手で、家事もちゃんとしていて、気も利いて。
男の人をこう例えるのは変かもしれないけど、高嶺の花だなと思う。
嫌われてはいない、と信じたい。でもそれだけだと思う。目一杯おしゃれしてみても、敬語は崩れない。こうして部屋に招かれても、介抱以上の接触はない。
何かが進むかもという淡い期待は崩れ、むしろ片思いであることを突きつけられる。
そう思うと急になんでもなかった沈黙が苦しくなる。酸素を求めるみたいに、私は口を開く。
「お料理、上手ですよね。習いにいかれたりしてるんですか?」
「教室に行ったことはないですが、教えてもらったことはありますね」
朗々と答えながらも、オオカミさんはサラダを作る手を止めない。
「お母さんにですか?」
「ああ、確かに母にもなんですが、うーん……大切な人にといえばいいのか。食べることに興味を持ったのは、その人のおかげかもしれないです」
「大切な人ですか?」
私が聞くと、オオカミさんが手を止めた。
「はい。もう二度と会えない人ですが」
迷いなく、まっすぐ通る声。わずかな寂しさをきざした眼差し。銀色の奥に、陽だまりのようなあたたかい光が差している。
オオカミさんは何かを懐かしむように窓辺を目線を移した。そこには花の咲いてない植木鉢がある。
けれど葉を見ればわかる。あれは、あの日、オオカミさんが買った薄紫のシクラメンだ。
花言葉は『絆』。
オオカミさんはそもそもこの花を求めて私のところにやってきて、何ヶ月か後に幸せそうな顔でこの花を迎え、それを今も大切にしている。
そうか、大切な人。私は何もかも察した。薄紫色のシクラメンは、オオカミさんとその大切な誰かを結ぶ思い出の花なんだ。
二度と会えない。おそらくもうこの世にはいないのだと思う。けれどオオカミさんの心の一番大切な場所には、その人への想いが詰まっている。
だから、私が入れる隙間なんて、きっと最初からありはしなかったのだ。
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