第3話

 おそらくもう真夜中といっていい時間になった。


 正直、細かいことは何も覚えていない。消化試合のように食事をして、さっさとオオカミさんの家を辞した。


 私はまっすぐ家に帰る気にもなれず、近くのコンビニで買った缶入りのお酒をぶら下げてその辺りをしばらく彷徨った。


 季節外れに寒い夜で、上着を持ってこなかったことを後悔しながら歩く。誰もいなくってしまった川沿いの道のベンチに腰を落ち着けると、手提げ袋から缶を一本取り出して開け、半分ほどを一気に飲んだ。


「お友達から、じゃなくて、お友達でいい、だったんだなあ」


 私の心を取り出したみたいに、川の水面で月が揺れている。アルコールの力は、夜風の冷たさも、失恋の痛みもすべて跳ね返してくれる。


 風が吹くたびに甘い香りがする。あたりをよく見ると、ノイバラの花が暗がりに水玉模様を描くように咲いていた。


「君は素敵だねえ。名前はなんていうの?」


 ナンパよろしく話しかけてみても、ノイバラはツンと澄まし顔をしていて、酔っ払いの相手はお断りと言わんばかりだった。


 花屋のショーケースに並ぶ花はとても綺麗だけど、こうして人の都合なんか関係なしで、素朴な花を咲かせる野の花も素敵だ。むしろ生き方として憧れるのはこちらの方かもしれない。


 物心ついた時から花が好きだった。というより物心着く前からかなりの筋金入りだったらしくて、パパやママよりも『タンポポ』と言う方が早かったらしい。


 小さい頃は野の花に親しみ、その後は月々のお小遣いやお年玉を軍資金に苗や種子を買い集めて実家の庭を完全占拠した。それで飽き足らなかった私は、中学は園芸部に所属して、高校は農業高校の園芸科に進み、そのまま今の職場に就職した。


 家でも学校でも夢中で土いじりをしていたので、肌は常に真っ黒に焼けていた。『焼きジャガイモ』というあだ名がつくのも当然だった。


 今はさすがにケアには気をつけているけど、当時は太陽に肌を焼かれるのは喜ばしいことだと思っていたのだ。


 そういえば、焼きジャガイモ時代に一度だけ告白されたことがあった。スポーツ万能で真面目で優しいと、結構人気だった男子から。周りには激震が走ったけど、当時の私にとってはどうでもいい出来事で。


 振ったと言ったら方々から責められたけど、『この人じゃない』という直感に逆らうことができなかった。


 だからオオカミさんが、生まれて初めて好きになった人だったかもしれない。


「はあ……」


 手の切り傷よりも胸の方が痛い。失恋するってこんな気持ちだったんだなあ、と数年越しで知った。名前も覚えてない彼のことを思うとため息が止まらない。


 川の下流の方に見える鉄橋を、電車が光の帯のように行き交うのを眺めながら、缶の中身をちびちびと舐めるように飲む。やがて終電が行ってしまうと、静寂がやってくる。


 見上げると吸い込まれそうな夜空が広がる。オオカミさんの家で見た、暗く幻覚が蘇りそうになった。


「怖い……」


 あの幻には心の底に染みついたものが浮かんできたみたいな現実感があった。そんなことはないはずなのに、まるで実際に経験してきたことのように思えた。


 寒さからではない震えがくる。悪夢を思い出した時に、ひとりなのは地味に堪える。重く覆いかぶさってくるような恐怖から逃げたくなって、二本目の缶を開けて一気に飲む。買ってから時間が経っているから、少しぬるくなっていた。


 追加のアルコールが脳に届いて恐怖が紛れ始めた頃、どこからともなく足音がした。


 背後で懐中電灯の灯りが揺れているのが見えた。こんな時間に女がひとりでベンチに座って酒を飲んでいたら、職質待ったなしかな。


「おまわりさん? 私は別に、怪しいものじゃないですからあ」


「伊吹さん、違います、俺です……空木です」


「ありゃ? うそお……」


 ジャージ姿の空木さんが、びっくりした顔をして立っていた。


 月明かりに銀色の目が浮かび上がるように輝いていた。


 ◆


 夜の色をした川がゆっくりと流れている。風が吹くたびにノイバラの花が揺れて、甘やかな香りをかすかに漂わせる。


「絆創膏、貼り替えましょうか」


 空木さんはまず私の手を取ると、どこから取り出したのかガーゼが赤黒くなった絆創膏を取り替えてくれる。触れ合った指先が熱くて、また血が噴き出るんじゃないかと思った。


 無骨な手には不似合いな繊細な手つきに、また胸が鳴る。ずっと触れられていたいと思う。でも、それはきっと叶わない。


「ああ、好きでもない女に、どうしてこんなに優しくしてくれるんですかあ。私、勘違いしちゃいましたよ」


 一瞬の空白。


「好きだから、です」


「えっ、うそお……お料理もろくにできない、どうしようもない酔っ払いなのに? あ、好きって別にそういう意味じゃないか好きなお花、とか、食べ物、とかそんなのと一緒の」


 優しくしてくれる空木さんに、私はドロドロとした本性を返す。


 どうやら二本目を一気飲みしたのが運の尽きだったらしい。急速にアルコールに浸かった頭がクラクラ、いや、グラグラする。


 目の焦点が、頑張らないと合ってくれない。眉間に力を入れる。


 空木さんは極めて真剣な顔をしている。


「……愛していますよ」


「そっかあ……そうだったらよかったのになあ。だって、空木さんには好きな人いるでしょ。わかってるんですからね」


 背筋をまっすぐにするのがしんどくなってきたので、隣に座っている空木さんにもたれかからせていただく。酔っ払いには遠慮も理性も何にもないのだ。


 空木さんは図々しい私を静かに受け入れてくれた。


「仕方ないですね。じゃあ、酔っ払いの戯言だと思って、俺の話を聞いてもらえませんか」


「え? はい、じゃあ、どうぞ」

 

 私がキューを出すと、空木さんは夜空を見上げながら話し始めた。夜風が吹く。今は寒くない。


「俺とあなたは前世……いや、もしかするともっと前かもしれませんが、とにかく、繋がっていました。訳あって触れ合うことができなかったので、恋人と呼ぶにはすこし微妙でしたが、共にあることを誓い合った仲でした」


「ほえ……?」


 なるほど、空木さんもそうとう酔っ払ってるみたいだ。前世の恋人なんて、今どき少女漫画でも見かけない言葉。


 でも私は笑う気にもなれなくて、お伽話のような不思議な調べに耳を傾けた。


「俺は、死によって分たれたあなたにもう一度会うために、長い旅をしていました。気の遠くなるような時間を、何度も姿形を変えながら時空を彷徨い続けました。けれど、やっと見つけたあなたは何もかもを忘れて生きていた」


「うん……だって、私は私だし?」


『あなた』は私のこと? どういうこと? 酔った頭では、細かいことを考えられない。


「全くその通りです。でも、その時の俺は、誓いの証だった薄紫のシクラメンを見れば、あなたはきっと思い出してくれると信じていました」


「んん……? やっぱり、この色は目を引くよね……としか思わなかったかも。珍しいし、すごく綺麗だもん。プレゼントにおすすめですよ」


 シクラメンの花は白や赤、ピンクのものが一般的だ。ブルー系、いわゆる紫のシクラメンは、割と最近に品種改良で産出された。今ではバリエーションも増えたけど、まだまだ珍しがられる色。だから、贈り物としてとても人気がある。


「はい。あなたはやっぱり思い出さなかった。俺は絶望しました。何のために長い間旅をしていたんだと。ずっとずっと、あなたを取り戻して、共に夢の続きを見るために生きていたのにと」


「なんか、ごめんなさい?」


 前世とかいうならすごく昔のことだろうに、すでに薄紫のシクラメンが存在していたのいうのが変だと思う。薄紫のシクラメンが登場したのは、確か二〇〇〇年代に入ってから。


 まあ、酔っ払いの話に辻褄を求めても仕方ない。


 私の思考もだいぶ溶けかけている。どんなに頭の中で線を引いても、点が全然繋がらなくなっている。おかしいと思うのは、話をちゃんと理解できていないだけかも。


「いいえ。俺が間違ってたんです。すべてはもう終わったことで、続きなんてあるはずもなかった。たとえ姿形や魂は同じでも、あなたはもう他人なんだとわかったんです。それであなたの前に顔を出すのはやめました。ああ、仕事が忙しかった、というのも嘘ではないんですけどね」


 本当に大変だったんです、と空木さんはつぶやきながら頭をかいた。あの時には伸び放題だった髪は、今は綺麗に切り揃えられている。やっぱりかっこいいと思う。


「んん、そうですか。でも、なんでまた来てくれたんです?」


「空っぽになった花瓶を見ていたら無性に恋しくなったんです」


「お花が?」


「違いますよ。半年前に初めて出会って、花瓶を選んでくれた花屋の店員さんのことが。会いたくてたまらなくなった。気がついたら家を飛び出してました。そばにいてくれさえすれば、もう思い出してくれなくてもいい。もう一度、最初から始めようと」


「そっかあ。すっごくロマンチック……いいなあ、そんなに想ってもらえたら、きっと幸せだよなあ……」


 ああ、なんだかよくわからなくなってきた。空木さんはなんだかバツが悪そうに微笑んでいる。


「あはは。全然通じてない。仕方ないか……相当酔っ払ってるみたいですね」


「空木さんこそ。私ねえ、空木さんとは初めて会った気がしなかったなあ。あんなにビビッときたの、生まれて初めて……もしかしたら、ずっと空木さんが会いに来てくれるのを待ってたのかな……変なこと言ってごめんなさい」


 空木さんが動いた。必死で目を開けて焦点を合わせると、星のように遠く思えた銀色の瞳が手の届きそうなところにある。綺麗。


 欲しい、という渇望に似た思いが心の底から湧いてくる。


「うん。私は空木さんがお花を買いに来てくれるのを、ずーっと楽しみに待ってましたよ。すっごくカッコいいし、いつも嬉しそうに笑ってくれるし、会いたいって言ってくれるし、優しいし、ご飯おいしかったし、大好きになっちゃいましたよ。そうですよ、大好きなんですよ。一緒にいられたらいいのにって、思うんです」


「本当ですか?」


「本当ですよ……酔っ払いは嘘つけないです……」


 不意に、冷たかった夜風が遮られる。私は空木さんの腕の中に収まってしまっていた。柔らかく、けれど力強く抱きしめられていた。


「すみません。嬉しすぎて、我慢できませんでした」


 あくまでも清廉な声色に、ほんの少しの色情が滲んで聞こえた。鼓動が早くなって、脳がグラグラ揺れる。


 心地よかった締め付けがだんだん苦しくなってくる。


 だめだ、ここにきて気持ち悪い。猛烈な吐き気が無視できなくなってきた。


「私も我慢できない……は、吐きそう……」


「は!? ちょっと!! 大丈夫ですか!?」

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