転生編

第1話

「あの、シクラメンの花はありますか?」


 いつものように仕事を順にこなしていると、そう声をかけられた。店先の陳列棚に、今日入ってきたポット苗をせっせと並べている時だった。


 振り向くと、声から想像した通りのすらりと背が高い男の人が立っていた。歳はおそらく私と同じくらいか、少し上。逆光で顔はよく見えないけど、顔立ちは良さそうだ。


 ワイシャツの上にジャケットを羽織っていて、膨らんだビジネスバッグを持っている。いかにも仕事の途中といった様子だった。走ってきたのか、少し息を切らしていた。


「シクラメン……ですか……?」


 私は青々と晴れた空を見た。今はまだ残暑が尾を引く九月の下旬。そして、シクラメンは冬の花だ。すっかり秋になった頃から出荷が始まり、十二月ごろに最盛期を迎える。


「はい。どうしても欲しいんです」


 男の人は強い口調で言うので、ほんの少し身の危険を感じる。腕っぷしが自慢の店長を呼ぶか迷ったけど、私はおそるおそる答えた。


「ごめんなさい、まだ時期じゃないんです。来月くらいから入りはじめますけど、色や種類が揃うのは再来月くらいですね」


「そ、そうなんですね。すみません。そうか、前も冬だったな」


 男の人は、少し着崩れたジャケットを直しながら申し訳なさそうな声で言った。


 怖い人だと思い込んでいたけれど、意外と気が弱いのかもしれない。犬も大きい方が性格が穏やかだというし、と思いながら会釈を返して、私は先ほどまでの仕事に戻る。


 目当てのものがないと知った男の人は、すぐにでも立ち去るのかと思った。しかし陳列を終えた私についてくるように、店の奥まで入ってきた。やっぱりちょっと怪しい、と思いながら、私はレジカウンターの向こうに引っ込んだ。


 そのまま観察していると、男の人は冷蔵ショーケースの前で悩むような様子を見せて、こちらをチラチラ見てくる。なんだか居心地が悪い。


 やっぱり店長を呼んでこようかと思った時、男の人は思い切ったように私の立っているレジのところまでやってきた。


「あの。おすすめの花をいただけますか。家に飾りたいんです」


 綺麗。


 男の人が銀色の目をしていることに気がついた瞬間、なぜか目の前で火花が弾けたみたいに頭がクラクラしたからだ。生まれて初めての経験だった。


 鼓動が速くなる。予算を聞く声も、ケースから花をとる手も、胸の奥底も。何もかもが震えてとまらない。


 てっきり怖いからだと思ったけど、強い既視感からだと気がついた。


 けれど、いくら記憶の中を潜っても、こんな銀色の目を持つ人には心当たりはない。珍しいし、一度見たら絶対忘れそうにないのに。


「どうしよう……」


 男の人の困ったような呟き声で、ハッと我に返った。


 目の前の大きな手には、かろうじて金額の計算があっているだけで、色も何もかもチグハグな花束が握りしめられていた。


「ご、ごめんなさい!! 今すぐ作り直します!!」


 私が慌てると、男の人も釣られたように慌て出す。


「違います、これでいいです。あの、花瓶を持ってないことに気がついたんで、見繕ってもらえますか?」


「え?」



 ◆



 そんな出会いをしたその人を、私は心の中でオオカミさんと呼ぶことにした。目が銀色で目つきが鋭くて、髪の毛が見るからに硬そうだから。


 私の中でのオオカミのイメージに、オオカミさんはまさにピッタリあてはまっていた。


 オオカミさんは、いつも同じくらいの時間に現れて、私の目をまっすぐに見て、「おまかせで」と言う。または店先に私が並べたばかりのポット苗と、植木鉢を買っていく。


 こまめに通ってくれるから、てっきり花が好きなんだと思っていたけど、別に詳しいというわけでもないみたいで。先週は、バラとトルコキキョウが違う花と知って目を丸くしていた。


「おまかせで、お願いします」


 今日もそう言われて、私の気分で、前に買われた花瓶に見合う量を包む。オオカミさんは目元をふっと緩ませて、礼儀正しく会釈をして帰っていく。


「あの人、ずいぶん熱心よね。伊吹さんのファンなんじゃない?」


 バックヤードからやり取りを覗き見していたらしい店長の奥さんが、冗談めかして笑う。顔が熱くなってきた。


「奥さん、やめてくださいよ。ここはお花屋さんなんですから、花が目当てに決まってるでしょう!?」


「そうかしらねえ。伊吹さんもお花に負けないくらいかわいいから」


「ちょっと……やめてください……」


 数日前には店長にも、似たようなことを言われて恥ずかしい思いをしたんだけど。


 とはいえ。刺すような眼差しの奥に、ほの温かい光を宿した人に会えるのが、私はすっかり待ち遠しくなっていた。今度はどの花をおすすめしようかなと考えるだけでワクワクした。


 そうこうしているうちに、シクラメンの花が並び始める頃になった。オオカミさんは色とりどりに並んだ花の中から、迷わず薄い青紫の花を選んだ。


 その顔を見ると、まるで離れていた恋人と再会したように幸せそうだった。今までに見たことのない柔らかな表情に、ちくりと胸を刺された気がして、


「どうしてお花を買われるんですか?」


 と、つい尋ねてしまった。


 けれどオオカミさんは困ったように、曖昧な笑顔だけを返してきた。


 気まずかった。マニュアル通りに会計を終えた私に、オオカミさんは黙って背中を見せ、そのまま冬の街にあっという間に溶けてしまった。


 花を買う理由なんて人それぞれだ。心の柔らかいところや、まだ塞がっていない傷に触れることだってある。


 それを暴こうだなんて、他人宛の手紙を盗み読みするのとそう変わりない。私とオオカミさんはただ、店員とお客さんというだけの関係だ。立ち入っていいラインを超えてしまった。


 そのことを後悔しても遅く、そして嫌な予感ほどよく当たるもので、その日からオオカミさんはぱったりと来なくなった。


 ◆


 やがて季節が冬から春へ移り変わる頃。


 春風を背負ってオオカミさんは再びやってきた。年末からずっと仕事が忙しかった、と恥ずかしそうに笑った。


「おまかせで」


 オオカミさんは、今日は少し目を逸らして言った。伸びた髪をしきりに気にしているみたいだった。


 先日の失言を詫びようとしたけれど、勇気が出ない。


 無理やり笑顔を作って、無言で切り花を選んで、包んで渡し、お金をもらってお釣りを渡す。久しぶりのやり取りだったけど、ちゃんと覚えていた。


 オオカミさんは花束を片手にしたまま、なかなかレジの前から離れない。謝れ、と言われている気がして、私は口を開く。


「あの、この間はすみませんでした。立ち入ったことを伺って、本当に」


 返事はなかった。まるでここにだけ冬が舞い戻ってきたみたいに、時が凍りつく。


 どのくらい、経っただろうか。


「俺と……友達……になってくれませんか」


 銀色の瞳は私の目をまっすぐにとらえていた。


「えっ!?」


「前に俺に聞いたじゃないですか、どうして花を買うのかって」


「は、はい」


 確かに聞いたけれど、そしてそれを謝ったんだけど、この流れへ話が繋がらない。


「……ここに通っていたのは、あなたに会いたかったからなんです」


 私が何か言うより先に、バックヤードから大きな物音が聞こえた。



 ◆



 オオカミさんと私は友達になって、お店の外でも会うようになった。


 食事やお茶をしながら、互いの仕事や趣味の話、当たり障りのない世間話をする。オオカミさんのお仕事の話は、土ばかりいじってきた私には少し難しかった。


 オオカミさんは、今日も花の世話について聞いてきた。どうやら、例のシクラメンの元気がなくなってきたらしくて。


「今の時期は水やりの回数を減らしてください。週一回くらいかなあ。鉢を置くのはベランダでいいですけど、葉っぱが傷んじゃうので直射日光は避けてください」


「そうですか。水も日光も、やればやるほどいいのかと思ってました」


 植物はもれなく日光や水をたっぷり欲するものというのは、詳しくない人にはありがちな認識だと思う。かくいう私も昔はそう信じていたから、悔しい思いをたくさんしてきた。


「どちらも生育には必要なものではありますけど、乾き気味が好きな子も、日陰が好きな子もいますよ。時期によって管理の方法を変えなきゃいけないこともありますし。シクラメンはまさにそうです」


「なるほど、奥が深いですね。いつもありがとうございます。やっぱり、伊吹さんと話してるといい刺激になります。またいろいろ教えてください」


 オオカミさんは歳下の私にもやわらかな敬語を崩さない。私も自然とそうなってしまうけど、そんなにお淑やかな気質ではないから少し調子が狂う。


「普通に話してくれてもいいんですよ? 私の方が歳下なのに」


「いいえ。これは癖……癖でいいのか。とにかく、そうしないと落ち着かないというか。そういうことにしてください」


 思い切って言ってみても、やんわりとかわされる。


 誰にでもそうでもないのを知っている。電話で誰かと話しているのを聞いている限りでは、普通にタメ口を聞いていた。


 こんな感じで、オオカミさんは私との間にしっかりと線を引いているらしい。


 高いフェンス越しにそっと見守られているような、微妙な距離感にやきもきする。この人は私のことをどう思っているんだろう。何度も誘われていると言うことは、嫌われてはいないはずだけど。


「伊吹さんは、料理されるんですか?」


 デザートのミルフィーユが美味しすぎて感動していると、おもむろにオオカミさんが尋ねてきた。


 動揺を悟られていないかが気になった。一番聞かれたくないことだった。


 なぜなら、私は料理が全くできないからだ。


 見た目は家庭的と言われ、手先は器用だと褒められる。器用というのはお世辞かもしれないにしても、仕事でラッピングするにもアレンジするにも、特に手先の動きで困ったことはない。細かい作業も苦にならない。


 でも、どうしたことか料理のセンスはなかった。切っても、煮ても焼いても、味をつけさせても、盛り付けさせてもダメ。まるでどこかに置き忘れてきてしまったみたいに、神様にそこだけ見放されてしまったみたいに。


 今は実家暮らしだから、料理はせずに済んでいる。私がいなくなったらどうするの、そんなことじゃダメよと母は呆れ顔で言う。恥ずかしいことなのはわかっているし、実際周りに迷惑をかけたこともある。


 たとえば、林間学校でカレーをまるごとダメにした事件はいまだにトラウマだ。ああ、思い出したくもない。


 さて、どうしようかなあ。


 目の前で、銀色の瞳が答えをじっと待っている。脳内で会議を開きながら、私は残っていたアイスコーヒーを一気に飲み干した。


「ひ、人並みには……」


 この場はとりあえずこれで切り抜けて、これから料理の特訓をすればギリギリ嘘にはならないはず。


「もしよかったら、今日はうちで一緒に晩ご飯を食べませんか?」


「えっ」


 自宅に誘われていると理解するのに少し時間がかかった。


 オオカミさんがなんの前触れもなく、隔てていたフェンスを飛び越してきたのだ。

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