第3話
「そうだ、空木さん、緑茶でいいですか?」
「はい。そうだ、トイレを借りたいんですが」
「あ、どうぞ。そこのドアです」
指さされたドアに、素早く身を滑り込ませる。中は単身向けの賃貸物件によくある三点ユニット、いわゆる風呂トイレ洗面が一緒になっている風呂場。
彼女が口の端から血を流していたのは、口の中を噛んでしまったからではない。
俺は、彼女の嘘に気がついてしまった。そして俺も彼女に嘘をついた。思った通り、よく整理されたユニットバスの洗面台には、普通ならあるはずのものがない。疑惑は徐々に確信へと変わっていく。
俺としたことが。まんまと誘い込まれ、出された物を疑いなく口にしてしまった。幸いなことに体調に変化はないが、トイレの水栓レバーをひねって水を出しながら、胃の中のものを全て吐き出した。
彼女が本当に純粋な好意で俺に施しをしてくれたのだとしたら申し訳ないことだが、ほんの少しの罪悪感は水と共に流れていった。今は、自らの命を最優先せねばならない。
――少し前に、命を落とした
洗面台で口をすすぎ、顔を上げる。自分が今どんな顔をしているかわからない。本来なら目の前にあるはずの鏡が外されてしまっている。
室内を探索すると、コンタクトレンズを使っている形跡を見つけた。近頃は瞳の色を変えるものが流行っているが、彼女もそれで特有の緋色の瞳をごまかしているのだろう。全てが綺麗につながった。
そっとバスルームを出ると、彼女はどうやら茶を入れるための湯を沸かしている間に、先ほどの食器や調理器具を洗っているようだった。
目をすがめ、コンロにかけられた銀色のやかんに注目する。周りの景色がくっきりと映り込んでいるが、そこにもやはり彼女の姿はなかった。
――吸血鬼は鏡に映らないと言われている。
――そう、彼女は人間ではなく、吸血鬼だ。
正体に確信を持ったものの、逃げ場のない室内で仕留めるのは初めての経験だった。はやりだした心臓に少し落ち着けと言い聞かせながら、流しの水音に紛れ気配を殺し、懐に忍ばせた銃に手をかける。この銃に込められた銀の弾丸を心臓に打ち込むことができれば、目の前の女性を殺すことができる。
しかし、か弱く見える女性型でも人間とは腕力がぜんぜん違う。こちらの動きに気づかれ、飛びかかられでもしたらまず命はない。よって一瞬で銃を抜き、確実に狙いを定め発砲しなければならない。失敗は絶対に許されない。
人の良さそうな笑顔がよぎったが、振り払った。
迷ってはいけない。目の前にいるのは、俺の仇だ。
子供の頃の光景が鮮やかによみがえる。目の前には首を噛みちぎられて殺された両親と妹が血溜まりにうつ伏せに沈んでいる。吸血鬼の赤く冷え切った目がじっと俺を見ている。
やがて俺にもその手が伸び、死を覚悟したところで、銀色の目をした執行官に救い出された。
――俺もまた執行官になると決めてからは、地獄のような日々だった。ひたすら戦闘訓練や身体強化に耐えた。比喩でも何でもなく、本当に血を吐いたこともある。その度に家族の最期を思い出し、憎しみの炎を燃やして立ち上がった。一体でも多く、奴等を葬り去るのだと。
今まで、復讐のためにあちこちを渡り歩いた。そもそも俺が現在この町に身を潜めているのは、吸血鬼が出るという噂を調査するためだった。
まさか、こんなにも早く、しかも向こうからやってくるなんて。俺は失敗しない、必ず、必ず殺す。心の中で、青い炎を燃やす。
――今だ。
銃を抜こうとした瞬間、急に振り向かれ心臓が止まりそうになった。
「あ、お待たせしてごめんなさい。今お持ちするので座っててくださいね」
疑いを知らなさそうな丸い目が俺をしっかりと捉えていた。あまりにも屈託のない表情に気が削がれてしまい、いったん手を懐から抜いた。
息を整えているあいだに澪さんは、テーブルの上に湯呑みを並べ、同じ急須から茶を注いだ。冷静であることを心がけたが、敵が至近距離にいることに心臓は激しく暴れていた。
「実は、前に会った時から空木さんのことがちょっと気になってて、どんな方なのかなって思ってたんです。だから今日はお話できてすごく嬉しくて。いい人でよかった」
どこか恥ずかしそうにはにかみながら、茶を啜る吸血鬼。俺も湯呑みに手をかけたものの口をつけることはしない。ひたすら攻撃の機会を窺っていた。
騙されるな。狡猾で、残忍で、ひとの命なんかなんとも思っちゃいないんだ。きっとこの曇りない笑顔だって、俺を喰らうための欺瞞に違いないはず。
今なら仕留められる、仕留められるのに。
心中穏やかではない俺の気も知らず、彼女は笑顔で話し続ける。
「昔から、いろいろあって、あっちこっち転々としてたんですよね。家族も、友達もいなくなっちゃって。私、人……見知りなので、なかなか知り合いも作れなくて。いずれまたどこかに行くことになっちゃうと思うんですけど。空木さんと知り合いになれたから、ここには長く住めたらいいな。なんて」
徐々に憂いを帯びていく声に、今度は大きく気を削がれた。
吸血鬼の命は人間よりはるかに長い。おそらく途方もなく長い年月を、俺たちのような存在からひたすら逃げて暮らしていたということなのだろう。
幼くして家族を亡くした俺は、執行官に救い出されそのまま管理局に保護された。『向いている』と言われ、そのあとはひたすら執行官を、復讐することを目指して訓練や強化に明け暮れていた。子供でいることは許されなかった。
コミュニケーションの訓練のためにあてがわれた人物はいるが、本当に親しいわけではない。もちろんこの町に頼れる人も、心許せる人もいない。
湯呑みから立つ湯気をじっと眺めた。薄緑色の丸い水面には、もちろん見慣れた顔が映っている。
吸血鬼である彼女の姿はここにも映らない。しかし孤独だという意味では、どこか自分と重なった。
俺は、すっかり乱れた上着の合わせをしっかりと正した。
「……俺も似たようなものかもしれないです」
「……そうですか。生きてるといろいろありますよね」
思わずこぼしてしまった一言に、そっと背中をさすってくれるような優しい声が返ってきた。
澪さんの不自然なほど真っ黒な瞳はなぜか潤んで揺らめいていた。
◆
結局、何もできずに澪さんの部屋を後にし、夜道を一人で歩いていた。茶をひと口飲んでしまったが特に身体に異常はなく、代わりに胃が空であることを腹の虫が不満そうに訴えてきた。
空を見上げると、眩しいくらいに明るい月がポッカリと浮かんでいる。公園で見た澪さんの白い肌を思い出してしまい、首を振った。
公園で見たのは間違いなく吸血の現場だった。彼女はあの男性の血を吸って、そのあと何かの拍子にああなってしまったのだろう。あの刺激的な格好は目をつけた相手を誘惑し、ごく自然に密着するためのもの。
無理やり襲うこともできるのにそれをしないということは、血を吸うために人間を殺す気はないということだろうか?
必死で考えたが、当然わかるはずもなかった。
決して彼女が美しい人だから見逃したわけではない。でもまさか自分が迷ってしまうとは思わなかった。本当に、いったい何をしているのかという感じだし、正体をわかっていながら見逃してしまうことは重大な規則違反なのだが。
今のところこの町では出現の噂が囁かれているというだけで死者までは出ていない。単に困っていたところを助けてくれたのだと信じて、今日のところは気がつかなかったことにした。
「甘いな……」
心動かされた身の上話だって本当のことかわからないし、今日は手を出されなかったのだって、単に泳がされているだけのかもしれない。いずれ手を下す必要があるし、このまま放置しておくわけにもいかない。
俺は翌日から監視行動に入ることにした。
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