第2話

 街灯がほの明るく照らす道を、二人で並んで歩く。時間が時間だけに俺たち以外には誰もいなかった。彼女は『みお』と名乗って、俺も続けて名乗った。


「空の木、で空木うつぎさん。下のお名前は?」


「櫂人、です」


「かいと、さん。覚えました」


 澪さんは俺の名前を繰り返しながら何度も頷くのを、少し照れくさい気持ちで見ていた。歩くたびにドレスの裾をヒラヒラと躍らせている彼女に、今日はいつもと雰囲気が違うと言うと、友達と飲みに行った帰りなのだという答えが返ってきた。


 一応、成人はしているのか。いったいいくつなのか気になるところだったが、尋ねるのはさすがに思いとどまった。女性に年齢を聞くのが不躾な行為であることくらい、さすがの俺にだってわかっていたからだ。


 途切れ途切れながら会話を交わしているうちに、彼女の住まいに辿り着いた。特に大きな特徴のない二階建てのアパートが、街灯の明かりにはっきりと浮かび上がっていた。コンクリート製の外階段を上がり、一番奥の部屋に通される。


「すみません、着替えてくるので適当に座っててくださいね。テレビ見ててもらってもいいので」


 彼女はそう言ってバスルームに消えた。彼女の住む部屋は、一人暮らしの部屋によくある、ダイニングキッチンの奥に一部屋という間取りだった。


 テレビを見ていてもいいと言われたので、テレビの前に腰を下ろすことにする。なんだかそわそわと落ち着かないのは、女性の部屋に入るのは初めてだから。そんなことを悟られたくないので、静かに室内を観察する。


 中に置かれた家具は必要最低限という感じで余計な装飾はなかったが、暖かな色合いでまとめられているからか別に殺風景でもない。窓際には片手に乗る大きさの鉢植えがみっつ、行儀よく並んでいる。


 綺麗に整えられたベッドがどうしても気になってしまう。俺はいったい何を期待しているんだと、腹の虫を泣かせてしまった時以上に情けなくなった。


 気を取り直し、目の前のローテーブルに置かれたリモコンを掴むと電源ボタンを押す。普段はテレビを見ることはないのでもちろん贔屓にしている番組などあるわけない。チャンネルをばちばちと変えて、適当なところで止めた。


「すみません。すぐにご飯作りますね」


 バスルームの扉が再び開くと、彼女は派手なドレスから前に見たのと似たような服装に変わっていた。長い髪を後ろでゆるく編み、首元の詰まった白のカットソーの上に白いニットのカーディガンを羽織り、ベージュ色のゆったりとしたズボン、そして黒縁眼鏡。


 香水は相変わらず香っているがが、妖艶とか色香なんて言葉とは無縁そうな姿には、落ち着くどころか心を小さく揺らされた。


「そうだ、嫌いなものはありませんか?」


 彼女は、エプロンを付けながら俺に尋ねる。


「ああ、いえ。別に。なんでも食えます」


「わかりました。少し待ってくださいね」


 テレビのバラエティ番組と、慣れた手つきで料理をしている澪さんの背中の間で目線をうろうろさせていると、ほどなくして何とも言えない良い匂いが漂ってきた。次第にテレビのことはどうでもよくなっていく。


「どうぞ、お待たせしました」


「……わあ。うまそうですね」


 目の前に料理が並べられた。出てきたのはキノコらしき物が乗ったパスタと、野菜のスープ。全体的に茶色くて見た目は派手ではないが、やったらめったら美味しそうな匂いがする。ふわふわと立っている湯気を吸い込むと胃袋がぎゅうと縮まり、うめき声が出そうになる。もう限界だ。


「ありあわせですみません。サラダを付けられたらよかったんですけど、スープを作ったところでお野菜がなくなっちゃって」


 料理を並べ終わった澪さんも、そう言いながら俺の斜向かいに座った。


「いえ、そんな。気にしないでください。ありがたくいただきます」


 手を合わせ、フォークで持ち上げたパスタをくわえた瞬間、口の中に衝撃が走った。美味い。いったい何をどう組み合わせたらこんなに美味くなるのか分からない。


 料理の味を的確に説明する語彙を持ち合わせていないが、とにかく、噛むごとにキノコの旨味がじわじわと染み出してくる。下顎がじんじんと痛んだあと、唾液がどんどん湧いてくる。口に含んだのは怪しいキノコかと疑ってしまうほど、首から上が大騒ぎしている。


 この料理はいったい何なのか聞こうとしたが、明らかに歳下と思われる女性に物知らずだと思われるのも恥ずかしかったので、懸命に脳内の知識をかき集めた。なんとなく醤油を使っているのではないかとは思うが、やはり正体はわからず。でも美味いことは確かだ。


「お仕事は何をされてるんですか?」


 初めて受けた刺激に目を白黒させている俺に、澪さんが優しく話しかけてくる。


「警備員………ですね。夜勤専門の。今日は非番だったんですが、夜に出歩くのが癖になっちゃってて」


 あまり大きな声では言えない職業についているため、深く詮索されないよう、人から聞かれたらそう答えることにしている。半分弱くらいは本当のことだし、大体はこの答えで納得してもらえる。ちなみに、非番というのは嘘で今も一応勤務時間中だ。


「じゃあ、買い物されるのはお仕事の休憩中とか?」


「そのとおりです。その日食べるものをあの時間に買いに行く、って感じで」


「おんなじ。私もお出かけは仕事の合間で、いつも夜ですね。太陽の光に当たると皮膚がかぶれちゃう体質なので」


 澪さんはは少し悲しげに笑いながら、自分の手の甲をさする。こういうのを『光線過敏症』とかいうんだったか。確かに彼女は日に当たると溶けてしまいそうなくらい、白く透き通った肌をしている。太陽を避けて暮らさなければならないのは大変だなと思う。


「あまり人に会わなくて寂しいですけど、割引シールがいっぱい貼ってあるのは嬉しいかな。宝物見つけたみたいな気持ちにならないですか?」


「宝物? そういう見方もあるんですね……俺は残り物としか思ったことないな」


 売れ残りを宝物とたとえるのがなんとも可愛らしいなと思いながら、スープの残りを飲み切った。澄んだ汁の中に刻んだ野菜と少しの肉が入っていたのを、残すことなくさらう。


 いつの間にかバラエティー番組は終わり、CMを挟んで深夜のニュース番組に切り替わる。ベテランらしき女性キャスターが、今世間を騒がせている汚職事件のニュースを読み上げていると、突然フレームの外から紙が差し込まれてきた。何か良くないニュースのようで、キャスターは表情をさらに引き締めた。


『速報です。K県でまた吸血鬼の被害に遭ったと思われる女性が遺体となって発見されました。これに関し、先ほど怪異対策局が緊急会見を開きました』


 画面はスタジオから中継画像に切り替わる。容赦なく瞬くカメラのフラッシュを浴びながら、怪異対策局局長……もはやお茶の間でもすっかりお馴染みになった狸似のオッサンが、ペコペコと頭を下げていた。


 吸血鬼。人間の生き血を啜って生きる怪異。が進み、最近ではすっかり数を減らしたが、それでも残党が何食わぬ顔をして人間に紛れ生きていて、時々こうして世間を騒がせる。


 報じられているのは対策局指定一八一四号と呼ばれる個体に関してだ。追手を嘲笑うかのように若い女性ばかりを狙い、辱めた挙句に吸血し数十人殺した吸血鬼。もはや生きるためではなく、単なる快楽のために人の命を貪っているのは明らかだった。


 殲滅のため、対策局の精鋭がK県全域に投入されているが、若い男性の姿をしていることがわかっただけで、詳しいことは何も掴めていない。犠牲者が増えるたび、対策局への非難もひび強くなっているのだが。


 画面がスタジオに切り替わり、別にその筋の専門家でもないコメンテーターたちが、自らの見解を口々に述べている。所詮は素人が考えた絵空事を、したり顔で語られることにうんざりしていると、突然テレビの電源が落ちた。澪さんがテレビを消したらしい。


「すっ、すみません。つい。怖くって」


「……ああ、気が利かなくてすみません」


 澪さんはエプロンの裾を握りしめて小刻みに震えていた。殺されたのが若い女性ばかりだと聞けば、当然の反応だろう。申し訳ないことをしたと思った。


「……大丈夫です。あ、お食事済まれたなら、お茶を入れてきますね」


「ありがとうございます。いただきます」


 俺が答えると笑顔に戻り、ゆっくり立ち上がった彼女。


 真っ暗になったテレビ画面には、部屋の様子がぼんやりと写り込んでいる。それをなんとなく見つめていると何かがおかしいことに気がつく。目を凝らす。


 ……ない。


 血の気が静かに引いていったのと同時に、パチン、と頭の中でスイッチが切り替わった。

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