孤独な銀弾は、冷たい陽だまりに焦がれて

霖しのぐ

現世編

第1部

第1話

 俺は、ひたすら夜道を急いでいた。


「任務の成績が良くてもこれでは。そもそも、お前は生きることに無頓着すぎる」


 ふと、上官の言葉と呆れ顔が頭に浮かぶ。確かに俺は仕事以外のなにもかもがどうでもいいと思っているが、また食事を抜いて倒れたなんて理由で注意を受けるわけにはいかなかった。


 評価にもまったく興味はないが、その度に長ったらしい説教をされるのはうんざりするからだ。


 自宅最寄りのスーパーの閉店時間は午後十一時。時刻はすでに十時四十五分。目的地は道を挟んで目の前。車通りもまばらになった車道を渡る。


 食料のストックを切らしていたのはわかりきっていたはずなのに、書類仕事に手間取ったせいでこんなにもギリギリになってしまった。人の目がないかを確認してから、駐車場の柵を跳び越え店の入り口に急ぐ。もはや自動ドアが開くまでのわずかな時間ももどかしい。


 店内に入ると、BGMはすでに蛍の光に切り替えられていた。


 一日の終わり、というより友や師との別れを象徴する曲。ゆったりとした旋律に心は落ち着くどころかむしろ気が急く。俺は買い物カゴを手に取ると、弁当や惣菜類のコーナーを目当てに、閉店準備に動く店員を避けながら店の奥へと進む。好きな食べ物は特にない。腹が膨れればなんでもいいので、隅で忘れられたようにたたずむ弁当めがけて手を伸ばした。


 指が冷たい物に触れてすぐに離れた。弁当ではない。誰かの手にぶつかったのだ。


 顔を横に向けると、いつの間にか隣には小柄な女性が立って、俺をじいっと見上げていた。長い髪を後ろでひとつに編んで眼鏡を掛け、服装も柔らかな色合いながら飾り気は一切ない。それなのに、俺は思わず見とれていた。


 夜の闇を写し取ったかのように黒い髪と瞳。しかしわずかに露出した肌は陽の光など知らないかのように白い。形のいい鼻と長いまつげに縁取られた瞳、咲き始めの花のようにほんのりと色づいた唇が、小さな顔に綺麗に納められている。外国の高価な人形のように、絢爛な衣装を着せられて、ガラスケースの中にいるのが似合いそうだ。


「あっ、すみません。私はこっちなので」


「あ、じゃあ」


 そんな息をのむほどまでに美しい人が、弁当の隣の塩むすびを取っている。なんとも言えないアンバランスさにあっけにとられながら、俺も値引きシールが重ね張りされて商品名が隠れてしまった謎の弁当を買い物カゴに収める。彼女のカゴの中には数種の野菜と、値引きされた何かの肉。夕食か夜食に何かを作るつもりだが、米を炊くのがめんどくさいのだろうか。


「どうかされました?」


 問いかけられ、はっと我にかえる。米って何分で炊けるんだ? と考えていた俺を見上げて、彼女は目を丸くして首を傾げていた。


「えっと……す、すみません。別に何もなくて」


 しまった、と思った。若い女性からしたら、目つきの悪い男にジロジロ見られたらそれだけで通報したくなるだろう。警察に身柄を押さえられるといろいろと面倒なのでどう言い訳をしようかと焦ったが、彼女は特に不快な表情はしていなかった。


「じゃあ、失礼しますね」


 こんな不審者にも礼儀正しく会釈をして去った彼女は、まっすぐにレジへと向かったようだ。柄にもなく女性との出会いに胸を高鳴らせている自分のことを、ただただ不気味だと思った。



 今日も俺は、閉店間際のスーパーへ向かっていた。もっと早い時間に行くこともできるのに、またあの女性に会えることをわずかに期待してわざわざ同じ時間の夜道を歩いている。しかし、あれから一週間ほど経っているが未だに再会を果たせていない。


 目の前には左右に分かれた道。ちなみにどちらを選んでも目的のスーパーにはたどり着く。


「今日はこっちにしてみるか」


 いつもは最短距離である右の道を選ぶのだが、今日はほんの気まぐれで公園を横切る左の道を通ることにした。


 いかにも子供が好みそうな色とりどりの遊具が並ぶ公園も、夜の十一時前ともなるとひと気があるわけもない。


 とはいえ、昼間の賑わいは想像することしかできない。ふと足を止め、誘蛾灯に集まる虫をじっと眺める。思えば俺もずいぶん前から、この虫たちと同じように夜に閉じ込められている。胸の中で、青い炎が揺れる。


 秋の涼やかな風が頬を撫でる。ふわりと花の香りが漂うが、詳しくないのでわからない。再び歩き始めようとしたところで、その中に馴染みのある匂いがかすかに混ざっていることに気づく。


 血の匂いだ。


 目を閉じると瞼の裏で銀の光が爆ぜる。スイッチが切り替わる。脳細胞が一気に覚醒し、続けて全身の細胞もそれに呼応する。


 踏み出した瞬間、女性の短い悲鳴が聞こえた。


 これは俺の仕事の領分だと、本能が叫んでいる。懐に手を入れ、柄を握りしめる。風上に向かい、全速力で駆ける。


「なあ、そのつもりだったんだろ」


「いやっ、そ、そういうことじゃなくって」


 目を凝らすと、植え込みの陰で大柄な男性に女性が組み敷かれていた。真っ黒なドレスから覗いた白い手足が、月明かりに艶めかしく照らされていた。


「おい、そこで何をやっている!!」


「なんだお前!?」


 声を荒らげた男の姿を確認し、俺は懐から一旦手を抜く。若い女性を狙うものには心当たりはあったが、外見の特徴が合わない。


「あ、あなたは……あっ」


 それに、なんとなく……女性の方には余裕があるように思えた。


 状況がよく読めないまま、数秒間思考し、


『もしかして、これは、お楽しみの邪魔をした?』


 このような結論に行き着き、急に気まずくなる。男はゆっくりと身体を起こすと、動けなくなってしまった俺に向かって、吐き捨てるように息をついた。


「ケッ! 美人局つつもたせかよ」


 どうやら俺を何かと勘違いしたらしく、男はそのまま逃げるように暗がりに消えてしまった。追うべきか否か迷っているとコートの裾を女性にしっかりと掴まれてしまい、前に進めなくなった。


「あのっ、助けてくれてありがとうございます。急に絡まれて困ってたんです。あと、私その、昨日お弁当売り場で」


「ん?」


――確かに昨夜、弁当売り場で言葉を交わした人がいる。


 この澄んだ声には聞き覚えがあった。しかし、どうやら女性というのは、髪型や服装を変えただけでまるで別人になってしまうらしい。変装というより、変身だと思う。

 露出の多いデザインの真っ黒なドレスと少しきつめの香水を身に纏い、長い髪を夜風に遊ばせている女性は、スーパーで出会った彼女とはすぐに結びつかなかった。


 決して暗がりに乗じて変な気を起こしたわけではないが、まさにガラスケース入りの人形のような姿を、まじまじと観察してしまった。


 スカートには深く切れ込みが入っており、そこから白い脚を惜しげもなく晒している。目線を上へ。大胆に開いた胸元から目が離せなくなった。華奢な彼女の胸は決して豊かではないが、こういうのも嫌いではない。たぶん。


 食い物といっしょで、別に何でもいい。何を考えているんだ。


「ああっ! えっと、ごめんなさい! こんなみっともない格好で」


 彼女は俺の露骨な視線に気づいたのか、慌てた様子で鞄を開き、ニットの上着を引っ張り出し素早く羽織った。前のボタンを素早く留め、さらに胸元をしっかりかき寄せる。


 絶対に俺には見せまいという強い意志を感じた。好きでもなんでもない男に対しての態度としては当然だが、その格好で夜道を歩いていたわけで。なぜかモヤモヤしてきた。なんでだよ。


 そんなことよりも。俺は重大なことに気がついた。


 彼女の口端から一筋、黒いものが垂れている。血の匂いがした理由はおそらくこれだ。


「あっ、あの、口から血が出てます。もしかして殴られたんじゃ」


「えっ……あ、さっき転んだ拍子にほっぺた噛んじゃって。大したことはないので大丈夫です」


 彼女はどこからか取り出したハンカチで口を拭うと、何事もなかったようにニコニコと笑う。繊細そうに見えて、意外と豪胆なんだろうか。助けにきた俺の方がだんだん落ち着かなくなってきた。


 いちおう、警察を呼んだほうがいいのではという申し出をしたものの、彼女は困ったような表情で「大丈夫です」と繰り返すばかり。これ以上は余計なお世話だとわかっていても、なんだか放っておけない。


 最近は、若い女性を狙った物騒な事件が続いているからだ。


 緊張の糸がほぐれ切ったその時、腹の虫が大声で鳴いた。俺はやっと、ここを通りがかった目的を思い出した。


「うわ……メシ買いに行くところだったんだ」


「えっ、今何時です?」


 彼女は鞄からスマホを取り出し、時計を確認した。俺も同じように。時刻は午後十一時ちょうど。もう蛍の光も鳴り止んでしまっただろう。


 今から徒歩三十分のコンビニを目指すのは面倒なので、今夜は抜くことに決めた。今までだって食事は適当でも死ななかったのだから、別に構わない。


「……とりあえず、近頃は物騒なんで、あなたを家の近くまで送ります」


 俺の提案に、彼女は何か閃いたようにポンと手を叩いて返した。


「あのっ、もしよかったらウチでご飯をご馳走させてもらえませんか? すぐ近くですし、助けてもらったお礼に。ねっ」


 別に恩を売るようなようなことはしていないのに、彼女はなぜか必死な様子。


 もし俺が先ほどの男のようによからぬことを企んでいたらどうするつもりなんだ? という疑問もあったが、あいにく俺にその気はない。しばし考え、そして好奇心が勝った。


「……じゃあ、お言葉に甘えて」


 そう、単なる好奇心、いや、もう少し突っ込んだものかもしれない。とにかく俺は彼女のことをもっと知りたいと思っていた。

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