第4話
「なんだ、普通に暮らしてるんだな」
そう言うしかないほどに、彼女の暮らしは『普通』だった。朝七時、ベランダに出てくると、室内に置いていた観葉植物の鉢植えを並べる。おそらく陽に当てるためだろう。
続けて洗濯物を干しながら、通りがかりのご婦人に会釈する。吸血鬼は陽の光に灼かれると灰になってしまうというのが定説ではあるが、実は多少なら耐性のある個体も確認されており、彼女はそうなのだろう。
そのあとは夕方までカーテンはしっかりと締め切られたまま。さすがに日中の強い日差しは命取りになるようだ。室内の様子はわからない。盗聴器を仕掛け忘れたことを後悔しながら、部屋から目を離さないように注意した。
そして日が傾くころカーテンが開き、彼女はベランダに再び姿を表す。洗濯物と鉢植えを取り込む。空が闇に染まるころ、ようやく外に出る。服装は、初めて会った時と同じような明るい色だが地味なものだった。
ところどころで道端の花や草を愛でながら夜道をのびのびと歩き、いつものスーパーに買い物に行く。帰りも買い物袋をぶら下げながら散歩をし、日付が変わる頃には帰宅する。
部屋にはしばらく明かりがついているが、午前二時ごろには消え、そこからは朝まで外に出てこない。意外なことに、朝起きて夜寝る暮らしをしているらしく、三日間変わることはなかった。
以上だ。今のうちに文書にまとめておきたいのに、いよいよ眠気で頭がまわらなくなった。
彼女の正体を確信している手前、応援を呼ぶこともできず全て一人でこなしたが、さすがに三日間不眠不休というのはやや無理があったようだ。瞼がもはや鉛のように重く、ついでに首も頭の重さに勝てなくなっていた。
明かりを消し布団に潜り込むと、すでにカーテンが白く透けていた。まもなく夜が明ける。
布団にくるまっているのに、どこからともなく冷たい空気が忍び込んでくる気がした。フローリングの床に直接布団を敷いているからだろう。自分を守るようにじっと身を丸めた。
この薄い布団を含め、この部屋にあるものはほぼ全て職場からの支給品。俺の私物は小ぶりのスーツケースひとつ分の洋服くらいで、居室にはあとは仕事用のパソコンしか目立つものはない。
任務の性質上、高い給金を受け取っているが使うことには興味がないし意味も感じられない。預金残高が着々と増えていくだけだ。
台所に置かれた洗濯機は動くが、冷蔵庫は壊れていて使えない。なくても問題はないし面倒なのでそのままにしている。食料を買いだめしたところで、こんな仕事をしていれば明日生きているという保証もないからだ。適当なものを食べて倒れなければそれでいいと考えている。今みたいに三日間水だけで過ごしたとしても、眠気の方が勝つほどだ。
澪さんは外に出ることはないだろうし、もう今日は夜まで寝よう……身をさらに丸めた時、新聞受けが音をたてた。新聞は取っていないのでダイレクトメールでも投げ込まれたのかと思ったが、すぐに今日が何日なのかを思い出す。
職場からの届け物だ。無理やり目を開けて起き上がり、新聞受けを開ける。やはり中身は宛名も差出人もない真っ白い小箱。これからしなければならないことを思うと途端に憂鬱になる。
「こんなの、俺の方がよっぽど化け物みたいだよな」
こっちはいちおう人間のはずなのにと、自嘲するように笑う。
箱を開け、緩衝材を剥がすと現れたのは数種類の薬剤。
すぐに布団に潜りなおす。両隣にも階上にも一般人が住んでいる手前、声を上げるわけにはいかないので、奥歯を割れんばかりに噛み締めた。
ほどなくして、全身を内から外から針で突き刺されるような激痛に襲われる。肺が潰れてしまったかのように苦しさに身を縮めてただ耐える。身体に薬が取り込まれるまでの間ずっと、あらゆる地獄をめぐらされているかのような堪え難い責め苦が続く。
復讐の誓いを立て、自らの身を銀の弾丸に変えた。しかし両親の仇を含め、敵を何体屠っても気持ちは全く晴れていない。そのことを上官に伝えると、『もっと殺せばいい』と言われた。
勝手に涙が一筋流れて落ちる。何も疑問に思ってはいけない。泣こうが喚こうが誰も手を差し伸べてはくれないのを知っている。赤い目が、俺をじっと見下ろしている。
憎しみの炎が揺らめく。
そうだ。殺さなければならない、全て。
◆
「あ、あのっ。大丈夫ですか!?」
目を覚ますと、思いもよらぬ人物が心配そうな顔で俺を覗き込んでいた。ついでにここは……自分の部屋ではない。見覚えがあるようなないような。
「うわっ!! ど、どうしてあなたがこんなところに!? いや、俺がか!! ええっ!?」
全てを理解し跳ね起きると、澪さんが身震いしたのがわかった。しまった、怖がらせてしまった。と思ったのも一瞬。
相手は見た目だけならうら若き女性だが……正体は。それ以上の思考は頭の中身が全てすり潰されたかのような頭痛に阻まれた。
どうしてこうなったのか記憶が曖昧だが、極度の空腹と疲労から薬の副作用がいつもより強く出た、といったところか。意識が朦朧としつつも、夜のスーパーに向かおうとして途中で力尽きてしまったんだろう。
「えっ、あ、えっと……お買い物の帰りに、公園で倒れているところを見つけてしまって。それでっ、えっと……たまたま通りがかった親切な男の方に、ここまで運んでいただいて……」
呆然としている俺に、澪さんはまったく目を合わせない。嘘をついているからだ。本当に俺を拾ったのがあの公園だとしたら、あの時間に誰かが通りがかる可能性はかなり低い。
吸血鬼と人間では腕力がまるで違う。たとえ細身で女性型だとしても、成人男性を担いで運ぶくらい造作もないはず。あまり認めたくはないが、俺は彼女にここまで運ばれてきたのだ。
「ああっ!?」
懐の武器のことを思い出し、慌てて着たままの上着を上から探ったがナイフも銃も位置はそのまま。弾を抜かれていないか後で確認する必要があるだろうが……さすがに剥き出しで持ち歩いているわけではないが、気づかれていたら大失態だ。
「どうかしましたか?」
「な、なんでもないです。その、助けてくださってありがとうございます」
なんとか平静を装っていたが、腹の中は氷点下まで冷えていた。なぜか彼女もまた動揺しているらしく、黒い目を激しく泳ぎ回らせていた。やっぱり、気づかれているのか?
「いっ、いいえ、私は当然のことをしたまででっ。ああっ、いや、親切な方に会えてよかった、よかったです!!」
いや、だとしたら、嘘をつくのがあまりにも下手すぎないか。狡猾で残忍……うーん。
正体に気づいていたとしたら、殺すチャンスはいくらでもあったはず。しかし、生きているということは何の手出しもされていない。ベッドに寝かされ、丁寧に布団をかけられていたわけなんだから。
澪さんは本当によくわからない人だと思った。しかし、彼女は俺が知っている吸血鬼像とは大きくかけ離れていることだけは確かなようだ。
とりあえず差し迫った危険はないと確信した瞬間、元気よく腹の虫が鳴いた。いい歳をして恥ずかしいことだ。正直、空気を読んでほしかった。
「あらっ」
「っつ……うう……」
ここはいちおう敵陣の最中なのにあまりにも緊張感がなさすぎる。そもそも、俺は吸血鬼にまんまと捕獲されているわけで。この場から生き延びられたとしても、執行官の名折れなのは確実だ。
これまで厳しい訓練を重ねてきたのに、想定外の事態の連続にさすがに余裕がなくなった。柄にもなくこれからのことを考えてひたすら落ち込む俺に思うところがあったのか、澪さんはポンと手を叩いた。
「もしかして、お腹が空いて倒れちゃったとか……」
まあ、ほぼ正解。
「単なる体調不良と寝不足……確かに仕事が立て込んでて、飯は一昨日から食えてないですけど」
「な、なるほど……お仕事、本当に大変なんですね。それじゃあ……」
素直に白状すると、澪さんは目を丸くしながらこくこくと頷いたので、背筋がビシッと固まった。何を言い出されるのか全く予想ができない。「殺すなら今ですね」とか笑顔で言われる可能性すらある。
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