五
駆け出したグラーノを、全員が追う。
もちろん向かう先は邸の主寝室、本来なら当主のみが使う部屋だが、なぜかその日は侯爵だけでなく息子のジャンルカも供にそこへ入っていった。
誰も疑問には思わなかった。
ジャンルカの部屋を整えるように指示したルチアーノは拗ねて引きこもっていた。
「お二人は、鳥の襲撃があると分かっていたということ?!」
まさか、そんな。
走りながらのルチアーノの疑問に、ジョバンニは首を振った。
「それはわかりませんね。
何某かの意思が働いていて、鳥も、騎士たちのことも操っている誰かがいたとしたら、侯爵たちも、あるいは」
誰が、いつから。
そんな疑問が新たに湧いてくる間に、グラーノが主寝室にたどり着き、ためらうことなく扉を開け放っていた。
「あの子、どうしてこの邸のこと全部分かっているのかしら……っ」
邸の主人の休む部屋だ。
建物の構造はどこも大抵同じだから、ある程度の場所は把握されても仕方のないことだが、誰でも勝手に入れるようでは困る。
主人不在で、外側から扉を開くには手順がいるのだが、グラーノはそれらを全て無視してしまった。
「細かいことはあとだ」
シルヴィオに嗜められ、グラーノに遅れて部屋に駆け込むと、そこにあるはずのものがなくなっていた。
続きの間から踏み込んだその先は、本来キングサイズの寝台が存在感を放って横たわっているはずだった。
しかしそれはベッドボードの作りつけられていたはずの壁の向こうに飲み込まれ、割開かれた床に、暗闇に続く階段の入り口が覗いていた。
「なぁに、コレ……」
呆然とするルチアーノの呟きに答えは返らない。
グラーノは、隠し通路の扉を開いたものの、その先に踏み込むことを躊躇していた。
「この先は、どこへ?」
シルヴィオがゆっくりとグラーノへ問うと、息の荒いグラーノは何かを振り絞って思い出すように、途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「……これは、グラーノ家当主にのみ代々伝えられる、隠し通路で、その時おいて他に開くことは許されない……」
侯爵位を継がせる時、息子に伝えるとともに、ほとんど忘れ去っていた存在。
ただ口伝のみ、書き残すことも許されない扉の開き方は、記憶の奥に固く封じられていたのが解き放たれたように、突如グラーノの頭の中に浮かび上がった。
「……聖堂へ……逃さな、ければ……」
耳鳴りがする。
思い出そうとすればするほど、脳を引き絞るような痛みが走る。
「グラーノ殿!」
はっきりと顔に脂汗を浮かせたグラーノの肩を、エンディミオンが思わず掴んだ。
「……っ」
びくりと身体を震わせ、焦点の合っていなかったグラーノの目に光が戻る。
「────暗示魔法か」
「やめてよ。昔々のそのまた昔に廃れたやつでしょ。
そもそも禁忌魔法」
グラーノの様子に思い当たることがあったシルヴィオに、フェリックスは作り笑いに失敗した顔で指摘した。
グラーノの背中を撫でるセーラとエンディミオンの後ろで、アンジェロも暗い顔をする。
「禁忌の扱いになっているだけで、使えないわけではないよ」
その証拠に、アンジェロをはじめ高位貴族の生まれなら、知識としてその魔法を学び、それがどういう効果や副作用を生むかをひととおり教えられている。
そうして、実際に使われることがあることも、知っている。
「……使える、人間は、そういないけれど」
使える「属性の」、という言葉をアンジェロは飲み込んだ。
魔法の属性は六属性。
基本は地水火風の四属性で、今では光と闇の属性を持つものは珍しい。
光は王家に残り、闇属性を持っていればこそ、ガラッシア家に迎え入れられた義弟の存在がアンジェロの脳裏に過った。
「十二貴族くらい古い家だと、残っていると、お聞きしますね」
家系によっては、血を残すため、家を残すためのあらゆる手段を惜しむことなく、自らの子々孫々に及ぶまでの制約の魔法を使っていることがある。
今の時代の誰、というよりは、遥か昔の先祖の時代、その属性を持つ誰かに依頼してかけられた暗示の魔法ではないかと、クラリーチェが言い添えた。
「それは……そうだろうね。
ヴィジネー家当主に昔から代々かけられている暗示魔法……。それで、この扉を閉ざしているその時がいつを指すのかは、まったくわからないけれど」
何のための隠し通路で、いつのために閉ざしていたのか。
アンジェロの視線の先で、ようやく落ち着いたようにグラーノが体を起こした。
「すみま、せぬ。
無理やりに記憶を呼び起こしたせいで、まだ頭の中は整理されてはおらぬのですが……。
もう、我々の世代では形骸化したものと思うておりました。
侯爵位を引き継ぐ儀式のようなもので、儂も、実際に開いてみたことはなく……今がその時なのかも、はっきりと致しませぬ」
主人のいない寝室の床にぽっかりと空いた穴は、その先も見えないほど深く続いていた。
「先ほど、グラーノ殿は"聖堂へ"と言っただろう。
やはりピエタ聖堂に繋がっているのだろうか」
「じゃあ、侯爵様たちは聖堂に?」
「ルチアーノ殿は聖堂も含めて隈なく探したと言ったのでは?」
階段の先を覗き込んだエンディミオンに続き、セーラとジョバンニも暗闇に目を凝らす。
「ルチアーノさん……?」
グラーノの正体もわからないまま、話についていけないのか聞いていないのか、黙ったままふらふらと歩き出したルチアーノを気遣い、ベアトリーチェが様子を窺うと……。
「ねぇっ、ちょっと……ほんと意味わかんない!」
この町へ来てから、アンジェロに向ける以外はずっと気の立った声色のルチアーノだったが、ここへ来て、一際混乱してヒステリックな声が上がった。
ルチアーノが立ったのは、寝台があったはずの向かいの壁際にある、背の低いアンティークの飾り棚の前。
その上には、垂れ絹に覆われた大きな鏡が掛けてあった。
美のカリスマの名に相応わしく、この二晩でロクに自らの顔を見ていなかったことを思い出したルチアーノは、ついて行けない展開と何も知らない疎外感、そうして訳のわからない状況からの現実逃避に、ふと鏡を覗き込んだところだった。
ちゃんと、アンジェロに綺麗だと思ってもらえる顔をしているだろうか、そんな思いで覗き込んだその先で見えるはずの自分の顔は、映らなかった。
「こんなの、いつからあったの?!」
ルチアーノの声に、全員が一斉に振り返った。
隠し通路ばかりに気を取られ、気が付いていなかった。
大きな鏡の代わりに垂れ絹の向こうにあったのは。
「ルクレツィア……?いや……」
「母上……?」
見上げる大きさの肖像画は、一瞬よく見知った愛しい少女、あるいは妹にも見えた。
だが、こちらを向いて淡く微笑むその姿に少女のあどけなさはない。
妙齢の落ち着きでこちらを見守るのは、ルクレツィアの母、エレオノーラにとてもよく似た女性の肖像画だった。
千年に渡り、ステラフィッサ王国を支え続けた十二貴族の始祖、その十二人について残っているのは伝説のような話ばかりだ。
その姿形についてもさまざまな形容の文献が散見され、どれが本当のことかは今はもう定かではない。
当時のものとして公にされている肖像画もあるにはあるが、それが本物であるという確かな証拠はなく、またそれを実在の人間と見るには、いかにも拙い技巧のものであった。
時代は中世に下り、絵画や彫刻に才を発揮したカンクロ家の子孫の功績により、実物に近い精巧な肖像画がようやく普及するようになる。
その頃にはすでに十二始祖はお伽噺のような存在で、あらゆる文献に合わせて、複数の違う相貌の肖像画が生まれていった。
「────エレットラ様……」
だから、それがその人であるとは、グラーノですら知らないはずだった。
十二始祖の中でも、とりわけエレットラ・ヴィジネーの正確な情報は少ない。
治癒の力で人々を癒す姿は女神か天使のように描かれることが多く、神話画か宗教画か、生身の人間からはかけ離れたモチーフのものばかりが流行り、後世に残った。
まして、その秘されていた手記に見る人間性からも、進んで肖像画を描かせるような人物像ではない。
ヴィジネー家には、エレットラ・ヴィジネーの確かな肖像画は存在しなかった。
今、この時まで。
「これが、ヴィジネー家の始祖?」
あまりにも母に似過ぎていて、アンジェロは狼狽した。
確かにエレオノーラはヴィジネー家の直系だ。
ガラッシア家に嫁ぎ、アンジェロが物心ついた頃にはすっかり公爵夫人として落ち着いていたため、侯爵家の人間と言われると多少の違和感があるのだが、その類稀な治癒の力が示すのは、間違いなくヴィジネー家の血筋、ということだった。
「公爵夫人を描いたもの、ではなさそうだな……」
軽率に触れることは躊躇われ、すぐ側まで顔を近付けて目視したシルヴィオは、絵の状態からそれだけは汲み取れた。
千年前にこれほどの技巧の絵画が存在していたというなら色々と辻褄が合わないが、まるで写真に撮ったエレオノーラのようなのに、確かにその紙も、よく見ると細かいヒビの入った顔料も、古い時代のものであることを証明していた。
「これは、間違いなくエレットラ・ヴィジネーなのか?」
肖像画を見上げ、瞬きも忘れたように丸く見開いたままの瞳からポロポロと涙を溢しているグラーノにエンディミオンは問い質した。
グラーノは肖像画を見た時、はじめて見た、という顔をしていた。
けれど自分の孫娘とはひとつも思わず、エレットラ・ヴィジネーだと確信しているようだ。
「…………扉のその先へは、エレットラ様が導いてくださる、と」
記憶の底に封じられていた隠し通路の秘密は、侯爵位を引き継ぐ儀式に組み込まれている。
先代から次代へ繰り返し伝えられてきた誓文には、その一言が入っていた。
それがどういう意味なのか、侯爵時代にグラーノは何度も考えた。
エレットラのはじまりの地、そこに建つ侯爵家の別荘の、いつも見ていた鏡にこんな仕掛けがあるとは露とも知らずに。
ヴィジネー家の始祖は、ずっとここで見守っていたのだ。
「面白い仕掛けですねー。
どうなってるんだろう?」
隠し通路が開いた時にだけ、今まで鏡だったものの後ろに隠されていた肖像画が現れるようになっているのか。
そもそもこの隠し通路もどうやって開くようになっているのか、開けるところを見損ねて失敗した!と嘆きながらジョバンニが飾り棚に体重をかけ、エレットラの絵の覆いとなっていた鏡のようなものに触れようとした、その時。
────ゴーーーン、ゴーーーーンッ……
大きな鐘の音が空気を震わせ、町中に響き渡った。
「なに……?」
突然の大音量に、首を竦ませてセーラは隣りのクラリーチェに体を寄せた。
クラリーチェもセーラを守るように腕に囲い込み、アンジェロもベアトリーチェを抱き寄せる。
「ピエタ聖堂の鐘だけど……」
この音が何かを知っているルチアーノも奇妙な顔をした。
「この鐘は、年に一度、礼拝堂に水が満ちるのを知らせる合図ですが……」
涙を拭い、グラーノも緊張した面持ちになった。
ピエタ聖堂の鐘は、グラーノが言うとおり年に一度鳴らされる。
エレットラがヴァルダッサーレに拾われた時、燃え盛る村から御堂を守るように湧き上がってきた泉は、千年たってもまだ枯れることはなく、その日が来ればまた御堂の周りを満たすように上がってくる。
御堂自体も、あの日のまま聖堂の中心として保存され、ヴィジネー家の直系でもおいそれと立ち入ることのできない神域を形成していた。
ピエタ聖堂を人気の観光地にした礼拝堂のステンドグラスの真下、すり鉢状に沈ませた床に敢えて水を湛えて、その中心に小島のような御堂が佇む。
晴れた日には、御堂を取り囲む水面にステンドグラスの模様が反射して煌めき、格別な光景を生み出していた。
観光客は柵越しにそれを鑑賞することができるが、年に一度、夏至にもっもと近い新月の日、日没と同時に自然と湧き上がる水が礼拝堂の床まで溢れるように設計されていた。
その日は観光客を入れることはできないが、水が満ちるこの一日こそ、ピエタ聖堂の祭日である。
聖堂の周りに集まった参拝客に、鐘を鳴らすことで水が満ちはじめたことを告げるのが慣わしになっていた。
そして、翌日に控えた新月こそ、年に一度、水が湧き上がる日なのだ。
鐘が鳴るのなら明日。
まだその時には早く、まして……とグラーノが声に出すより先に、ラガロが寝室を横切り窓際に走った。
「聖堂に、誰か居る」
閉め切ったカーテンの隙間から警戒して外を覗き見た金の眼が、邸からは距離のあるピエタ聖堂の鐘楼に人影が走るのを捉えた。
「そんなの言われなくてもわかるわよ!
誰か居なきゃあの鐘は鳴らせないんだから!!
でもその誰かってダレ?!みんな居なくなったのに!!!!」
ルチアーノの金切り声が、鐘の音の余韻を掻き消した。
鳥に襲われた日から続くルチアーノの恐怖と混乱は鐘の音によりますます大きくなり、取り乱すことのないよう、王族の、十二貴族の子弟としての振る舞い方を幼い頃から叩き込まれているエンディミオンたちの中で、唯一率直な心情を露わにしていた。
「ルチアーノ、落ち着いて」
アンジェロが宥めるが、誰もが思っても口にしないことをルチアーノがはっきりと言葉にするから、直面している問題はより明確になった。
「……こちらに来いと、呼んでいるのかな?」
公爵夫人にあまりに似過ぎたエレットラ・ヴィジネーの肖像画を見上げつつ、エンディミオンは次に取るべき行動の方針を示した。
ヴィジネー家の抱える秘密はもちろん気になるが、それを明かす前に、鐘を鳴らした人物が誰かをはっきりさせたほうが早いかもしれない。
隠し通路が聖堂に繋がっていて、侯爵たちがそこにいる可能性もまだあるが、どちらにせよ、明日の本番はあそこが目的地なのだから、遅かれ早かれ赴かなくてはならないのだ。
ならば今日、下見ついでにそこに何が待ち受けているのか確認しに行くのも間違いではないはずだ。
「歓迎するよ、って言うんならいいですけどね……」
どう転んでも悪い予感しかなく、フェリックスはクラリーチェ、それからセーラ、ベアトリーチェを見た。
「オレが先に見て来ましょうか?」
何も全員で危険なところに飛び込む必要はないし、昨晩の魔物の襲撃からピエタの町までは強行軍だった。これ以上女の子たちにムリをさせたくはない。
ある程度回復した今なら、聖堂の中を「探知」することも可能だし、スコルピオーネは斥候を得意とする家系だ。
様子を見に行くだけなら、誰よりも自分が適任ではないかとフェリックスは提案した、が。
「それでフェリックス様まで消えてしまったらどうするのです」
悲壮な顔で、クラリーチェに止められた。
「フェリックス様お一人で行かせるわけには参りません。行くのなら、私も同行いたします」
「クラリーチェが共に行ったところで、二人で居なくなることも考えられるだろう。
ここは無理も無駄も承知で、全員で動いたほうがいい」
結局、騎士たちが居なくなった原因もわかっていないのだからと、シルヴィオにも反対されてフェリックスは肩を竦めた。
「では、全員で聖堂に向かうことにして……どうします?念のため二手に分かれます?」
正攻法に真正面から乗り込むか、今、口を開けている隠し通路を進むか、方法は二通りある。
ならばそれぞれ試すのもありではないかとジョバンニが一計を案じた。
「貴様は何を聞いていたんだ。
全員で行動すると言っただろうが」
「……いや、ジョバンニの言うとおり、二手に分かれるというのも手かもしれない」
シルヴィオが咎めるのを、エンディミオンが制止した。
「全員で動いて、全員が動けなくなる、ということも考えられる。
ならば予防策として、二組くらいになら分かれてもいいのではないか?」
何が起こるか分からない渦中、迷っている時間もなく、王太子であるエンディミオンの決定がこの場では絶対となる。
「───では、地上から聖堂に向かうのは殿下、セーラ様、私、ベアトリーチェ、それからラガロ」
「ハイ!!ボクは断然隠し通路に興味がありますよ!」
「ジョバンニはそう言うと思っていたよ。
隠し通路を行くのはグラーノ殿、シルヴィオ、フェリックス、クラリーチェ嬢、」
「わ、私はアンジェロ様と一緒がいいわ!」
「ルチアーノ、君はヴィジネー家の従者だ。グラーノ殿に付いて行って。
もしかしたら隠し通路をジャンルカが進んだかもしれないだろう?」
「でもっ、……ていうか、さっきからこの子はいったいなんなの?」
アンジェロが取りまとめところで、ルチアーノがくすぶっていた疑問をようやくもう一度投げかけることに成功した。
「君が仕えるべき家の、今最も必要とされている大切な方だよ」
アンジェロにとっても曽祖父にあたるが、実感はない。
ドナテッロ・ヴィジネーは、アンジェロが生まれる前に聖国へ旅立っている。
それでも母やルクレツィア、自分と同じ色をしたサファイアの瞳は優しく、侯爵家の人間を案じるように、アンジェロのことも見つめていた。
「グラーノ殿、くれぐれも気をつけてほしい」
ヴィジネー家の隠し通路だが、今はどんな危険があるかはわからない。
エンディミオンは幼い肩に触れ、真摯に告げた。
ヴィジネー家の秘密には星の災厄の謎を解くヒントがあるかもしれないし、ルクレツィアを救うためにも、どちらもグラーノがいなくてははじまらないのだ。
本当はラガロを付けたいところだが、見通しの良い地上で、星の巫女を連れて行くなら、この組み分けがベストだろう。
「では、また聖堂で」
シルヴィオたちにグラーノを託し、エンディミオンたちはそれぞれの道へ分かれ、聖堂へ向かっていった。
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