二
ステラフィッサ国最古と謂れる「ピエタ聖堂」の歴史は、建国よりさらに遡る。
歴史書にはじめて登場するのは、ヴィジネー侯爵家の祖となるエレットラ・ヴィジネーとバルダッサーレ一世の出会いの一節で、今のステラフィッサ国のある一帯を統一しようとバルダッサーレ一世が挙兵する以前、彼がまだ一介の見習い兵士だった頃、エレットラと邂逅したのがこの聖堂のある辺りであったとされている。
「殿下は、そもそものピエタ聖堂の由縁をご存知ですかな?」
馬車に乗り込み、領境を越える頃にようやく粗方の事情を説明し終えると、グラーノはやにわに「ピエタ聖堂」の成り立ちへ話題を移した。
「いや……。
ピエタ聖堂はステラフィッサの正史以前、前の星の災厄より古いものだろう。
正史前の記録はとても少なく貴重だし、城の書庫でも読んだ覚えがないな」
グラーノの語った情報量にまだ追いついていないシルヴィオは眼鏡を外してこめかみを揉んでいたが、グラーノが新たに示した話題はエンディミオンの興味を引くものだった。
聖国へ旅立つまで七十年近く、ステラフィッサ国の中枢に携わっていたグラーノ──先々代のヴィジネー侯爵ドナテッロの記憶は、第一王子として生きてきたエンディミオンより遥かに長い。
その知識で星の災厄の謎が少しでも紐解けるなら、エンディミオンはどんな話も聞き漏らしてはならないと思っている。
まして、もしスピカの星の力を守備良くルクレツィアのために使えたとしたら……残された時間は短い。
「やはりそうですか……。
正史以降といえ、初代国王陛下から麾下の皆さま、十二貴族の祖となる方々についての文献も、今では作られた物語しか存在しませんからな」
星の災厄があったとされる千年前、この辺りは長らく小さな国や部族が小競り合いを続ける戦乱の世で、バルダッサーレがステラフィッサを建国してからがようやく「正史」という扱いになっている。
ステラフィッサが国として落ち着いた頃にはそれまでにあった町も建物もほとんどが破壊しつくされ、まともな文献は焼失して残っていなかった。
それでも千年かけて集められるだけ集め、現在王城の書庫に貴重な史料として厳重に保管されているものもあるが、正史以前に何があったかを知るには希少に過ぎる。
エンディミオンもそれらにひととおり目は通しているが、「ピエタ聖堂」の由来など、文化的な内容のものはほとんどなかったという事実しか思い出せることはない。
「そう言えば、エリサ様の日記を巫女に少し読み聞かせてもらったけれど、バルダッサーレ様を伝説の英雄のように思っていたのが、ずいぶん気さくなお人柄だという印象に変わったかな」
「その日記というのを、是非とも拝読したいものでしたが……」
「私も、読めるものならと少し教わってみたのだが、巫女の世界の言葉はとても難解だった。
当時の情景を読み解けるほどに修得するのは、少し骨が折れそうだ」
「ふむ、なるほど……。
やはり、おいそれと当時を知る術はない、と」
エンディミオンの言葉に、グラーノは少しだけ逡巡してみせた。
「殿下は、星の災厄について古い貴族の家々を訪ねて回っているとか」
「そうだな。
なにぶん千年前に何があったのかを詳細に示す資料がない。星を集めたところでどうすればいいのか、今のところわかっていることはないに等しいから、星集めと合わせて手がかりを探しているところだが……」
「我がヴィジネー家の、エレットラ様の手記については?」
「……!」
グラーノの出した「エレットラ様の手記」という言葉に、エンディミオンの顔色が変わった。
「やはり……孫も息子も、この話は殿下になさらなかったようですな」
躊躇う気配はあったものの、グラーノは率直にエンディミオンに事実を告げた。
ヴィジネー家には、まだエンディミオンに伝えていないことがある、と。
「エレットラ様の手記は、ヴィジネー家の継承者のみが読むことを許された記録でございます。
日記というよりは備忘のそれに近く、あまり多くを語らないご性分だったのかもしれませんが、心情のようなものはほとんど書かれておりません。
日々の診療記録が簡素にまとめられ、日付や備品の増減だけは細かく記されておりますが、星の災厄については建国王の行軍記録のほうがよほど手がかりがあるのではないかと……。
そんなものが星の探索に必要かと問われれば、果たして役に立つのか、という判断をしたのやもしれませんが……」
「星の災厄に関することは、どんな些細なことでも情報を提供するよう王命があったはずだ!
ただでさえ分からないことが多いのだ。
国の存亡にすら関わるのに勝手な判断で出し惜しむ理由とは一体なんだ?」
各家に門外不出の記録があるのはエンディミオンも重々承知していた。
だから時間を惜しまずに貴族たちの邸に自ら赴き、話を聞き、時には頭を下げて協力を依頼してきたが……星の災厄に関わる裁量権を得ても、これほどに情報が秘匿されているものかとエンディミオンは落胆した。
さらにルクレツィアを救うためにスピカに関わるすべてを明らかにしようとヴィジネー家には度々足を運んでいたのに、まだ自分の知らない話があるのかとやりきれない思いすら湧き上がった。
「……まこと、殿下の仰るとおりでございます。
出せる札を出すべき時に出さないなど愚かなこと」
身内とはいえ、グラーノは今代の侯爵とは考え方が異なっていた。
ヴィジネー家が当主だけに千年もかけて伝えてきた話を、今エンディミオンに明かさずに何の意味があるのか。
まだ星は四つ目とはいえ、十二の星を集めた時、一年も経たないうちに星の災厄がやってくるはずなのだ。
もし星の災厄を止めることができなければ、侯爵家の体面などないに等しくなる。
「────ただ、これだけはご理解いただきたい。
アレには、ヴィジネー家が公にしたくない事実も書かれているのです」
治療師・エレットラの手記は、淡々と紡がれていた。
自身の主観をほとんど挟まず、客観的な事実だけが端的に記されている。
……そんな中に残された感情の吐露のようなたった一文を、おそらくヴィジネー家の継承者たちは衝撃とともに読んだことだろう。
そうして、これは隠さねばならないことだと、怖れた。
「老人は昔話ばかりが長く恐れ入りますが、殿下には、儂からお伝えできることは今すべてお話しいたします」
グラーノは、知られざるエレットラの生い立ちと「ピエタ聖堂」の概要を、エンディミオンに語りはじめた。
「エレットラ様の手記は、バルダッサーレ様に拾われたことからはじまります」
*
ピエタ聖堂のある辺りは、四方を山に囲まれた小さな集落で、当時は一見して人の営みがあることがわからないほど奥深くに存在していた。
けれど山の向こうから上がる火の手を見つけ、近くで野営していたバルダッサーレが駆けつけた。
煙を頼りにバルダッサーレがたどり着いた頃には炎は鎮火していたが、そこに生者の気配はなく、幼い少女だけが生き残った。
燃えて荒れ果てた村の中、一棟だけ燃え残っていた小さな御堂。その中から、エレットラはバルダッサーレに助け出されたのだ。
一人の少女が押し込められていたその御堂こそが、のちの「ピエタ聖堂」の原形だった。
御堂だけが燃え残ったのは、一年に一度だけその周囲に泉が湧くからで、一晩ですぐに水は引いてしまうけれど、子ども一人が入るほどの大きさの建物を守るくらいに、並々とした泉が出来上がるようだった。
バルダッサーレに救われ、その妹・ルーナの看病を受けて目覚めたエレットラには記憶がなかった。
少女はエレットラという名前だけは覚えていたが、それ以外はすべて空っぽの状態で、エレットラの手記は、バルダッサーレやルーナから聞いたことを書き留めることからはじまっていた。
もう忘れないように、また忘れても思い出せるように、という訓練の跡でもあった。
*
「エレットラ様は記憶を持たず、バルダッサーレ様に保護されることになりました。
バルダッサーレ様のもとには、サジッタリオ家、スコルピオーネ家の始祖様がすでに同じように拾われていらっしゃり、エレットラ様はルーナ様に付いて治療師の手伝いごとをはじめるようになられました。
……ここまで、エレットラ様についてはおそらくどの歴史書にも載っていない内容かと」
グラーノが語った内容の一部、サジッタリオ家とスコルピオーネ家の始祖がバルダッサーレの配下になった経緯は、「正史」にも残されている。
ルクレツィアがいつか、「バルダッサーレ様はよく人をお拾いになりますのね」と呟いていたのをエンディミオンはふと思い出した。
巫女を拾い、巫女を導くために里を出て行き倒れていた星の民を自称する男を拾い、とエリサの日記を読み解いていった時に口にしていただろうか。
はじめの星を手に入れることになったカルロ・サジッタリオ、そしてスコルピオーネ家の始祖ネヴィオは、戦災孤児であったのをバルダッサーレに保護され、そのまま彼に仕えるようになっている。
きっとその史実が念頭にあって、ルクレツィアの感想になったのだろう、そんなやり取りがもう随分昔のことのような気がして、エンディミオンは暗い気持ちに落ち入りそうになった。
どんなに気を紛らわそうとしてもふとした瞬間にルクレツィアのことを思い出し、その度にあの柔らかな声も笑顔も、永遠に失ってなるものかと何度も心を奮い立たせる。
目裏に浮かんだその姿に落ち込む気持ちを塗り込めて、エンディミオンはグラーノの語った話にもう一度頭を切り替えた。
「なぜヴィジネー家の始祖だけそのくだりが省略されて……いや、故意に秘匿されている……?」
エンディミオンは疑問を口に出した。
そしてもうひとつ。
肝心なのは、エレットラが隠れていたという御堂だ。
一年に一度、御堂を取り囲むように泉が湧くという不思議な現象によってエレットラは救われている。
聖堂として今の建造物に整えられる前に、すでにそこには何らかのいわくがあった。
「千年前の星の災厄より前にも、星は降ってきていたとも考えられるか……」
シルヴィオが、エンディミオンに代わり考えついた同じことを言葉にした。
グラーノから説明された諸々の事情をようやく整理できたところに、さらに語られたエレットラの生い立ちはシルヴィオもはじめて耳にすることで、考えることがあまりにも多すぎる。
そもそもの目的であるヴィジネーの星と、スピカによるルクレツィアの救命。
それだけでも予断を許さない状況なのに、そこへ星の災厄の手がかりがわずかに加わった。
星の災厄とは何なのかを考えた時、そのはじまりが必ずあるはずだが、それがいつなのか。
千年前なのか、それよりもっと前なのか、その違いはあまりに大きい。
ステラフィッサ国の正史以前の記録はほとんどない。
それが、星の災厄による被害ですべて失われているとしたら、やはり尋常ならざる事態が引き起こされるということになる。
「その手記には、聖堂のことについては他に何か書かれていないのだろうか?」
エンディミオンが問うたが、グラーノは申し訳なさそうに首を振った。
「必要以上なことをエレットラ様はお記しになりませんでした。
ピエタ聖堂を建てるにあたっても、御堂の保全を目的とする、とだけ」
「城にある史料には、“エレットラ治療師より、聖堂の建て替え要請有り”という記述があるから、正史より古くからあるものだという認識があったけれど……」
「聖堂と御堂を誤って転記した可能性もあり得ます。我々が読めるのは古びて傷んだ原本ではなく、写本ですから」
「どちらにせよ、ヴィジネー家の始祖が居た場所には、千年前よりもっと前から星の降る兆しがあった、と考えるのは飛躍のし過ぎとも思えないな」
「その可能性がある、ということだけ心に留めておきましょう」
シルヴィオの肯定を得て、エンディミオンも頷き返した。
結論を出すのは尚早だが、その視点を持って「ピエタ聖堂」の、ヴィジネーの星の降臨を迎えることは無意味ではないはずだ。
「もう少し時間を割いて、ピエタ聖堂、それから他の星の降った場所についても、千年前より遡って何かが起こっていなかったか、調べる必要がありそうですが……」
シルヴィオがこれからの調査方針の算段をはじめようとすると、「その前に、」とエンディミオンが制止をかけた。
「グラーノ殿、星の災厄について、貴重な情報を提供していただき感謝する」
当代の侯爵の意に反して、グラーノがエンディミオンたちに「エレットラの手記」の存在について明かしてくれたことは幸運だった。
グラーノが幼いままであれば、ヴィジネー家はこの話を最後まで表に出さないということもあっただろう。
だが……。
「グラーノ殿、先ほど貴公が言ったヴィジネー家が公にしたくない事実とは、エレットラの生い立ちについてではないのだろう?
このことを公にすれば、必然、手記全体を公にしなくてはならなくなると考えたから、ヴィジネー家は当主にしかこの手記の存在を明かさなかった」
エレットラの隠れていた御堂、そしてそこで起こる一年に一度の不思議な現象について、星の災厄と簡単に関連付けていいわけではないが、関わりがないと断言する根拠もないはずだ。
手がかりとなりそうな情報は全て提供するように、という王命は決して軽いものではない。
それでも当代の侯爵が、隠すことに決めた理由がある。
それは、「スピカ」に関わるものではないのか。
エンディミオンにはそんな予感があった。
「殿下、もちろんこの話をすると決めた時、それについてもお話しすると、儂は覚悟を決めております。
お話しすれば、そんなこと、と殿下はお思いになられるかもしれない。
けれど、ヴィジネー家の権威は、根強くそこに由来しているのです」
エンディミオンの夕焼けの瞳に強く促され、グラーノは腹を括るように言葉を重ねた。
窓の外はそろりと日が傾きはじめ、間もなく今日の宿営地に到着するだろう。
グラーノは窓の外に一瞬目を逸らす。
エレットラの出発地、「ピエタ聖堂」は、峠をもうひとつ越えた先にある。
「先の巫女様と建国王様とともにこの地を訪れ、星が降るのを待ち、そうしてエレットラ様は星の力を得た。
これにより、エレットラ様に連なるヴィジネー家は治癒の力を使えるようになりました。
それについて、エレットラ様が書き残したのは、たった一言です」
『────星は、思ってもみない力になってしまった』
それは、治療師として慈愛に満ちた人物像として描かれる、ヴィジネー家の始祖としての言葉ではなかった。
思っても見なかった…………長く戦場を渡り歩き、戦士を癒やし続けていたエレットラが望んだのは、「治癒の力」で彼らを治すことではなかったのだ。
*
「思ってもみない力……」
グラーノが明かしたエレットラの言葉を、エンディミオンは繰り返した。
エレットラが書き残したという事実は、思っていたより衝撃的だった。
「エレットラ様が唯一自らの思いを書き残された言葉でございます。
治癒の力を持ち、ステラフィッサ国に貢献してきたヴィジネーの一族は、エレットラ様の意志を継ぐように振る舞って参りました。
それを根底から覆す言葉を、我々が進んで公にすることは一族を裏切るようなもの。
国の有事にまで隠し立てされては殿下としては噴飯ものと拝察いたしますが、どうか、当代、先代の侯爵の判断も致し方のないことと、平にご容赦願います」
深々と頭を下げる幼い姿に、ヴィジネー家への裏切りと、王家への背信すべてを背負う覚悟が滲み出ていた。
「ヴィジネー家では、儂はすでに死んだ身。
そして小狡くも、この場を借りて殿下へ中味を伝えることで、エレットラ様の手記を今後も公にはされないよう諮っておるのです。
殿下には何卒ご勘案の程、よろしくお願い申し上げます」
手前勝手な都合を一国の王太子に聞き届けてもらうのに、八十年以上の人生経験で得たどんな手管でもなく、誠実に胸の内を明かすことしかグラーノにはできなかった。
エレットラは、ヴィジネーの星になにかを願った。
だがそれは願った形とは異なる、「ヒトを癒す」力に置き換わった。
手記からわかるのはそれだけだが、その最初の一歩が異なるだけで、ヴィジネー家が歩んだ千年は大きく意味を違えてしまう。
例えのその間に幾千幾万の傷みを癒やしていても、国を、人々を
……できれば、これからを生きるヴィジネー家の子孫たちにそんな扱いを受けてほしくはない。
けれどこの秘密を今明かさなければ、彼らが生まれ、生きていく未来すらなくなるかもしれない。
グラーノは考え、そしてその葛藤ごと詳らかにすることで、エンディミオンに直接訴えかけることにしたのだ。
「────それを世に明かしたところで、得るものは何もないのでは?」
十二貴族の始祖の一人、エレットラ・ヴィジネーの手記が出てきたとなれば歴史的な大発見ともなるが、そのせいで十二貴族の、手記の著者本人から連なる侯爵家の権威が落ちるなら、社会的に見て旨味は少ない。
この千年序列を変えずに在り続けた十二貴族は、興亡を繰り返す他貴族家とは与える影響がまったく違う。
書き残されたエレットラ・ヴィジネーの秘密はエンディミオン、そしてシルヴィオの胸に収めることを条件に、災厄の手がかりとして手記を閲覧させてもらえるほうが、今後のためには有用だ。
そう考えて、グラーノの意見を後押しするようにエンディミオンを伺ったが、当のエンディミオンは、全く別のことに意識を向けていたようだった。
「願いは、叶わないこともあるのか……」
動揺がそのまま口から漏れたように、呆然とした呟きだった。
サジッタリオの星の時、クラリーチェは確かに言っていた。
星が形を成すにも、相性がある、と。
それを踏まえて、十二貴族の始祖が得た星の力と各家の特性に寄せて、今回の星集めでの力の形を決めてきた。
ヴィジネーの星、そしてスピカは元より「治癒」の魔法だ。
そうであるならば、何も不安に思うことはない。
ここにいるグラーノ、スピカを持つ者に、元々あった力を取り戻させるだけなのだから。
……そうは思うのに、突如湧きあがった不安をエンディミオンは拭えなかった。
知っていたはずの事実を不意に突きつけられて、殴られたような心持ちだった。
「エレットラ・ヴィジネーは、何を願ったんだ」
それを知ればこの不安は取り除かれると、エンディミオンはグラーノに詰め寄った。
しかし、グラーノは首を振るのみで答えを知らない。
「エレットラ様の手記には、何も」
端的なまでの文章は、日記ではない。
ほとんどが箇条書きの診療記録だ。
その合間に、たった一言、走り書いた筆跡。
そこまでに行き着く過程を、エレットラは何ひとつ書き残さなかった。
そうしてそれからも、何の悔いも恨み言もなく、星に与えられた治癒の力をどう診療に活かすか、その実験録になっていた。
彼女の趣味も嗜好も、知れることはどこにも書かれていない。
何を望み、どうしたかったのか。
星に願うほどのこと。
たった一言でも、彼女らしくもない文言を書き残してしまうほどの、願い。
スピカとは相容れなかった、力。
「生い立ち、に繋がるものなら?」
秘匿されていたエレットラの生い立ち。
焼け果てた村の生き残りで、失った記憶はその後どうなったのか。
シルヴィオの案に、グラーノは首を傾げた。
「記憶を取り戻すくらいなら、あまり治癒から離れることでもありますまい」
「相容れないほどのことでもない、か……」
記憶を失った原因にもよるが、外傷、または心因性のものなら、広義では治癒の一環と言っても差し支えないだろう。
「はじめのサジッタリオの軍略と弓術は偶発的なものだったが、交渉術、政治、と続いたスコルピオーネとビランチャは計画的に思える。
そのあとでなぜ治療師に力を与えようとバルダッサーレ様がお考えになったのか少々疑問だったが、戦時であれば治癒の力は少なからず有効だろう。
しかしエレットラがそのつもりではなかったのなら、バルダッサーレ様は一体何をなされようとしていたんだ?」
「四つ目の星が、この場所に、彼女の故郷に降るから、というのは、バルダッサーレ様の性質上ないこともないと考えられますが……」
「少々薄い、ですかな」
それだけの理由で、どんな力ともなれそうな星の力を、仲間内とはいえただの治療師に与えようとするのは考えにくい。
それまでの三つの星の流れからして、あまりに不用意とも取れる。
「わからないな。
エリサ様から見るバルダッサーレ様なら、あるいは」
「確か、『星の民』という男を仲間に加える際も、当家の始祖サミュエル様やネヴィオ・スコルピオーネ様の反対を押し切っていましたね」
「星を占う呪い師など、行き倒れていたとてその場で助けはしても、各地の争いを治めて国を興そうという旅に同行させるのは余程の事情がなければな……。そこもバルダッサーレ様の懐の広さ故、ということか」
エリサの日記で見るバルダッサーレの
エレットラの言葉ひとつで、スピカの力で確実にルクレツィアを救うことにも一抹の不安を覚えてしまったのに、千年前の星の災厄で何が起こっていたのか、不可解さが募ってしまった。
「その、星の民なるはどういった……?」
グラーノが発した疑問で、二人は思考を止めた。
どうやらオリオンが言っていなかったことまで、話の流れで口にしてしまったらしい。
「星の民。グラーノ殿は、どこかで聞いたことはないだろうか」
王太子であるエンディミオンも、記憶の片隅にだけ残っていた存在。
それもどこで得た知識だったのか、ずいぶん前に亡くなった曽祖母から聞かされたお伽噺、それも原文のない、彼女の中にだけあるような昔語りではなかったか。
不思議に思って調べてみても、知れば知るほどタブーの扱いで、国を挙げて大々的には捜索して来れなかった。
千年前に近い史料にわずかに痕跡があるだけで、不自然なほど歴史から消されているものを敢えて公に掘り出すことに危惧もあって、星の民の捜索は困難を極めていた。
安易に聞いて回ることは躊躇われるが、自分たちよりも遥かに長い年月を生きているグラーノなら、と一縷の望みをかけてエンディミオンは問いかけてみた。
「はて……、星の民。
言われてみると確かに、頭のどこかに引っかかるものがございますな」
改めて問われると、グラーノも全く知らないと言うには何かざわついた感覚を覚えた。
「どこで聞いたのだったか……。
ふむ、……エレットラ様の手記、か」
ドナテッロとして死んでから、ドナテッロの記憶は一度は抜け落ち、何も知らない幼年期を十年以上過ごしてしまった。
七十年で培った経験は確かにあれど、細かい記憶はさすがにあやふやだ。
例えそのことがなくても、八十年のすべての出来事を覚えているわけではない。
スピカの力について調べるために、ドナテッロはエレットラの手記を繰り返し読んだ。
けれどエレットラは、スピカ本来の力を使った形跡がなかった。
怪我人の治癒はしていたが、病人を癒したという記録がないのだ。
そして、歳を重ねて亡くなっている。
後の世でスピカの星持ちと知れている人物はほとんどが早死にしているが、エレットラ本人だけは長く生きているのだ。
そしてその死後、『星の子どもを見つけたら隠してほしい』という謎めいた遺言が見つかり、その後すぐに病を癒やす子どもがヴィジネー家に生まれたため、これがスピカの星持ちの力であるとヴィジネー家は湧いた。
エレットラの遺言は守られず、はじめのスピカが若くして死に、そこでようやくエレットラの遺言の真意に気が付いた。
争いの種にもなり得るスピカの星の力、そして命を削る力を、ヴィジネー家はすぐに隠した。
それでも何十年かに一度は不治の病を癒して儚くなる若者が現れ、スピカはお伽噺になった。
エレットラの死後の話は、ヴィジネー家の正式な記録として、王家にも同じ記録が保管されている。
この記録には星の民の記述は一切ないと記憶しており、これ以外にもエレットラ・ヴィジネーやスピカの星についての記録は漁るほど読んだが、そこにも記憶を刺激されるような文言はなかったように思う。
考えられるのはエレットラ自身が残した手記になるが、確信はない。
耳慣れない単語ではあるが、千年前には今はもう存在しない大小様々な部族が存在していた。
そのうちのひとつと仮定して気にも留めなかったかもしれない。
「やはり、なんとかしてそのエレットラの手記というのを借り受けたいところだが、まずは目の前のスピカだな。
エレットラ・ヴィジネーが何を願ったにしろ、スピカの力にはどうあってもルクレツィアを救ってもらわなければならない」
エンディミオンの重々しい宣言に、シルヴィオも頷き、グラーノは深々と頭を垂れた。
宿営地に着くまで、三人はしばらくスピカの力について検討を重ねた。
グラーノとエンディミオンが調べ尽くした内容を突き合わせて、正解にできるだけ近づいていなければならない。
何かひとつでも疎かにしたら、ルクレツィアを救えないかもしれない。
そんな不安がエンディミオンを駆り立てていた。
陽が落ちる切る前に、エンディミオンたちは予定どおりの宿営地にたどり着いた。
天幕を張り、一夜を明かす準備が整い、その深更────
エンディミオンたちは魔物の襲撃に遭った。
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