六章
一
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ファウストが気がついた時、そこは天も地もない果てない闇だった。
自分がそこに立っているのか、横たわっているのか、それとも宙に浮かんでいるだけなのか、それすらもわからない。
二、三度瞬いて、はじめにファウストが思い起こしたのはルクレツィアのことだ。
いったい、ルクレツィアに何が起こったのか。
父の公爵の悲壮な表情の意味と、ビランチャの星の予言。
二つが頭の中で組み合わさった瞬間、体の中心から弾け飛んだようにバラバラになった感覚に陥った。
(────姉上が、またいなくなってしまう)
悔やんでも取り返しがつかない、途方もない哀惜を知っていた。
身も心も引き裂かれるようなその衝動に突き動かされるまま、出来もしない転移を使ったはずだった。
ここはどこなのか、ファウストはようやく自分がどうなっているのかに思い至ったが、ここがどこであろうと早くルクレツィアのもとへ帰らなければ、結局そればかりを考えてしまう。
少しの時間でも、その側から離れてはいけなかったのだ。
その想いだけで、ファウストは何度も、繰り返し、自分の中にある「星の力」の在処を探った。
どこでもない、その場所へ。
最初に、ルクレツィアのもとへ飛んだように。
その軌跡を辿って、もう一度。
何十回、何百回と、繰り返す。
一心不乱に自分の中の「星の力」に意識を向け、どれほどの時間が過ぎたのか。
時間の感覚すらないファウストの耳に、不意にどこからか声が響いたような気がした。
ファウストは、ゆっくりと瞼を押し上げ、視界を巡らせてみる。
天も地もないただ暗い空間に放り投げられたようなつもりでいたが…………意識を凝らしてみると、無数の光の点が明滅していることに気が付いた。
それに気が付いた途端、光の点はうるさいほどに煌めきを増した。
ファウストがいたのは、あまりに広大な空間に、圧倒的な数の星が浮かぶその中だった。
普段見ていた夜空では見えないものまでそこにあるのだと訴えかけてきて、星明かりだけで夜闇を凌駕している。
その星明かりは次々と生まれては消えて、その度に生じる力の渦が痛いほどに押し寄せてきた。
呆然と、その力の渦の中で漂うファウストに、キラキラとまとわりつくように星屑が降ってきた。
自分を押し潰そうかという強さの星々とは違う。
砕けた鏡の破片のようにも見えるそれは、何かを伝えるようにファウストの周りを漂っては足元の暗闇に吸い込まれていく。
ただ降りしきるそれを見ていると、ファウストは、必ずルクレツィアのもとへ帰らなければならないという気持ちが強くなっていくのを感じた。
必ず、ルクレツィアのところへ。
必ず、救い出してみせる────────
漠々たる無限の星空の中、ただ自分だけを目がけて降るその煌めきをファウストは無心で捉え続け…………やがて、その瞬間はやってきた。
************
「ファウスト君!!今どこにいるのだね!!!!」
ほとんど眠れずに次の星の目的地へ出発する日を迎えたジョバンニは、馬車の中でうつらうつらとしていた。
これまで寝る間も惜しんで探してきたファウストのその姿が暗闇の向こうに見えた気がして必死で呼びかけたが、どうやら夢を見ていたらしい。
自分の声で目が覚めてしまった。
「すまない、ジョバンニ……夢の中でまでファウストのことを探してくれているんだね」
ジョバンニの目の前には、アンジェロとベアトリーチェが並んで座っている。
ジョバンニと似たり寄ったりの寝不足で、それ以上に憔悴した顔のアンジェロから片時も離れられない、という献身的な理由で、ベアトリーチェも今回の旅に同行していた。
ジョバンニに対して申し訳なさそうに、今にも消え入りそうなアンジェロの手をそっと握り、労わるように寄り添っている。
目的地はヴィジネー領にある、ステラフィッサ王国最古と謂われる「ピエタ聖堂」である。
王都から北西に、それほど距離はないが、領境にある山々の隙間に隠されるように建っていた。
ただ、国内最古という由緒とともに、美しいステンドグラスが観光の呼び物になって、行く道は整備されている。
幾重にもうねる峠道だが、観光用の馬車は訓練された馬が引くため平地の街道を行くのとそれほど変わりはない。
季節が違えば紅葉を楽しむことができたが、夏真っ盛りの今の時期は、瑞々しい緑が道の両脇から生い茂っていた。
夏の強い陽射しが、緑の影を濃くしている。
寝ぼけたままアンジェロからベアトリーチェ、そして馬車の外に視線を移したジョバンニは、がっくりと項垂れた。
「ようやくファウスト君を見つけたと思ったのに……」
眩しいほどの光の中に、ファウストの姿は瞬く間にかき消えてしまった。
「ファウスト様がいらっしゃらなくなって、もうすぐひと月が経ちますのね……」
ベアトリーチェの嘆くような呟きに、アンジェロもファウストも暗く沈み込んでしまった。
ビランチャの星の日からこれまで、散々手を尽くしたがファウストの行方はわからなかった。
王都からヴィジネー領に抜けるまでは二日、そして領境の峠を越えるだけなら一日とかからない。
今日には「ピエタ聖堂」に着き、明後日にはヴィジネーの星の降る日がやってくる。
このひと月、アンジェロとジョバンニ、そしてフェリックスを中心に八方手を尽くしたが、ファウストは影も形も見当たらず、スコルピオーネ家だけでなく商家として独自の情報網を持つペイシ家の協力も得たが、国内はおろか、国外にもファウストの痕跡は見つからなかった。
ジョバンニの考える最悪のパターン、ファウストはこの世のどこでもないところへ紛れ込んでしまった説が濃厚過ぎて、フェリックスの探知の魔法でどうにかならないかと足掻いてはいたが、フェリックスが魔法の習熟度を増すだけでファウストに繋がる成果はひとつもあげられなかった。
そんなフェリックスは、王家の用意した馬車で、クラリーチェの膝を枕に気を失うように眠っている。
このひと月ファウストを探すために毎日倒れるまで探索の魔法の可能性を模索し続け、気力も体力も根こそぎ尽きていた。
それでも王都に残る選択肢をとることができず、また、きっと病床のルクレツィアは誰よりも義弟に会いたいだろうと思えばファウストを見つけるために魔法を使うことも止められず、このままではフェリックスまで壊れてしまうと強制的に休まされての旅程となった。
そんなフェリックスに膝を貸すことになったクラリーチェは、本来、エンディミオンの妹であるハルモニア王女の近衛騎士だが、その任を一時解かれていた。
今の役目は星の巫女の護衛となっている。
ルクレツィアの病が知らされてから、あまりにも悲愴な顔をして星探索を続けているフェリックスたちを心配し、クラリーチェまで気もそぞろになっていたのを見かねた王女自らの采配だった。
サジッタリオの星の日、「お姫様抱っこ」をされてしまった恥ずかしさからクラリーチェはしばらく抜け出せずにいた。
マリレーナに指摘されるほどフェリックスと直接会うのを避けていたのだが(遠目には見つめて逃げ帰っていた)、ひさしぶりに顔を合わせたフェリックスがあまりに疲れ果てていたため、クラリーチェも自らの膝を枕として差し出すのに躊躇いはなかった。
けれど馬車で二人きりにさせられそうになった時には、
「わたくしはセーラ様の護衛ですので、セーラ様も同じ馬車に乗っていただかなくては!」
「えぇ?!でもおじゃまになるから……」
「ジャマだなどととんでもありませんわ!
わたくしは!セーラ様からは離れられません!」
空気を読んで遠慮しようとしたセーラに、「おねがいですから!」「ぜひ!」とクラリーチェはかなり必死に馬車に相席してくれるように頼み込んだ。
いくら疲れきって眠っているとはいえ二人きり、まして膝の上にその頭をのせている状況というのは……。
フェリックスのためにできることならなんでもしてあげたいのは本当だが、一瞬その状況が頭に浮かんだだけですぐにでも逃げ出したい気持ちが湧いてきてしまって、混乱したクラリーチェはセーラの腕を渾身の力でつかんで離すことができなかった。
馬車の中で、半分眠りながらクラリーチェとセーラのやり取りを聞いていたフェリックスは、ひさしぶりに会う婚約者候補の必死さに、(そんなにイヤがらなくても……)となんとなく傷ついていた。
*
どうにかフェリックス、クラリーチェ、セーラが一緒の馬車に乗ることに落ち着いたその隣では、エンディミオンとシルヴィオが睨み合っていた。
エンディミオンは、グラーノをどうやって「ピエタ聖堂」まで連れて行くかを考えて、自らの小姓に扮装させ、ヴィジネー領への一行に紛れさせようとしていた。
エンディミオン達に先行し、星を獲ることになっているヴィジネー侯爵家も「ピエタ聖堂」へ向かっていたが、そこにグラーノが同乗していては、スピカの星の力をルクレツィアのために使ったあと、ヴィジネー家は関わりがないとする言い訳が立たなくなってしまう。
王都では、グラーノが説得した従者のフォーリアとオリオンとでグラーノが居ないことがバレないように偽装をしており、あくまでもエンディミオンの独断で事を行ったという形跡を残しておかなければならなかった。
……けれどそんなエンディミオンの計画は、シルヴィオにはお見通しだった。
「殿下の考えそうなことを、どうして私が考えないとお思いになるんです」
あれだけスピカを探すことに執心していたエンディミオンが、ある時を境にそれをピタリと止めた。
そうしてオリオンと「誰か」とで「何か」を企てている。
その「誰か」を伴って一度はヴィジネー家を訪れていて、「何か」を打ち合わせるように度々密会をしている様子があった。
それで、どうしてバレないと思うのか。
詳細はわからないが、その「誰か」がスピカ、もしくはスピカを知る者で、そしてすぐにはルクレツィアを癒せない理由がある。
それがわかった時、エンディミオンはどうするか────。
ビランチャの星の力を使うまでもなく、早々にシルヴィオはわかりきった結果を導き出せていた。
元来、建国王の血を引くステラフィッサの王族は、謀事には向いていない。
現在も語り継がれている建国王バルダッサーレ一世の伝説は、その多くが朗らかで豪気な気性をよく表しており、そんな彼を称えて太陽王と呼称することもあった。
前の巫女でありその王妃となったエリサの日記からもバルダッサーレの屈託のない気質が読み取れ、その子孫にあたるステラフィッサの代々の国王は、裏表なく真っ直ぐな人物であることが多かった。
そんな政治には不向きとも言えるステラフィッサ王家を、建国の頃からビランチャ家とスコルピオーネ家を中心に十二貴族が影に日向に支え続けてきた経緯があり、代々の先祖を裏切ることなく素直に育ったエンディミオンのために、シルヴィオやフェリックスが側近としているようなものだった。
……それなのに、どうして自分に何も言ってくれないのか、シルヴィオは忸怩たる思いでエンディミオンを見据えた。
ルクレツィアを助けたい気持ちは、シルヴィオだって同じだ。
シルヴィオだけではなく、ルクレツィアに関わるすべての人間がそう思っている。
エンディミオンがスピカを探すなら、もしもの時のために次のヴィジネーの星を使うこともあるだろうと、シルヴィオは率先して星探索に力を入れていた。
それはエンディミオンのためでもあり、ルクレツィアのため。
星の災厄から救われた世界にルクレツィアが居なくては、なんの意味もない。
それは何の裏打ちもない予感だけれど、次の新月を逃したらルクレツィアは助からず、そうなれば星の災厄も止められない。
心の何かがそう掻き立ててきて、シルヴィオは追い立てられるようにこのひと月を過ごした。
スピカ探しに腐心していたエンディミオンと、ファウストを探すのに必死だったアンジェロ、フェリックス、ジョバンニに代わり、シルヴィオが星探索の指揮を取っていた。
セーラを頼りに、ラガロを動かして、トーロ家の令嬢ヴィオラをはじめスカーレットもマリレーナも手伝いに名乗りをあげてくれ、欠けた人員は埋められた。
それでようやく次の新月の目的地である「ピエタ聖堂」に行き着いたが、本来の中心となるべきエンディミオンは、誰にも何も言わずに、その先で為すことを自分一人で背負い込もうとしている。
これに苛立たないわけがあろうか。
エンディミオンが、星の力を無断で流用すれば当然起こるいざこざに、自分たちを巻き込まないようにしていることはシルヴィオだって分かっている。
けれど、そんな心遣いこそがシルヴィオたちに対する侮辱ではないのか。
王都を発つ日まで、シルヴィオはずっとエンディミオンからの言葉を待っていた。
星探索を手伝ってくれていたヴィオラたちは王都に留まり、無事に星を得られることをただ祈ってくれている。
聡い彼女たちだから、エンディミオンが望んでいることもきっとわかっていただろう。
ルクレツィアを助けたい。
その気持ちは、誰もが持っている願いだ。
それを、まるで自分一人のものだというように振る舞われては、シルヴィオもエンディミオンの前に立ちはだかざるをえなかった。
「これからお一人でなさるおつもりのことは、我々の願いでもあります。
決して貴方一人でできることではない」
シルヴィオの言葉に、困ったように顔を歪めてしまったエンディミオンはやはり正直だ。
頑なに口を開こうとはしないが、シルヴィオの翡翠の眼に責めるように見つめられ、敢然と見返すことは出来ないようだった。
「ほら、申し上げたとおりでしょう、殿下」
その影に隠されるように佇んでいたグラーノが、観念したように顔を出し、エンディミオンを見上げた。
「貴方のご友人たちは、貴方一人に荷を背負わせるようなことは決してしないと」
ヴィジネー侯爵家は、家としての立場を重んじてきっとその荷は背負わない。
けれどエンディミオンを取り巻く
ずるい大人の考え方だが、八十年以上を生きる年の功で、若者たちの考えそうなことはすぐにわかる。
それでもエンディミオンの意思を尊重していたが、やはりこうなってしまうかと、シルヴィオに歩み寄った。
「頭でっかちの小僧だと思っていたが、
懐かしげに目を細め、自身にその面影を重ねて父の宰相の名を気安く呼ぶ少年は、「聖国」の使節団の代表を務めているはずだ。
訝しむような翡翠の眼に、分かっていると伝えるようにグラーノは頷き返した。
「事情を知らなくては、何も話は進みませんな。
道すがら、私の正体を含めてご説明いたしましょう」
姿は小さな子供に誘われながら、エンディミオンとシルヴィオは馬車に乗り込んだ。
黙したまま、金の眼で二人の成り行きを見守っていたラガロが愛馬に飛び乗り、エンディミオンたちの乗る馬車を先導する。
ルクレツィアの命の灯火がどうなるか、今日まで持ち堪えてくれたことも奇跡だが、この旅の果てに決するのは間違いがない。
何もできない無力感は、常にラガロの中にある。
目に浮かぶ金の星は、この旅の吉凶を占わない。
本当に、次の星でルクレツィアは救えるのか。
そうしなければならない、必ずそうしてみせるという気概だけでは、どうにもならないことがあるのも確かだ。
このひと月、やれることはやったはず。
星の力でなくては、ルクレツィアは救えない。
ルクレツィアの病。
ファウストの不在。
ヴィジネーの星、ピエタ聖堂……スピカ。
すべてが揃っているようで、何もかもが足りないような不安が付きまとう。
……全員がその焦燥を持ち、ガラガラと走り出す車輪の音を聞いていた。
運命の歯車が幸いへと進路を変えるよう、どうか────
ヴィジネーの星への願いは、ただひたむきに注がれ続けていた。
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