********


 同じような夢を、繰り返し見ていた。

 それは誰が見た夢なのか。

 すべて主人公が違うのに、結末はいつも同じ。


(まるで、──────みたい)


 そうして魘されて目が覚めると、どんな夢を見ていたのか、何も覚えてはいないのだ。


********



「お嬢様……?」


 目を開くと、ぼんやりとですが泣き腫らしたドンナの顔が見えました。

 頭は泥に浸されているみたいで、手足の感覚はあるもののまるで木の棒になったかのよう、何かを言おうと口を開いても喉の奥から引き攣るほどに枯れていて、自分の思うようになることはひとつもありません。

 重たくて重たくて、瞼を開けていることさえ辛くてもう一度目を閉じようとすると、


「お嬢様!」


 引き止めるように、ドンナの切実な声がもう一度聞こえました。

 どうにか意識を留める努力をしていると、ドクリ、ドクリとみぞおちのあたりが強く脈打っているのを感じます。


(あたたかい……けれど、)


 温もりが与えられる端から冷えて、徐々にダメになっていくような虚脱感、そうしてその根底に、忘れることなどできないほどの痛み───


「……ッ、……!!」


 記憶の痛みか、現実の痛みか、どちらかわからない感覚に身体が勝手に跳ね、声にならない叫びをあげると、それがまた新たな痛みを呼び起こします。

 この身に何が起こっているのか何もわかりません。

 助けを求めるようにさまよった手がシーツを掻き、その手が誰かの優しい手に掴まれて、ようやくわたくしは痛み以外の感覚を思い出すことができました。


「ティアちゃんっ、大丈夫よ、大丈夫……!

 お母さまよ、ティアちゃん……!」


(おかあ、さま……)


 みぞおちのあたりを温めているのはお母さまの手の温もりで、痛みを抑えるように先ほどより熱いくらいの力が加わります。

 胃痛を起こした時にいつも柔らげていてくれた治癒の力だとすぐにわかり、繋いだ手からも、混濁しそうな意識を繋ぎ止めるような清冽な意志を感じました。


(……たおれたの、かしら)


 その力に引き上げられるように、目覚めるまでにあったことが思い出されました。


(グラーノさまと、オリオン殿下と、学園で……)


 お茶会の最後、突然の激痛に倒れる直前、強い手が体を支えてくれた気がします。


(あれは、イザイア?)


 後ろから咄嗟に抱き止めてくれたのは、きっとわたくしの影の護衛。

 地面に着く前に、慌てて飛び出してきたのがなんとなくわかります。


 ゆっくりと呼吸を思い出し、ようやく落ち着いてくると、身体中、冷や汗でびっしょりと濡れていました。

 寒いような、熱いような、自律神経がめちゃくちゃな状態で自室の寝台ベッドに横たわっているのを自覚すると、憔悴した顔のお母さまとドンナに焦点が合いました。


「お…、……さま」


 掠れた声を喉から絞り出すと、握る手に力が込められました。


「ティアちゃん?」


 覗き込んでくるサファイア・ブルーの瞳は潤み、目の周りは痛々しいほどに紅くなってしまっております。


(お母さまの、こんなお顔、はじめて……)


 いつもふわふわニコニコと、幸せそうに笑っていらっしゃるのに、どうしてこんな顔をなさっているの?

 お母さまにこんな顔をさせてしまっては、お父さまが黙っていらっしゃらないでしょうに。


「旦那様を呼んでまいります」


 そう言ってドンナが急いで部屋を出ていくのが目の端に映りました。

 頭はやっぱり重たくて、今は少しの動作も億劫で、ひとつも体を動かしたくはありません。


「ティアちゃん、喉が渇いているでしょう?

 お水は飲めるかしら?」


 油断するとすぐに意識が落ちそうで、一生懸命お母さまが声をかけてくださいます。

 小さく頷いたつもりですが、ただ顎が震えただけになりました。

 声を出そうにも喉はガサガサとした違和感でいっぱいで、それに耐えるだけの気力はもう湧き上がりません。


「ルクレツィア!」


 呼びにいったドンナを連れて、すぐにお父さまがやって来ました。


(お父さままで、いつもとお顔が違いますわ……)


 動けないわたくしの視界いっぱいに、お父さまの翳りのあるお顔が飛び込んできます。

 優しい手が、それでもわたくしをどこにも行かせまいとする熱さでそっと頬に触れてきました。


「ティア、目が覚めたかい?

 お父さまがわかるかい?」


 美しい銀河を閉じ込めたような瞳が、今は曇ってしまって暗く沈んでおります。


 お父さま、と答えたいのに、声を出す動作ですら先ほどの痛みに繋がりそうで、喉からお腹にかけての体の中心が、わたくしの不調のすべてのような気がいたしました。


 首も起こせないわたくしに、ドンナが水差しで少しずつ水分を含ませてくれて、ようやく、少し口を開けるようになりました。


「お、と……さま、」


 今は何日で、あれからどれくらい眠っていて、わたくしはどうしてしまったのか。

 聞きたいことはたくさんあるはずなのに、お父さまを呼ぶだけが精いっぱい、思考の端から崩れていきます。


(もう、目を開いていられない……)


 せっかく持ち上がった意識は、底なし沼に引きずり込まれるように、抵抗も空しくまた暗闇に落ちていきます。

 お父さまとお母さま、そうしてドンナが必死で声をかけてくれている気がしますが、もうその言葉の意味を拾えないのです。


(わたくし、本当に、どうしてしまったのかしら……)


 沈みゆく意識の端で気にかかったのは、星を探しに旅立ったファウストたちのこと。


「星は、ちゃんと……手に入れられて……?」


 意識が落ちきる最後、ファウストに語りかけた譫言だけが、音になって溢れていきました────




 沈黙が落ちる。

 ルクレツィアが学園で倒れてから、もう五日意識が戻らなかった。

 ようやく目を覚ましたかと思ったが、自分の身のことよりも星の行方を気にするような言葉だけを残して、また眠りに落ちてしまった。


「大丈夫だよ、ティア。

 三つ目の星は、無事に手に入った」


 安心させるように語りかけてしばらく、ラファエロは目を閉じたルクレツィアの頭を包むように抱きしめて離すことができなかった。


 先ほどまで、ラファエロは映写機カメラを繋いで息子二人と連絡をとっていた。

 ちょうどリブリの塔で連絡が取れなくなった頃に、ルクレツィアが倒れたのだ。

 新月の今日まで、ファウストの持っているはずの鏡にルクレツィアの鏡から連絡がとれないかと何度も試みて、ようやく返答があった。

 ちょうど、ビランチャの息子が星を手にした瞬間だった。

 

 未来視の力────


 予定通り、ビランチャの息子は星の力を手に入れた。

 しかしその力が最初に示した未来は、ルクレツィアの余命。

 鏡越しではどうしても息子たちに伝えられなかったことが、星の力で明かされてしまった。

 ビランチャの星の力で視えた未来に、「まさか」と崩れ落ちたシルヴィオ・ビランチャが、ファウストの鏡が公爵家に繋がっていることを知ると、ラファエロに問い質したのだ。

 未来視の力が間違っていると、否定して欲しくて。


 ラファエロは、その問いを誤魔化すことが出来なかった。

 言葉に詰まってしまった。

 自分の顔から血の気が引いている自覚もあった。

 息子二人が、それからその場にいるルクレツィアをよく知る者たちが息を殺して自分の「否定」の言葉を待っているのがわかったが、もう一度、早く帰ってくることを促す言葉だけで、ラファエロはそれ以上何も言えなかった。

 ドンナが呼びに来たのを言い訳に通信を切ったが、その後どうなったのか、無責任に中途半端な情報を与えるだけになってしまったことを悔やんだ。


 だが、急がなければ。

 ルクレツィアの時間が残り少ないことは間違いなかった。

 星の示した未来がなくても、ルクレツィアの状態が悪いことは明らかだ。

 兆候はあった。

 幼い頃から食は細かったが、ここ数ヶ月で痩せてしまっていたのは目に見えて明らかだった。

 それは星の神託で気持ちが落ちていたせいばかりではなく、いつも胃のあたりを気にするようにしていたし、ついには高熱を出した。


 ルクレツィア本人にもエレオノーラにも、家族の誰にも知らせずに医者に調べさせていたところだった。

 何か悪い病気なのではないかと、結果が知らされる矢先にルクレツィアは倒れた。

 血を吐いたことで、医者の診断は最悪の結果になった。


 ────魔癌だ。


 まだ過去に十数人としか症例のない、不治の病。

 体の中心、心臓の真下に魔法の元となる器官が存在している。

 原因はわからないが、その器官が突如変容し、体の中から宿主を喰い荒らす病魔となる。

 みぞおちの奥に位置するため、大きくなるたび胃を圧迫し、浸潤し、やがては食い破る────

 その時はじめて病気に気がついても、もう手の施しようのないことになっている。

 原因はいまだ解明されず、魔力の多寡に関わらず、発症して回復した者はいない。

 特効薬はない。

 病気が判明して、早ければひと月と保たない。



 …………どうして、ルクレツィアが。



 自分が代わってやりたいのにどうにもすることができず、ラファエロは、絶望の深淵に手をかけていた。



********



 ──ザザーッ、ザザーッ……


 寄せては返す、波の音が響いている。

 痛くも苦しくもなく、ただゆらゆらと水の上に浮かんでいるような気分。


 ──ザザーッ、ザザーッ…………


 閉じた瞼の裏には光が溢れている。

 暗く閉ざされた場所ではない。


 ──ザザーッ、ザザーッ………………


(ここはどこ?

 夢を見ているの?)


 波音から思い浮かぶのはガラッシア領の別荘地、サダリ湖の静かな湖畔に広がる白い砂浜のはずで、それ以外を知らないはずなのに。

 ここは、暗い色の堤防が延々と続いて、大きな消波ブロックに砕かれた波しぶきが白く泡立って散り、どこまでも遠く、丸みを帯びた水平線が青く輝いている。



 これは、故郷の海────



 ルクレツィアが見たこともないはずの海の景色、波の音が、これは忘れていたはずの前世の記憶の一部だと繰り返し囁いてくる。


 灰色の会社員の記憶しか取り戻せていなかったルクレツィアの、その前世の、「わたし」の記憶。



 ────母親の姿がぼんやりと浮かんでくる。



 海辺の古びた家で、いつもとても疲れた顔をしていたような気がするが、こちらを拒絶する背中のほうをよく覚えている。

 父親は、ほとんど家に寄りつかない。

 兄妹はなく、「わたし」の遊び相手の友だちは、「わたし」以外の誰にも見えない。


 幼い頃から見えざるものを見ている「わたし」に、母親はなんとか普通の子供になるようあれこれ心を砕いていたけれど、それも、あるヒトの言葉によって手を放されてしまった。

 そのヒトは、高名な占い師だという。

 見えないものばかりを見ている「わたし」をなんとか治そうと、母親の最後の頼みの綱だった。

 けれどその占い師は、「わたし」を視てこう言ったのだ。


「この子はコチラの子じゃないね」


 どういうことかと詰め寄った母親に、異なる世界の魂が間違って紛れ込んでしまったのだと、だからこの子はコチラのものではないものを見るし、死ぬまでにこちらに馴染めたらいいほうだね、と告げたのだ。

 占い師のその言葉に、母親の心は折れた。

 間違った子が、自分の子供に取って代わって生まれてきてしまったのだと、そう理解した。


「お前は私の子供じゃない、本当の子供を返せ!」


 そう呪詛のように言い聞かされて育った「わたし」は、結局いつまでも「コチラ」に馴染めずに、見えないものを見る「わたし」には友だちもできず、腫れ物のように扱われ続け、高校を卒業すると同時に家を、故郷の町を出て行った。


 ────ここではないどこか。


 本当の自分がいるはずの世界がどこかにあるのだと、ぼんやりと、それだけを追い求めて。



********



(走馬灯…………)


 はじめに前世の記憶を思い出した時と同じように、何回かに分けて夢の中でもう一度その人生を追体験いたしました。

 でも五歳の時と違って、死ぬ前に見るこれまでの人生のように、強く印象に残っている出来事をダイジェストで振り返る内容でした。

 倒れてから何度目か目が覚めた時、これは走馬灯なのではないかと思い至りました。

 もう起き上がるだけの気力はなくて、お母さまの癒しの手やお医者様のお薬でどうにか抑えてはおりましたが、発作のような痛みは絶えずわたくしを襲ってきます。

 その度にわたくしを励ますお父さまやお母さま、ドンナたちの表情を見ていれば、わたくしはもう助からないのだと悟ったのです。


(ここではないどこか……)


 前世の世界では明らかな異物として人生を過ごし、馴染めないままこちらに戻ってきた、ということなのでしょう。


(あちらでの名前も結局思い出せないのは、仮の名前だったからでしょうか……。どうして死んだのか、そのあたりも思い出せません……)


 自分のはあるべきはずの場所を求めるように、異世界ものの小説やゲームばかりを貪るように繰り返していたのですから、その記憶ばかりが生まれ変わって思い出されたのかもしれません。


 走馬灯は、前世の世界での「わたし」の在り方を思い出させてくれましたが、思い出せば思い出すほど、胸の奥の異物感が顕著になって、同時に痛みとなってわたくしの正気を奪おうとします。


(乙女ゲームとか、本当は関係なかったのかもしれませんわね……。

 わたくしは断罪されて処刑される悪役令嬢でもなんでもなくて、ただ死にゆく運命だっただけ……ただ、それだけ……)


 胸の奥にあるという魔法を使うための器官は、前世の世界にはないものでした。

 魔法とは、その器官を通して魂の力で行使するもの。

 それが、前世の異世界で過ごした魂が混じってしまったことで、こちらの体と拒絶し合っているような、そんな感覚がわたくしを苛んでおりました。


 今は前世の夢を繰り返し見ておりますけれど、ルクレツィアの人生を見始めるようになったら、本当に死期が近いのかもしれません。

 まだ、前世の記憶だけですけれど、走馬灯が、ルクレツィアの人生を映し出したら……。


 たまに目覚めても、痛みと、死の気配に怯える心にわたくしは鬱いでいく一方で、もう目を覚ましたくないとすら思うようになりました。

 痛みも何もない、光の中で、波に揺られながら何も考えずにいられたなら、どれほど幸せなことでしょう。

 お父さまやお母さまの辛そうな顔を見なくてもすみますもの……。


「…………ごめん、なさい────」


 必死にわたくしを繋ぎ止めようとしているお父さまとお母さまにそれだけを絞り出して伝えました。

 たくさん愛してもらったのに、幸せであれと願われたのに、先に逝かなければならないのは、わたくしも辛い……。

 けれど耐えるだけの力がもう残っていなくて……。


「ティア!

 わかるかい?お兄さまだよ?」


 目覚めてもまたすぐに夢の中に戻りそうなわたくしの手を握ってくださっているのが、お母さまでもお父さまでもなく、お兄さまになっていたことに驚いて再び瞼を押し上げました。


「おに、……ま?

 おか……り、な……い」


 わたくしが倒れる前に旅立っていたお兄さまが、青い瞳を哀しげに歪ませてわたくしの顔を覗き込んでいました。


(よかった……お兄さまにも、会えましたわ……)


 もしかしたら、間に合わないかも、と。

 そんなふうに思ってもいました。

 倒れてからどれくらいの時間が経っているかもわかりませんが、わたくしの時間がいつまで続くのか、その終わりのほうにばかり気持ちが向かってしまいます。


(おにいさまが帰ったのなら、ファウスト、も……)


 どうにか意識を保っていたかったのに、わたくしの体からはまた力が抜けていきます。

 お母さまの治癒の力とは違い、お医者様のお薬は痛みを抑える代わりに強制的に眠らされてしまうのです。


(ふぁうすとは?)


 そう尋ねるより先に、わたくしの意識は沈んでいき、またキラキラと光の跳ねる海の景色と、波の音に引きずり込まれていきます。


「ティア?ティア……っ」


 お兄さまに握っていただいて手が、力の抜けるまま、すっと滑り落ちていくのを、意識の片隅に感じながら────




*****




 アンジェロは、力の抜けたルクレツィアの手を再度握りしめ、それから母──エレオノーラとその場所を代わった。


 つい先ほど、ビランチャ領から帰ってきたばかりで、ほんの少しだけルクレツィアの意識が戻ったのは幸運だった。

 ほとんど意識のない状態で寝込んだままだという妹は、ビランチャ領に旅立つ前より一回りも小さく、やせ細って、まるで生気が感じられない……。

 その姿を目の当たりにして、鋭い慟哭が込み上げてくるのをアンジェロはどうにか堪えるしかなかった。

 それでもルクレツィアは、なんとか口元を微笑ませて、自分に「おかえり」と言ってくれた。

 それだけで、堪えていたものが決壊しそうになったが、そんな情けない姿を見せるまでもなく、ルクレツィアは静かに瞼を下ろしてしまった。


 込み上げくるものを辛うじて飲み込むと、アンジェロはルクレツィアの寝台の傍に持ち込んだ椅子に腰掛けて黙ったままの父──ラファエロに向き直った。


「ファウストは、まだ見つからないのですか?」


 リチェルカーレから帰る道すがら、何度も問いかけたことをもう一度確認するために。


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