ファウストが馬車の中で読破した本は、足のサイズの分厚さだったが、とにかく雑多な記述が多かった。

 リブリの塔、リチェルカーレ大学の変遷にまつわることが主軸だが、ほとんどが著者の頭の中をそのまま書き出したようで、読んでいるうちにどんどん話が逸れていき、信憑性に欠ける与太話をなんの根拠もなく堂々と主張していたかと思ったら、その次には三番通りの酒場の裏メニューの頼み方について書かれていて、兎にも角にも読みにくい本だった。

 それこそなんの指針もないままめちゃくちゃに増築されていった塔と街そのもののようで、ジョバンニのどこに話題が飛ぶかわからない会話に付き合っている時の疲労感さえ感じながら、それでもどうにか読み進め、本を閉じた後。

 ファウストの印象に残っていたのは、胡散臭い怪奇話をまとめた章題だった。


『塔の天辺には、賢者の石が眠っている』


 賢者の石とは、リチェルカーレ大学の象徴とも言える、いちばんの都市伝説だとファウストは思っている。

 曰く、世界の知識のすべてを得られる奇跡の石。

 リチェルカーレ大学にはその賢者の石を研究している学者も大勢いるらしいが、そんなことをしてどうするのだろうとファウストは本気で不思議だ。

 そんなものはこの世に存在しないと断言できるし、知識のすべてを得たいのならば、石の在りかを探す前に学べばいいのにと思っている。

 今のところ、ファウストが知りたいと思ったことは調べればわかったし、それでもわからないことは考えて検証を重ねればだいたいの答えが出せた。

 天才に生まれついたファウストには、生涯理解できないことだった。


 そんなファウストがこの一文に目を止めたのは、数々の怪奇話があまりに他愛ないものなのに対して、賢者の石を信奉しているかのような大学の人間がその章のタイトルに使っていることが不釣り合いに感じたからだ。


 リブリの塔には外から見えない禁断の階があり、そこにはどこからか気持ちの悪い風が吹いてくるだとか、本を粗末に扱うと、しっかり収納されているはずの本棚のいちばん上の段から勝手に揃って頭の上に落ちてくるとか、置き忘れた本が一人でに開いて、見えない誰かが読んでいるようだ、とか。


 怪奇話と怖がる要素がどこにもなく、ビランチャの星の魔力が起こしていると考えれば単純すぎるほどに関連が窺えた。


 ただし、だからと言って場所が特定できたわけではない。


 リチェルカーレは、街全体がまるで迷路のようになっている。

 よそ者どころか物見遊山の観光客すら受け付けない、初見殺しの街。

 街自体が生きているのかと思うほど、住人でさえはっきりとその道筋を把握できず、普段使う道から一歩でも外れれば、見知らぬ袋小路にたどり着いて涙目になるということも日常茶飯事だった。

 ファウストたちが目指すリブリの塔にまっすぐ向かうには熟練した街の案内人が必要だったし、一日かけてたどり着いた塔の内部も、さらに複雑な立体迷路だった。


 塔の頂上への道が、ない。

 

 単純に階段を上っているはずがよくわらかないうちに下っているし、同じ道をぐるぐると回っているだけだと気づいても、元の道には戻れない。

 塔内で遭難する者は後を絶たない、とシルヴィオが真面目な顔で冗談を言っているのだと思ったが、それも冗談ではなかったとすぐにわかった。


 塔を登るにつれ、映写機カメラも通信機もノイズがひどくなりそのうちまったく使えなくなってしまった。

 王都どころか自分達の間でさえ連絡手段がなくなってしまったものだから、何組かに分かれて頂上を目指すこともできず、とにかく、地道に、ファウストたちは一丸となって塔の攻略を続けることにした。


 これではどこに何の本があるのか、把握している人間もいないのではないかと思ったが、「真に必要としている者には、知識の道は開かれる」というのがこの塔の常識のようで、ある時、突然、目の前にその本が現れるのだそうだ。

 遭難したり、紆余曲折はあっても必ず手に入るのなら、時間をかけてでもこの塔に挑むのがリチェルカーレの探求者たち────


 まるでロマンのように語られるが、ファウストたちの時間は限られている。

 ラガロの勘の良さで致命的に迷うことは避けられているが、リブリの塔に着いてから三日、まだ半分の高さしか上れていない。

 それも気を抜けば下ってしまうのだから、新月まではあと四日、焦ったところで行き止まりの袋小路に出てしまえば、引き返すしかない。


「ファウスト君!

 『空間魔法における転移の定義~次元理論の概念~』の失われた中編がこんなところに!」


「ファウスト君!

 これなんか我々の参考になるのでは?!

 『時空を馳ける馬』なんて実に興味深い!」


「ファウスト君!!」


 ただでさえ思うように進まないのに、ジョバンニが偶に見つけた本を読み耽っては立ち止まるものだから、ジョバンニを目隠しして進もうか本気で全員が考えた。

 同行の護衛騎士に見つけた本を預け、あとで改めて読む時間をとるようにと全員に叱られ、とりあえずジョバンニの件は落ち着いた。

 どんどんと預かる本がうず高く積まれていく護衛は不憫だが、背に腹はかえられない。


 ジョバンニが転移魔法の研究に役立ちそうな本を手当たり次第探すのも、無理はないことだとファウストには一定の理解がある。

 ファウストが転移魔法を使えたのは最初の一度きり、ルクレツィアの部屋に移動した時だけだ。

 あれから何度再現しようとしても、複雑な魔法式を維持することができない。

 あれはサジッタリオの星からのギフトのようなもので、あの時のように転移魔法を使えるようになるには、まだ自分には理解が足りないからだろうとファウストは寝食を忘れて研究に励んでいるが、そんなファウスに付き合って、ジョバンニも協力を惜しむことがない。

 転移魔法が使えていたら、こんなふうに苦労して塔を登らなくてもよかったかもしれない、とは星の巫女もエンディミオンたちも誰一人思うような人間ではないが、その力を唯一使えるようになるはずのファウストは、自身が不甲斐なくて仕方がなかった。



 携帯食と水を全員で分けあいながらまた三日経ち、とうとうファウストたちは窓のひとつもない階層にたどり着いた。

 どこからか、生ぬるい風が吹いている。

 風の吹いてくる方向に向かってみたが、一日、また同じところをぐるぐると歩かされていたようだ。

 もう残された時間はない。


「今何時だい?」

「ボクの時計によると、日没まであと一時間ですねえ」

「リチェルカーレに入って今日が八日目。新月は今日だな……」

「……クソ!」


 疲労と苛立ちが募り、焦燥感が最高潮に達したとき、フェリックスの力が覚醒した。


「……アレ?目ぇまわる……」


 ぐるぐると回る脳裏に、塔の構造が浮かんでくる。

 上る階段、下る坂道、廊下を蛇行して、さんざん同じ道を歩かされていたが、本棚の裏に、隠し通路が見えた!


「探索って、こういうこと?」


 次に焦点が合ったとき、フェリックスには行くべき道が見えていた。


「フェリックスさんすごーい!!」


 星の巫女に手放しで称えられれば、フェリックスも悪い気はしない。


「あの本棚!なんか仕掛けがあるはずなんだけど……」

「これですかね?」


 フェリックスが示した今にも壊れそうな古びた本棚が、ジョバンニが積み上がった椅子の脚を引いたことによってズズズ…と左右に開いていった。


「ジョバンニ!よくやった!」

「初歩的なカラクリで見え透いてましたからね」


 エンディミオンやアンジェロに褒め称えられても、ジョバンニはつまらない問題を解かされたように鼻白んだ様子だ。


「なんと古典的な装置だろうか!

 こんなもので隠し扉とは片腹痛い!」


 こんなに複雑な塔の細工ならもっと凝ったものを期待していたのに!

 と呻いているジョバンニは放って、エンディミオンたちは本棚の後ろに現れた階段を覗き込んだ。

 真っ暗だが、外気の気配がする。

 塔内の生温い風を吹き流す、清涼な空気。

 

「行こう」


 エンディミオンの合図で頷き合うと、ラガロが先行して、ゆっくりと階段を上る。

 火気厳禁の本の塔なので、燭台の類いはない。

 本を傷ませないよう、光魔法の魔石を使った高価な魔道具が塔のあちこちに設置されているが、この階段にはそんなものは見当たらない。

 ファウストは予備で持っていた光魔法の魔石を咄嗟に取り出すと、まだ不服そうなジョバンニを階段に押し込んで最後尾から全員を照らした。

 人一人が通れるだけの狭さで、ゆるやかな螺旋階段のようだ。

 慎重に進むだけの時間はない。

 窓がないからわかりにくいが、もう日暮れは目前だ。

 

「空だ!」


 緊張のまま、黙々と階段を上り続けていると、急に視界が開けてエンディミオンが声を挙げた。

 マジックアワーの黄金の煌めきと、深い夜の色が入り混じった空がくっきりと浮かんで見え、全員が息をついた瞬間、


「────伏せろ!!」


 先頭のラガロが、声を張り上げて一段下のエンディミオンの頭を押さえつけた。

 そのすぐ上を、赤い炎が勢いよく過ぎっていった。


「キャア!!」


 熱風がラガロの髪を掠め、黒いマントを焦がす。


「魔物か!」


 セーラを引き寄せたシルヴィオを押し退けて、ジョバンニが前に出た。


「大切な本を燃やそうとはどういう了見だ!」


 ラガロまで押し退けて階段の上に躍り出たジョバンニが見たのは、火の衣をまとった鼠のようだった。

 鼠にしては人のサイズと変わらない大きさで、三体、逆立つ毛から、またしても炎の手が伸びて来そうだった。


「火属性だとは、わかってたよ」


 その炎を簡単に消したのは、アンジェロの魔法だ。

 ゆったりとエンディミオン、ラガロの前に出て、余裕の笑みを浮かべる。


「今回は三対四かー」


 フェリックスもそれに続き、ファウストも壁際に避けたセーラたちの横をすり抜ける。


 水属性を持つのはアンジェロ、ファウスト、フェリックス、そしてジョバンニだ。

 スコルピオーネとカンクロの水属性に加え、アクア神の加護を持つ海凪の巫女に連なるガラッシア家のアンジェロですでに過剰戦力、そして魔法の才に恵まれすぎたファウストは闇魔法と水魔法が使える。


 ……火鼠は最初の一撃しかさせてもらえず、あとは手も足も出せずに三体とも呆気なく鎮火させられてしまった。


「わー、瞬殺だったね」


 庇われたままだったセーラが顔を出したときには、塔の天辺、屋上の床は水浸しになっていた。


「火気はもちろん厳禁だが、必要以上の湿気も困るぞ」


 シルヴィオが眉間に皺を寄せて屋上に上がる。

 

「すまない、ストレスが溜まっていたみたいだ」


 屈託なく笑ったアンジェロに、申し訳ない気配は微塵も感じられなかった。


「見て!すごい景色!ほんとに迷路みたい!」


 リブリの塔の頂上から見渡すリチェルカーレの街並みは、塔を中心に複雑な街路が入り組んでいた。

 見たこともない壮観な眺めにセーラが声を上げるが、


「上から見ても、自力では出られそうもないな……」


 帰りの道のことを考えて、エンディミオンはうんざりとした苦笑いになった。


「……通信が戻りました」


 外に出たことで、途絶えていた映写機カメラもいつの間にか王都と繋がっていた。

 すれ違った隙にファウストはラガロに預けていたが、鏡の向こうから、国王、宰相をはじめ多くの貴族たちの騒めきが聞こえた。


「どうにか間に合ったね」


 わかりやすく胸を撫で下ろしたフェリックスの後ろを、星がひとつ流れていった。


「はじまった」


 ラガロがその光の尾を追い、全員が空を見上げると、待っていたかのように雨のように星が流れ出した。

 いつ見ても美しい光景に、ファウストはもうひとつ内ポケットに隠し持っていた小さな鏡の柄を握りしめた。

 この鏡が繋がっている先は、たった一人。

 もうふた月、サジッタリオの星の日から使われることのない映写機カメラを、ファウストはずっと手放せずに持っていた。


 いつ、ルクレツィアが語りかけてくれてもいいように。


 馬車の中で星の巫女に言われたことは、ファウストに強く響いていた。

 ルクレツィアに直接聞くまでは、思い込みだけで落ち込むのはやめようと思った。

 もし本当に、ルクレツィアがエンディミオンを選んだと言うのなら、もちろん永遠にこの想いは伝えない。

 でも、そうでないのなら。

 伝えることだけは、してもいいだろうか────



 水浸しになった塔の屋上に、流れ星が映っている。

 いつものように、飛び込んできた光が水面に図を描き、その中の緑に光る星をセーラが示して、それに頷いたシルヴィオが手を伸ばした。


 ピタリと流星が止み、シルヴィオの手元を除いて、辺りが暗闇に落ちる。

 緑から青白く膨らんだ光にシルヴィオが包まれている間に、ファウストは、触れている鏡に魔力が流れているのを感じた。


(あねうえ?)


 咄嗟に鏡を取り出したファウストが、映写機カメラの起動をもどかしく感じていると、そこに映ったのは期待していた人物ではなかった。


「父上?」


 声を出すのも憚られる時間だったが、思わず呼びかけてしまったのは、いつも見ている公爵とはあまりに様子がかけ離れていたからだ。


「ファウスト?どうかしたかい?」


 ファウストの声に気づいて、アンジェロも鏡を覗き込んだ。


「……ようやく繋がったね」


 アンジェロとファウストの顔を見て、青白い顔をしたラファエロが深く息を吐いた。

 ひどく重く、苦しそうな溜息だった。


「どうかされましたか?」


 本来なら父、ラファエロは王城でこちらの様子を見ているはずなのに、崩れてくたびれた襟元が、そこが王城ではないことを教えていた。


「星はうまく回収できたのだろう。

 どれくらいで戻って来られる」

「この塔を降りるのにどれだけ時間を要するかはわかりませんが、フェリックスの探索の魔法が少し精度が上がったようですので、行きよりは短縮はできるかと……」

「できるだけ、早く戻りなさい」


 ラファエロの顔色を見ているだけで、何か良くないことが起こったことはすぐにわかった。


「父上、なにが……」


 アンジェロが問い質そうとしている側で、ファウストも嫌な予感が胸を侵して、急き立てられるように口を挟んでいた。


「父上、姉上は、」


 どこに。

 本当ならそれを持っているはずの人は。


 言い終わらない間に、シルヴィオを包む光が消えて、辺りが真っ暗になった。


 ────ビシャン、と。

 シルヴィオが水溜りに膝をついた音が響いた。


 シルヴィオが、ビランチャの星に願った力は未来視だ。

 あらかじめ決めていたように、ビランチャの星はそれに否とは言わなかった。

 そうして、ある程度の情報を元に未来が視える力を得たはずだったのに、それは、ビランチャの星のギフトだったのか。

 何が見たいのかと問われたシルヴィオが、不意に考えてしまったのは、このひと月、体調を崩して寝込み、学園でも顔を合わせられなくなってしまった人のことだった。

 ただ純粋に、彼女がこれからも幸せに満ちた人生を歩んでいてくれたら、その姿が見られたら、それだけでもこの先何があろうと進んでいける活力になる。

 そんな私欲で、星の力を使うべきではないと頭ではわかっていたが、心は正直に彼女を、ルクレツィアを求めてしまった。



 ────その、答えが。



 星が教えた未来。



 ────その命の灯火が間もなく消えるだろう、と。

 


 それは、彼女のいない、未来だった。





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