五章
一
週明け、ようやく学園に登校できたわたくしは、一緒に馬車に乗ってきていたお兄さまにそのまま王族用のサロンに連れていかれ、殿下をはじめひさしぶりに皆さまに囲まれてお会いすることになりました。
「ティアちゃーん!ひさしぶり!会いたかった!」
セーラ様とはスコルピオーネ領へ出立されて以来になりますから、半月以上お顔を合わせておりませんでしたわね。
出会い頭、大胆にもわたくしをひしっと抱きしめ、元気になって嬉しいと喜びを表してくださいました。
「まあ、わたくしもセーラ様にひさびさにお会いできてうれしく存じます」
控えめに抱きしめ返していると、その後ろで殿下たちがそわそわとしているのが目に入りました。
完全にセーラ様に機先を制されてしまったようで、わたくしへ差し伸べられるはずだったであろう手が、行き場をなくして彷徨っております。
セーラ様越しに目が合うと、それでも殿下は素直に目元を綻ばせ、ひさしぶりに見た夕焼けのようなその瞳は、いつもより甘さを多く含んでわたくしを見つめておりました。
「本当に、君の体調が良くなってよかった。
ルクレツィアに会えないままビランチャ領へ発つことになっていたら、次の星の探索は気もそぞろになってしまうところだった」
セーラ様に抱きつかれたままのわたくしのすぐ側により、存在を確かめるように顔を覗き込まれます。
その目だけは、殿下自身がわたくしを抱きしめているかのような熱っぽさで、なんとお言葉を返せばいいのか、わたくしは目を伏せてその視線から逃れることしかできませんでした。
いつもならさりげなく受け流せますのに、病み上がりだからでしょうか。
それともわたくしの心境が変わっているせい?
誰かに恋い焦がれる想いを簡単に無碍にしてしまいたくないような、今までのような知らないフリが、もううまくできそうにありません。
「エンディミオン様、ティアちゃんが困っちゃうから……って、うわ、ティアちゃん、ほそっ、ほんとにもう大丈夫?ちゃんと食べれてる?」
殿下への反応に戸惑っていると、セーラ様が気が付いて庇うように腰を抱き寄せてくれましたが、その触り心地がどうにも衝撃だったようで、掴むように両脇から腰のラインを確かめられてしまいました。
「っ、……セーラ様、くすぐったいですわっ」
「だって、この細さやばっ」
貴族令嬢同士だったなら決して起こり得ないことですが、相手は距離感がバグっていることに定評のある異世界の女子高生セーラ様です。
強くも拒めず、腰回りを撫でさするくすぐったさに体を震わせていると、
「巫女……!」
シルヴィオ様が鋭く呼び咎めてくれましたが、首をとんでもない角度に曲げて顔はぜんぜんこちらを向いておりません。
「せーらちゃん、ほら、いろいろと、目の毒だから……」
軟派キャラが何を言っているのでしょうか。
フェリックス様までちょっと目が泳いでおります。
「…………」
ラガロ様は無言で金の眼を眇めてこちらを見ているだけで怖いですし、
「……巫女、少し、はれんちだと思う」
エンディミオン殿下も、顔を赤らめて下を向いてしまいました。
(はれんち)
爽やかさが売りの王太子殿下の口から聞くと、なんだかとりわけいけない言葉のようですわね。
「セーラ様、女性同士でも過剰に触れ合うのははしたくなくてよ」
冷静にセーラ様を止めてくれたのはスカーレット様です。
すっかり仲良くなったお二人は、おそろいのセーラー服風ドレスを身に纏っております。
セーラ様のために作ったドレスは、どうやら学園のご令嬢たちの興味を引いていたようで、セーラ様とおそろいになるようにスカーレット様が着出したことで、爆発的に流行っていったようです。ここへ連れてこられる間に、多くの女生徒が似たようなドレスを着用しているのが目に入りました。
わたくしが学園に来られない間、いろいろなことが起こっていたようですけれど、それにしてもおそろいのドレスを着るくらいにヒロインと悪役令嬢が仲を深めていることに驚きです。
一人、普通の令嬢ドレスを着ているわたくしだけ、なんだか疎外感。
「ルクレツィア様、お体が快癒なさって、本当にようございましたわね」
わたくしの快復を喜んでいるはずですのに、セーラ様とおそろいのドレスについて何か言うことはありませんの?と催促しているようなドヤ感がスカーレット様のそのお顔には現れております。
まさかヒロインとの親密度について悪役令嬢にマウントをとられるとは!
「さあ、授業もはじまりますから、そろそろ妹を開放していただけますか。
お約束通り、朝から顔を見られたのですから十分でしょう。
巫女様、スカーレット嬢、すみませんが妹を教室までよろしくお願いいたします」
「アンジェロ、それなら私も、」
殿下が言い差したところで、何やら不穏なほどお兄さまの笑顔が輝きました。
「殿下と、それからフェリックスたちも、妹をどんな目で見ているか少しお話をする必要がありますから、残ってくださいね」
最後の言葉に有無を言わせぬ圧が込められ、殿下たちの顔が引きつったのがわかりました。
どうやらわたくしを「はれんち」な目で見ていたことにお兄さまはご立腹のよう。
「ティア、お昼には迎えに行くからね。ランチはリチェとマリレーナ嬢も誘っているよ」
わたくしにはこれでもかと慈しみの微笑みを見せて、ここにはいらっしゃらず、学年の違うベアトリーチェお姉さまとマリレーナ様ともお顔を合わせる時間までセッティングしてくださっておりました。
ここへ来て、お兄さまのお父さま度が爆上がりしておりません?
一瞬、本当にお父さまがそこにいらっしゃるのかと思いました。
たぶん、そのランチに殿下たちは参加できないような気がいたします。
(ジョバンニ様と、……ファウストもおりませんでしたわね)
縋るような目でこちらを見ていた殿下たちを置いてサロンを辞するとき、結局現れなかった二人のことに思い馳せました。
室内に入るまで、もしかしたらいるかもしれないと少しばかり緊張をしておりましたのに……。
(魔法の研究が忙しいのね……)
最近では、ジョバンニ様、というかカンクロ家の特例がファウストにも適用されているそうで、学園の授業はほとんど免除、自分たちの研究にその時間は割り当てられています。
二人は昼夜問わず研究に没頭していて、日にちの感覚もマヒしがちになり、気づくと二、三日時が過ぎているというのはよくあることと双子のピオが話しておりました。
きっと今日も、今が何日かも気にしていないまま、わたくしが学園に久々に登校する日だとしてもわざわざその手を止めるほどのことでもないのでしょう。
ファウストとはあの夜から会っておりませんから、ほっとしたような、がっかりしたような、自分でもどうにも形容しがたい感情に陥ってしまいます。
遅れてでもいいから、わたくしのために顔を見せに来てくれないものかしらとワガママな願望だけはどんと胸の真ん中に居座っていて、横暴な姉としては百点満点な気もいたしますけれど、どうしてそんなことを強く望んでしまうのかを考えるには、まだ躊躇しているというのが正直なところ。
サジッタリオ家のご令嬢との婚約話も悩みの種に加わって、さらに難しい問題になってしまいました。
わたくしが勝手に思い悩んで難しがっているだけのことですけれど、どうすればこの気持ちが晴れるのか、いっそ誰かに打ち明けて相談に乗ってもらおうか、わたくしと並んでゆっくり歩いてくださっているセーラ様とスカーレット様のお顔を窺ってみましたけれど、お二人に聞いてもらうにはまだまだわたくしの勇気が足りないようで、喉の奥からも、この話を切り出す言葉は出て来ようとしませんでした。
お昼になると、言葉通りお兄さまがお迎えにいらして、ベアトリーチェ様たちとお茶会を開いた温室のテラスへわたくしとセーラ様、スカーレット様をエスコートしてくださいました。
その際、とても同行したそうな殿下をお兄さまは視線だけで制したようにも見えました。
(お兄さまのほうが臣下のはずですのに)
ご主人様に叱られた犬のような殿下のお顔が少しだけ可笑しくて、去り際に微笑みながら会釈して行ったら、殿下は表情を一変させて、多幸感に溢れ、眩しいものを見る目でわたくしたちを見送ってくださいました。
相変わらず笑顔ひとつでちょろ……いえ、素直な反応をなさる殿下に、安売りしてはいけませんでしたわね。
病み上がりのせいかいろいろとガードが緩くなってしまっているようですわ。気を引き締めませんと。
*
さて、お兄さまとベアトリーチェ様を中心としたランチ会は和やかに終わろうとしておりました。
女性五人に対し男性はお兄さま一人という比率は、お兄さまだからこそ違和感なく成立させてしまえる構図です。
まるでハーレムの主人のようでありながら、傍らのお姉さまを「最愛」として会話の中心にして立て、決していやらしくしないのは最早特殊能力。
(お兄さまというか、ガラッシア家の男性に許された能力?さすがですわ!)
お父さまとお母さまの在り様がそのままお兄さまとベアトリーチェ様に継承されていて、ヒロインのセーラ様がいらっしゃっても何の不安も感じません。
ランチの間に少しお伺いしたら、セーラ様の気になっていた先輩というのがサッカー部の爽やかスポーツタイプということでしたから、お兄さまへの興味は「わたくしの兄である」という一点に尽きるよう。
そもそも婚約者がいる時点でありえないという、ひどく常識的な感覚をセーラ様はお持ちで、完全に「貴公子タイプ公爵令息ルート」のフラグは消失。
お兄さまをクソヤローにしないといういうミッションはすでに完遂されたと言ってもよろしいですわよね?
ようやくひとつ懸念事項が片付いたことに胸を撫でおろしてランチを終えようとしていると、静かな足取りで温室を抜けてきた人影が、物言わぬままテラスの入り口に佇んでいるのに全員が気が付きました。
「ファウスト、ようやく来たのかい」
お兄さまがまず声をかけ、どうやらファウストもこのランチに招かれていたことがわかりました。
ランチの間には何も仰ってはおりませんでしたが、時間になってもなかなか現れないファウストにわたくしが気を揉んでしまうとお考えだったのでしょう。
確かにファウストが来るとわかっていたら、わたくしこんなにランチを楽しめたかどうかわかりません。
気もそぞろでまた食の進まないことになってしまっていたでしょうから、お兄さまの判断は正しいですわね。
もちろん、そう判断した理由に決定的な違いはありますけれど。
「……遅くなりました」
急なファウストの登場に不整脈を起こしかけておりましたが、ひどく疲れているようなその様子にわたくしは首を傾げます。
「珍しいね、ファウストが遅刻するなんて」
研究に没頭して時間の感覚がマヒしていようと、あらかじめ決まっている約束であれば遅れたり忘れたりすることのないのがファウストです。
「申し訳ありません。……その、……急に来客があったものですから」
歯切れ悪く、まるで取ってつけた言い訳を言い足して、ファウストは居心地が悪そうにしております。
なぜか、わたくしを見ようにも躊躇うように視線をずらし、結局お兄さまばかり見ております。
(この間は意地でも見ようとしていましたのに)
悪戯気だったあの夜を思い出して急に頬が赤らむような気がしましたけれど、気合で抑えました。
ここには大勢いるのですもの、迂闊な態度はとれません!
けれどもあれから三日も空けないうちに、あまりの態度の変わりよう、わたくし何かしてしまったかしらと妙に不安が沸き起こります。
「来客?それも珍しいね」
「えぇ、まぁ……」
お兄さまの問いに、わたくしから視線を逸らしたままファウストは曖昧に頷きました。
ファウストを急に訪う人物なんて、とても限られております。
ジョバンニ様はランチには一緒にいらっしゃいませんでしたけれど、ジョバンニ様はファウストと一緒に研究を進めているはずですし、ピオとロッコ、商会や公爵家の身内に来客とは使いません。
であれば政事に関わる何某かもしれませんけれど、そうではなさそう、というのはただの直感です。
「……どなたでしたの?」
どうしてか、訊かずにはおれませんでした。
わたくしからの問いかけに、ファウストの表情が一瞬揺らいだのは気のせいではございません。
ファウストの表情検定一級ですもの、例えそれが一ミリにも満たない誤差の範囲だとしてもわたくしにはわかります。
「その、……」
困った様子で答えかねているファウストの様子に、お兄さまも首を傾げます。
「言い難い相手だったのかい?」
お兄さまは好奇心で聞いているようですが、お姉さまたちがいるせいで答えにくいなら場所を改めるし、わたくしたちにも隠し立てしなければいけないような相手ならこれ以上は訊かない、という意思がその表情からは読み取れます。
「そういうわけでは」
予想に反して、ファウストはお兄さまの質問には淡々と首を振り、言い難いというより、「なぜ?」という困惑のほうが大きい様子で訪問者が誰だったのかを教えてくれました。
「サジッタリオ家のご令嬢がいらっしゃいました」
(…………っ)
一瞬、立ち眩みがしたような気がしましたけれど、それもなんとか気合で乗り越えました。
(クラリーチェ様では、ありませんわね……)
面識のあるクラリーチェ様の訪問でしたら、理由がわかればファウストもこれほど困惑はしないでしょう。
今年八歳になられるという、クラリーチェ様の姪にあたるご令嬢は何という名前でしたかしら、あまり耳に入れたい話題ではなさ過ぎて、記憶に残っておりません。
わたくしからはまだ何もファウストには伝えておりませんし、お兄さまも同じと思っておりましたけれど。
お兄さまの様子を窺うと、お兄さまも少し驚いているようでした。
「クラリーチェ様が?」
スカーレット様が不思議そうに尋ね、ファウストはこれにも首を振りました。
(やっぱり……。
なぜ?どうして?お見合いの話はまだ先だったのでは?)
わたくしは出かかった言葉を飲み込み、お兄さまが何か仰ってくださるのを待っておりましたら、
「あぁ、ビビアナ様ですわね。
今度ご婚約なさるのでしょう?」
とんでもない一言を放ったのはマリレーナ様でした。
「ええ!?そうなの!!?」
セーラ様が驚きの声をあげ、一瞬わたくしを見たようでした。
わたくしは表情が強張らないよう細心の注意を払っておりましたけれど、どこまで成功していましたかしら?
「……婚約?」
唐突なマリレーナ様の言葉に、何の話かわからないとファウストの視線はお兄さま、それからわたくしへと向かい、今日はじめて視線が合ったかもしれません。
「あら?……まだご存知ではなかったのかしら?」
ファウストとわたくしたち兄妹の様子に、マリレーナ様は言ってはいけないことだったのかしらと口を押さえますが、口から出た言葉はもう取り消せません。
そうしてわたくしもお兄さまもまさかマリレーナ様が知っていると思ってもおりませんでしたから、驚きに対応を間違えてしまいました。
交易を主軸に商いを手広く営んでいるペイシ家の情報網が、今回の件では上手だったということでしょう。
すでに決定事項のように話が広まっていることに少なくない衝撃を受けているうちに、ファウストはマリレーナ様の言葉が事実であることを悟ったようです。
「……どうりで、不思議なことを仰っているとは思いました」
いつもの無表情からさらに表情を失くし、ファウストは嘆息するように呟きました。
「突然いらっしゃって、私が恋を語るに相応しいか見定めるというようなことを仰り、好きな食べ物や何が趣味か、どんな魔法が使えてどんな家庭を築きたいか、たくさん質問をされました。
私はご令嬢を楽しませるような会話が不得手ですから、ほとんどジョバンニが質問に答え、兄上との約束がありましたからあとを任せてこちらへ来ましたが、そういうことだったのですね」
怒っているのか、納得しているのか、それもわからないほど淡々とビビアナ様の様子を報告してくれました。
そのお話から察するに、ご自身のお見合いの話を聞きつけ、自ら相手の品定めにいらっしゃったのでしょうか。
さすがサジッタリオ家というのか、八歳といえど行動力は並みのご令嬢ではないようです。
「まだ本決まりというわけではないんだよ。
そういう話が出ているというだけで、ファウストにどう話そうかとティアと相談している段階だったんだ」
ファウストの様子にお兄さまも困ったように説明をしましたけれど、ファウストの表情はさらに硬くなりました。
「……姉上もこの話を一緒に進めておられたのですか」
小さな囁きは、まるでそのことにいちばん傷ついているかのように聞こえたのはわたくしだけ?
表情も、声も、わたくしだけが察せる範囲でしか動かないファウストに、急な話で驚いているだけと皆さまは受け取ったようです。
「さすがはサジッタリオ家ですわね。
八歳で単身お見合い相手に会いに行かれるなんて、ファウスト様もさぞ驚かれましたでしょう?」
呆れるようにスカーレット様が仰り、ベアトリーチェお姉さまが後を引き継ぎました。
「まだ公爵家でもお決まりではないということでしたら、
アンジェロ様、
さすがの引き際で、ベアトリーチェ様がセーラ様たちを伴ってテラスから出ていかれました。
兄妹でよく話すように、という心遣いなのでしょうけれど、人数が減った分、わたくしの居た堪れなさは倍増しております。
何をどう説明しようと、ファウストはいつものように淡々と受け入れてしまいそうで、わたくしがこの話を避けたい気持ちは置き去りに、婚約の話は流れるように進んでしまいそうです。
(わたくしに止める権利は……、ないの、ですもの……。
ファウストは、今どう思っているの……?
こんな形で婚約の話が出てしまって怒っているのかしら、何も感じていないのかしら、なぜだか何もわかりませんわ……)
いつもならすぐにわかるはずなのに、心を閉じてしまったように、ファウストの心情がひとつも読み取れません。
わたくしが知りたくなくて無意識に読み取れないつもりになっているのか、それもわかりません。
「もう少し落ち着いてからファウストに考えてもらうつもりでいたんだよ。
今週末にはすぐにビランチャ領だし、お見合いする時間も作れそうにないだろう?
まさかご令嬢本人が突撃してくるとは私もティアも、父上だって想定外だ」
知ってしまったからには説明するけど、と前置きして、お兄さまが今回の婚約話が出た経緯をファウストに聞かせました。
結局はサジッタリオ領で星を得たことに起因すると言われてしまえば、ファウストに考える余地はないように思います。
「無理にそうしろとは、父上も私も思ってはいないよ。
ファウストの気持ちを優先したいからね。
ただ、事情が特殊だから、ファウストに話すにしても慎重を期していたわけなんだけど、マリレーナ嬢に先を越されるとは……」
素直に自分たちの失態であるとお兄さまはファウストに頭を下げましたが、ファウストは表情を変えないままそれを止めました。
「もとは私の迂闊さが原因ですから、兄上が謝られることではありません。
かえって煩わせてしまい、申し訳ありません」
読み取れない表情のまま、お兄さまより深く頭を下げます。
「うーん、そう言うと思ったからティアに先に本音を訊いてもらおうと思ってたんだけどなぁ」
段取りがすべて台無しになって、お兄さまは参ったというように天を仰いでしまいました。
話を振られたわたくしは……、わたくしは……。
「…………」
かける言葉は、決まっております。
姉として、ファウストに真剣に考えてもらうことを促すだけ。
それがなかなか口を出たがらなくて、わたくしはほかの言葉を探しました。
頭を下げたままのファウストに弱りきって考える素振りをしながら、どうしたらこの言葉を言わないで済むのか往生際悪く考えて、……けれど思考は空転するだけ、なんの答えも出ませんでした。
「ファウスト……」
意を決し、それでも震えて弱った声で呼びかけると、頭を上げないままファウストの肩がピクリと揺れました。
わたくしに何を言われるのか恐れているような、そんな気がしたのは一瞬のこと。
「姉上」
急に体を起こしたファウストは、わたくしが何かを言うのを遮るように強くわたくしに呼びかけました。
「姉上がエンディミオン殿下を選ばれたから、僕にも婚約を勧めるのですか」
(え……?)
思いもかけない問いかけに、わたくしは何を言われたのか咄嗟には理解が追いつきませんでした。
*
ファウストが何を言ったのかすぐには理解できなくて、わたくしが言葉が出ないでいると、
「ティアっ、そうだったのか!」
お兄さまが、喜色をたたえてわたくしに向き直りました。
「最近かなり思い悩んでいるようで心配していたけれど、そう言うことだったんだね。
確かに、スカーレット嬢をとても大事に思っているティアのことだから、あれこれ考え込んでしまったんだろう。
けれど最近のスカーレット嬢はとても落ち着いているように見えるし、ティアからきちんと話をしてあげれば、エンディミオン様のことも受け入れてくれるのではないかな?」
(お、にいさまは、なにを言っていらっしゃるの……)
まるで我が事のように嬉しそうに話すお兄さまが、いったい誰の何のことを仰っているのか、わたくしは頭が働かないまま黙って聞いておりましたら、さらにお兄さまは言葉を続けます。
「何も心配はいらないよ。
ティアはティアの思ったとおりにしたらいいんだ。
エンディミオン殿下と婚約したい、結婚したいと言うなら、父上も、私も、もちろんファウストだって応援する」
そうだろう?とお兄さまがファウストに同意を求めました。
それに応えるように、ファウストが硬い表情のまま小さく頷いたように見えた瞬間、わたくしの心臓はキュウっと引き絞られたように悲鳴をあげました。
────貴方の恋を応援する、ということは、貴方のことをこれっぽっちも異性として意識していないですよ、ということと同じこと。
はじめてエンディミオン殿下の恋心をかわす時に使ったその手が、まさか今自分の身に返ってくるとは思いもよりませんでした。
(ファウストは、わたくしと殿下の仲を応援してくれるというの……)
胸の中心のすべてを焼き尽くすような痛み。
それがどんな感情によるものか、わたくしははっきりとわかりました。
これまでの躊躇も何もかもねじ伏せて、わたくしがファウストに抱いている気持ちをこれでもかと見せつけるように心臓を貫いた痛みは、ファウストとお兄さまが何を言っていたのか、いやでもわたくしに理解させました。
(……どうして、そんなふうに思われてしまったのかしら……、わたくしが、殿下を選んだ?)
そうして、それはきっとお兄さまには喜ばしいことで、
(そうですわね、お兄さまはずっと影ながら殿下を応援していらっしゃるようでしたもの……)
お兄さまのおっしゃることはどれも本当のことではないのに、ファウストの小さな頷きひとつで、わたくしの反論する気力は根こそぎなくなってしまいました。
「ファウストはまだ姉離れが充分ではないようかな?
ティアはなにも自分の心が決まったからと言って、それをファウストの婚約に結びつけるようなことはしないのはわかるだろう?
ファウストの正直な気持ちを無視したくないというのは、家族皆んなの総意だ。
サジッタリオ家のご令嬢にはすでに会ってしまった後だけれど、改めて席を設けた時に気が乗らなければこの話を断っても構わない。
ひとまずこういう話があることだけ覚えておいてくれれば、今は星探索に集中して、考えるのはその後だ。
いいかい?」
押し黙ったままのファウストに言って聞かせるように、お兄さまはこの話を終えました。
今結論を出すようなことではないと諭して、ファウストが唯唯諾諾と侯爵家との婚約を受け入れることだけはしないでほしいと釘を刺していましたけれど、お兄さまが懸念していたとおり、一方的に話を聞かせるだけで、ファウストが自身の言葉を述べることはありませんでした。
その表情からファウストが何を考えているのかわからないまま、そうしてわたくしの気持ちもヒビが入ったまま戻ることなく、欠けたガラス細工のように惨めな姿で、誰にさらせるはずもなく胸の奥に押し込めることしかできませんでした。
***
温室のテラスでのランチの後、お兄さまもファウストもビランチャ領への星探索の準備が多忙を極め、ほとんど顔を合わせる時間はなくなりました。
朝早く夜遅いお兄さまも、王城に近いファウストの過ごす別邸で寝起きをするようになり、セーラ様や殿下たちも授業に出る余裕まではないようで、少しの時間を見つけて教室にいらっしゃりお顔だけは見せてくださいますが、あいさつを交わすくらいで忙しなく戻って行かれます。
お疲れのご様子の皆さまに労いの言葉をかけ、スカーレット様とそれを見送ることだけがわたくしの役目。
発熱で長くお休みしたせいで体調を気遣われ、お手伝いすることも許されません。
殿下のことを誤解したままのお兄さまに訂正する機会さえありませんけれど、その点は、不躾に口を出すようなお兄さまではございません。
わたくしの判断に委ね、見守ってくださっているのでしょう。
(今は星の災厄阻止が最優先……)
星の探索が恙なく進まなければ、破滅フラグを回避できても何の意味もありませんもの、
乙女ゲームのシナリオにはほとんど関らず、将来的に断罪される気配は今は少しもありません。
それを素直に喜んでいられれば良かったのでしょうけれど、あれから虚脱したままのわたくしは、元気がないと言われても病み上がりを言い訳にして、塞ぎ込んでいると心配をかけないように努めております。
それを、星の探索に加われない歯痒さに感じているのか、お父さまが今の進捗をこまめにお話しくださいます。
ビランチャ領、リブリの塔で星に願う力は、「未来視」の能力だそう。
シルヴィオ様に授けられるはずのその力は、「占い」のような直感的なものではなく、現在の情報を踏まえての「予測」の力だそうです。
これまでの経験や統計を整理しさえすれば正確にその
ビランチャ家のもともとのお力を考えれば、確かに相性の良さそうな能力です。
あわよくば、星の災厄についても何か視ることができれば、というのもこの力を選んだ理由のひとつだそうです。
情報が少なすぎるため、そう上手くはいかないかもしれない……というのが、お父さまを含めた皆さまの見解のため、あわよくば、とのこと。
転移の魔法も、探索の魔法も、まだ星の探索には何の成果も出せておりませんから、皆さまがそう考えるのも自然なことでしょう。
それでも、たとえわずかな可能性でも、わたくしたちは星の災厄から国を守るために力を尽くさなければなりません。
ファウストとジョバンニ様、そしてフェリックス様の寝ずの検証で、探索の魔法については少しずつ使い方がわかりはじめてきたようです。
フェリックス様が認知しているものに関しては、ある程度の把握ができるようになったそうです。
フェリックス様の持ち物をジョバンニ様が学園内に隠し、それを見つけられるかという実験をして、学園内でもフェリックス様がよく使う場所ならほとんど位置を特定できるそう。
逆に、フェリックス様が知らないもの、知らない場所ではその能力がまだ発揮できず、つまり、星の民も三番目の日記も、まだ探し出せる目処がない、ということです。
未来視の力に少しだけ期待してしまうのも、わからなくもありませんわね。
*
お話を聞くだけで、わたくしが力になれることはひとつもないまま、セーラ様たちはビランチャ領に旅立って行きました。
早朝だったため、またしても体調を気遣われたわたくしはお見送りすらできず、浅い眠りで休めもしない寝台を出て、部屋の窓から明けていく空を眺めているだけでございました。
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