咄嗟に口を押さえて、いつもの反射で返事をするのを思い留まりました。


(ど、して……ファウストがいるのでしょう……いつ、それよりも、こんな時間に、ドンナもおりませんし、……どうしたら……)


 ただの弟と思っていた頃なら、迷わず招き入れたことでしょう。

 けれど今は合わせる顔がなく、どうすればいいのか、取り乱した頭には何も思い浮かびません。

 このまま黙っていればファウストは引き返していくでしょうか。


「姉上……もうお休みになられていますか」


 囁くような声は、それでも夜の静寂しじまに不思議と響いて聞こえます。

 いつものこちらを労わってくれている真っ新な声ではなく、その響きには切なる思いが込められているような気がして、わたくしは余計に身動きもできず、声も出せず、ただ扉を見つめるだけで時が過ぎてしまいます。


 手紙を読もうと思ったのは思いつきで、部屋の灯りはすでに落としており、わずかな間接照明だけを残してドンナは下がっていきました。

 扉の隙間から漏れる明かりで、もう眠ってしまっていると諦めてしまったかと思うくらいの時間が過ぎた後、ゆっくりと、ドアノブを回す気配がしました。


(え?)


 まさかわたくしの返事のないまま扉を開けるなどとは思っておりませんでしたから、驚いたわたくしが取った行動は自分でもあまりに稚拙なものでした。

 手紙を広げた机に、顔を伏せて寝たフリをしたのです。

 聞き耳だけは立てて、扉の気配を探ります。

 少し開いた隙間から、躊躇いがちにこちらを窺うような息遣いのあと、おそらく、机に伏しているわたくしを見つけたのでしょう。

 驚いたように扉が大きく開かれ、ファウストが部屋に入ってきたのがわかりました。


(どうしましょう……?今起きたフリを?いえでも起きてファウストとどんな顔をしてお話しすれば良いのかもまだわかっておりませんのに……)


 尻込みしているうちに、ファウストがわたくしのすぐ側に歩み寄ってきました。


「姉上?眠っておられるのですか?」


 心配そうな声は、わたくしがまた体調を悪くして伏しているのだろうかと狼狽えているようでもありました。

 精いっぱい健康な寝息に聞こえるように努めるしか、わたくしには選択肢がありません。


(いえ起きればいいのです、起きれば。

 こんな時間にどうかしたのかと訊いて、それから)


 必死で考えを巡らそうとしても頭は真っ白。

 何も思い浮かびませんでした。


「……これは、殿下からの」


 そのうち、わたくしが健やかに眠っているのだと納得できたらしいファウストが、わたくしが手にしたままでいた手紙をそっと抜き取りました。

 寝込んでいる君のことが心配で心配で夜も眠れない、早く元気な君に会いたい、と切々と書き上げているお手紙ですけれど、読まれてしまいますかしら。

 わたくし眠っておりますし、わざとではございませんし、だいたいお手紙の内容と殿下の態度は一致しておりますのでそこまで恥ずかしく感じることもございませんでしょうか。

 けれどかなり行き届いた配慮のできるファウストですから、さすがに人様の手紙を盗み読むようなことは……と思っておりましたが、手紙を読んでいるかのような間があり、それから他のお手紙も確認している音が聞こえました。

 すべてエンディミオン殿下からの恋文ラブレターです。


(さすがに、ぜんぶは、決まりが悪いですわね……)


 姉宛てのラブレターなど読んで、何か楽しいことでもございますかしら。

 しかも送り主も良く知る相手となると、返って見てはいけないものになりません?


 とにかく規則正しい寝息を続けることだけは怠らず、ファウストがどうするのかと様子を見ていると、少しだけ大きな、紙を丸める時のような音がしました。


(?)


 まさかファウストが手紙を握りつぶしたとは思いませんから、たまたま力が入ってしまったのでしょうか。

 慌てたような間合いで紙を伸ばす音がして、それから文箱の蓋が閉まる音。

 きっと手紙の束を片付けてくれたのでしょうと、さすがファウストは気の利く子ですわねと内心鼻が高い心持ちでおりましたら、


「!」


 突然、身体が浮き上がりました。

 一瞬目が開いてしまいましたけれど、慌てて瞑り直します。

 気づかれておりませんわよね?

 いえ、でも、そんな、これは。


(お姫様抱っこ……!!)


 先日クラリーチェ様がされているところを見てときめいていたことが、まさか我が身に起こるとは!!!!

 心の中で悲鳴をあげ、それでも寝たフリを死守できたのは、恥ずかしさのあまりに硬直してしまっていたからに過ぎません。

 今は寝支度を済ませた薄着ですし、コルセットもパニエも何も付けていない身体は、ありのままの形をその腕にすべて伝えてしまっているということです。

 これはあまりにも恥ずかしい……!


 どうにもできないままファウストの腕に抱えられ、そうしてすぐに、寝台に移されたのがわかりました。


(はこ、んで、そう、はこんでくれた、だけですのよ)


 そうじぶんにいいきかせますが、ほんとうにもうしんぞうがだめです。

 だって、ファウストが、横になったわたくしの手を握ってきたのですもの。


(まって、しんぞう、止まって、いえ止まってはダメですわね、でもこんなに早く鳴ってしまっては、ファウストに起きていると気がつかれてしま)


 !!


 どうしてですの。

 なぜファウストはそんな手の握り方をしますの。

 それは前世で言う恋人繋ぎなのですから、指をからめたりするのはいけないと思います。


 怒涛のことに頭がついていきません。

 何が起こっているのでしょう。

 これはまた熱が出ますわね?


 もう何が起こっても心臓はとっくに壊れていると悟りはじめたとき、ファウストにまた新たな動きが。

 名残惜しそうに手指が離れていき、少し安堵したのも束の間、額に、ファウストの少し冷たい指が触れました。

 前髪を分け、労わる手つきで優しくたどるように撫でるのです。


(あ、わたくし呼吸が止まりましたわ)


 健やかな寝息どころか安らかな死。

 もうどうしようもなくなったところ、…………これは、トドメ?

 瞑った目の裏が翳ったことで、ファウストが覆いかぶさるように身を屈めてきたのがわかりました。


(何が起きますの??!!!)


 ついにパニックは最高潮。

 わたくしが限界を超え目をパチリと開けた時、わたくしの額に自らの額を当てているファウストの目と、ほんの数センチ先で視線が合ってしまいました。



 わたくしと目が合うと、ファウストも驚いたように目を少しだけ見開きました。

 けれどそれも一瞬のこと。

 わたくしが何も言えないでいるうちにいつもの表情を取り戻して、すぐに身体を起こして離れていきました。

 少しだけ困惑しているような気配はするのですけれど、わたくしの混乱のほうが大きいですから、今はちょっと、ファウストが何を考えているかを汲むのは難しいですわね。


「……起こしてしまいましたか」


 今度はわかりやすくしゅんとしました。

 自分の動作で姉の健やかな眠りを妨げてしまったと自戒しております。


「…………」


 けれどわたくしはそんなファウストに言葉をかけることもなく、どんなきっかけで自分が醜態をさらしてしまうか気が気でないものですから、おそるおそる、ひどく緩慢な動きでどうにか枕を抱き寄せて、顔を隠すことに成功いたしました。

 せめて肌掛けでもかけてくれていればすぐに潜り込んだでしょうに、あいにくファウストはわたくしを寝具の上に横たえただけなので、一旦起き上がって再び横になるには動きが大き過ぎて、わたくしにはそんな勇気は出ませんでした。


「…………姉上?」


 わたくしの滑稽な様子に、もちろんファウストも首を傾げていることでしょう。

 でもわたくしの目の前はたっぷりの羽毛が詰まったふかふかの肌触りの枕でいっぱいです。

 何も見えなければ、ファウストにもわたくしの顔は見えませんから、これは外せません。


「寝顔を見られるのは、恥ずかしいですわ…………」


 たっぷりの間をおいて、それっぽい理由を口にしました。

 これまでの姉弟生活の中でいくらでも見られる機会はありましたから、今さら何を言っているのかと思われても仕方ありません。

 けれど、これがわたくしのこんがらがった頭で考えられる精いっぱいです。


「申し訳ありません……」


 ファウストは素直に謝ってくれました。

 おそらく勝手に私室に入ってしまった後ろめたさも感じているのでしょう。

 あまりに萎れた声なのでかえって申し訳なくなりましたけれど、わたくしにフォローをするだけの余裕はありません。


「…………」

「………………」


 いつもなら積極的に話しかけるわたくしが言葉を発せないせいで、沈黙が続きます。

 ひさしぶりに顔を合わせたのですから聞きたいこともたくさんあるはずですのに、わたくしはここから逃れたい一心で何も考えられません。


「…………来週からは学園に来られると伺いました。お加減は、もうよろしいのですか」


 気を利かせたのか、ファウストから話しを振ってくれました。


(ええ、もう大丈夫ですわ)


 思っていることがひとつも喉に届かず、顔に枕を押しつけたままコクコクと頷くだけのわたくしは、すでにファウストに醜態をさらしているのではないのかしら?


 またしても、ファウストから困惑している気配がいたします。

 顔を見なくてもなんとなくわかるものですわね。


「さき、ほどは、失礼しました」


 言いにくそうに、ファウストが言葉を繋ぎました。


(さきほど。……さきほどの、あれ、のことですわよね)


 どう考えても、額を付け合っていたあれのことです。

 鼻先も少し触れていたような幻覚を思い出してまたぶわりと心臓から汗が出た気がいたします。

 顔を隠せていて本当によかったですわ。

 自分でもとんでもなく熱いのがわかりますもの!


「その、少し動悸が早い気がしたので、また熱が上がったのかと……」


 つまり、熱を測っていた、と。

 

(王道ですわね!実に王道!

 額と額と合わせて体温を確かめるなんて……手ではいけませんでしたの?!手のほうが確かではありません??!!)


 わたくしの心の声は恥ずかしさのあまりうるさいほどツッコミをはじめました。


(そもそも動悸が早くなっていたことに気がつかれていましたのね?!まああれほど深く指を絡めていたらそうなりますわね!!

 お姫様抱っこから恋人繋ぎのコンボで心臓が壊れてしまうのは当然ですのよ!!

 いえわたくし寝ていましたから?何も知らないはずですけれどね?

 寝込みを襲うのは卑怯ですしええいわたくしの心臓静まって!!!!)


 ぎゅっと枕を握る手に力がこもりました。


 体調を心配していただけの弟にこれほど狼狽える必要はありませんのに、のぼせる頭が本当に煩わしいこと!

 自分自身に怒りが湧いてきます。


「怒っていらっしゃるのですか?」


 悄気たよう声でうかがってくるファウストに、わたくしハッとしました。

 わたくしもファウストの心の機微に聡いほうですが、ファウストもまたそうなのです。

 わたくしが言葉にしない思いを、顔を見なくても察してくれるのですから……心を鎮めて、気をつけないと。


「怒っては、おりません」


 ようやく声を絞り出せました。

 上擦らないように、注意して。


「はずか、し、かったのです」


 我ながら舌足らずな物言いに、恥の上塗りではありませんの。


「!」


 パッと、悄気ていた気配が上向いた気がいたしました。

 姉が恥ずかしい思いをしているのに、何がそれほどうれしいのです。


「驚かせてしまい、申し訳ありません。

 姉上が伏せられてから、心配で何度かこちらに帰っておりました。

 体調がすぐれないうちは煩わしいかと思い我慢しておりましたが、今日は姉上も調子が良さそうだったとイザイアに聞いて、どうしてもお顔だけでも見たいと思ってしまい……」


 めずらしく饒舌になったファウストから、真っ直ぐな気持ちが伝わってきました。


(うぅ……イザイア……)


 うらめしいような、なんて気が効くのと称えたいような、複雑な思いがいたします。


 これほど顔が見たいと望まれて嬉しい気持ちになってしまったのははじめてです。

 こんな顔でよければと枕を下ろしかけ、慌てて思い留まります。


(今の顔はまずいですわね、とてもまずいですわ……)


 人様に見せられるような顔ではないことは自分がいちばんよくわかります。


 困ったような、嬉しいような、恥ずかしいような。


(とにかくファウストには見せていけないのはわかります)


「でも寝顔はダメですわっ」


 枕を改めて抱え直し、わたくしは早口で反撃しました。

 寝ている隙は、ダメです!


「申し訳ありません……でも、もう起きていらっしゃいます。

 お顔を見せてはいただけませんか?」


(…………ゔ、)


 そのように切実にお願いするものではありません。

 心臓が貫かれてしまいます。

 わたくしにだけしか聞かせないような、甘えるような声はだめです!


(それに、わたくしが今どんな顔をしているか、わかっていて言っておりません?)


 期待するような、請うような、そんな声音に聞こえてしまいましたけれど、これはわたくしの願望がそんな気にさせているだけなのでしょうか。


「…………見せたら、今夜はもう休みますから」

「はい」

「すぐに、なにも言わず、あいさつだけして、自室に戻ってください」

「はい」

「わたくし、病み上がりですし、ひどい顔をしておりますわよ」

「いいえ、姉上がどんなに頑張ってもひどい顔には決してなりません」

「はい、だけ言っていて」

「はい」

「何がそんなに楽しいのです」

「はい、姉上とお話しできたので」

「…………」


 何を言っても、墓穴にしかなりません。

 努めて冷静を装っておりますけれど、顔が火照る一方で、枕を下ろすタイミングがつかめません。


 黙って勇気が湧くのを待っていると、ファウストがゆっくりとまた身を屈めてきたのがわかりました。


「姉上」


 とても機嫌の良さそうな声が、すぐ上から降ってきます。

 ファウストが、枕に触れました。

 その指が力のこもったわたくしの指をそっと掠めて、怯んで力が抜けてしまった隙に。


「おやすみなさい、姉上」


 枕をどかして顔を覗きこんできたファウストが、まるで愛おしいものでも見るような目でわたくしを見ておりました。

 枕ひとつ分の厚みの距離で、間接照明の橙の薄明かりがその目に輝いていたのが、それからすぐにファウストが部屋を出て行ってからも、ずうっと目に焼き付いて離れませんでした。


**


 ファウストが部屋を出て行ってからも、恥ずかし死にしそうな羞恥の波が引いては押し寄せ、結局明け方まで眠りにつくことができませんでした。

 ようやく起き出せたのはお昼過ぎ、ファウストはジョバンニ様とのお約束があるとのことですでに別邸のほうへ帰ってしまっておりました。

 あまりに遅い起床に、お父さまやドンナに元気になったと証明するつもりがまだ不調なのではと心配される羽目になってしまいましたわ。

 ずっと休み過ぎてなかなか寝付けなかっただけと言い訳をして、お庭の散策はどうにか許していただけました。

 ドンナどころか、邸内だというのに護衛騎士を三名もつけられて、たいそう厳重なお散歩になってしまいましたけれど。


 部屋着のようなゆったりとしたワンピースドレスで、リハビリのように白と薄桃色のルナリアの咲く間の小径をゆっくりと一回りして応接間のテラスに戻ると、お茶の準備をしてお兄さまが待っていてくださいました。


「シルヴィオから東国の工芸茶というものを譲ってもらったよ。滋養の漢方効果があるそうだ」


 お湯を入れると、透明なティーポットの中できれいなお花が咲きました。


「きっとアリアンナ様から分けていただいたのですわね」


 お茶好きのアリアンナ様は、世界各国からめずらしいお茶を取り寄せてはお母さまやオルネッラ様とお茶会をしておりますから、その中からわたくしのためにと選んでくださったのでしょう。


「学園でお会いできたら、お礼を申し上げないと。それともお手紙のほうがよろしいでしょうか?」


 貴重なお品でしょうし、目にも楽しく、身体のことも気遣っていただいたのでは、やはりアリアンナ様含めて感謝の気持ちが伝わるように、お手紙に何か添えてお返ししなくては。


「気遣いは無用、だってさ」


 シルヴィオ様を真似たようなあまりに無造作な口振りで、仕草は茶化すようにティースプーンでくるくるとポットの中のお花を玩ぶお兄さまは、お行儀が悪いはずがかえって耽美な絵画のように様になってしまっております。


「それでは失礼になりません?」

「格好付けさせてあげられるのも、淑女に求められる技能スキルのひとつだよ」

「そうでしょうか……」


 お兄さまが仰るのですから、きっと間違いはございませんわね。

 けれど次にお会いした時に、せめてお礼だけは申し上げないと。

 殿下やスカーレット様、お見舞いをくださった方々皆さまにご挨拶をして回りたいくらいですし、そこで一言申し添えるくらいでしたら、お兄さまの仰る「格好付けつけさせる」ことにも妨げにはならないでしょうか。


「来週は、もしかすると殿下も私たちもあまり時間をとれないかもしれないから、顔を出すつもりならあらかじめ予定を伝えておくよ」

「次の新月までにはまだありますのに、お忙しいのですね」

「一週間後には、ビランチャ領へ発つからね」


 学園に戻ってからの段取りをいろいろと考えておりましたら、お兄さまが次の星の探索について教えてくださいました。


「次の新月はリブリの塔だ。

 王都からは五日もかからないけれど、あそこのいわくを考えると準備することは多いからね」


 リブリの塔とは、ビランチャ領の南、王都との領境に近い「知識の街」と呼ばれるリチェルカーレにある象徴的な施設になります。

 空まで届きそうな塔にこの世のすべての知識が詰まっていると言われ、数多の蔵書が収められたその塔を中心に、ステラフィッサ唯一の大学が敷地を広げております。

 その大学に研究室を持つことは国中の学者にとって名誉なことであり、少しでも多くの知識を得ようと、リチェルカーレにはたくさんの研究者やその教えを請う生徒が集まってくるのです。

 見上げても終わりが見えないほど、高い壁いっぱいに本が並んでいるということですから、一度は訪れてみたい場所です。

 ただし、物見遊山のつもりでいくには、かなり難しい場所ということも存じております。

 ただの知識の街と思っていては、リチェルカーレのはできないのです。


「リブリの塔に、星の光の浮き上がるような泉はあるのでしょうか?」


 大学の敷地にはそういう場所もあるようですけれど、お兄さまははっきりとリブリの塔が目的地のように仰いました。そこに何かしらの所以があるのだとは思いますが、建物の中の水場では、今までのように水に浮かぶ星を掬うことにはならないのではないでしょうか。


「そこなんだ。

 リブリの塔自体、ビランチャ侯爵家の始祖、ステラフィッサ国のはじめの宰相閣下がアステラ神様の天恵を奉って建てたという明確な由緒があるのだけれど、この千年で塔は増築につぐ増築がされていて、リチェルカーレの街を含めて探索の簡単な場所ではないからね。

 先代の巫女様の日記の様子ともまるで異なるから、現地に行かないと星の降りてくる場所の特定も難しいんだ」

「それで、なるべく早くビランチャ領へいらっしゃるのですね」

「そう。もちろん王都で調べられることはすべて調べていくつもりだけど、あそこについては情報は多いにこしたことはない」


 星も三つ目となり、簡単には手に入らないようになってきたのでしょう。

 お兄さまたちがお忙しくしている理由がよくわかりました。


「それで、今回は頭脳ブレインはいくらいても足りないくらいだから、ジョバンニと、ファウストも参加できることになったよ」

「!」


 少し油断していたところ、不意に義弟おとうとの名前を出されて心臓がビックリしてしまいました。


「そ、れは良かったですわ!」


 そこをどうにか、サジッタリオ領のことでメンバーから外されてしまったところを復帰できたことに喜んでいるふうに置き換えて、お兄さまには怪しまれないことに成功です。成功ですわよね?

 おそらくお兄さまも、わたくしがそのことを気に病んでいるのを知っていて教えてくださったのでしょうから、この反応は正解のはず、です。


「昨夜、ファウストに聞かなかった?」

「…………昨夜?」


(お、おにいさまったら何を言いはじめますの)


 昨夜という言葉に、起こったことを思い出して激しく動揺してしまいました。

 何をどこまでお兄さまは知っていらっしゃるというのか、普段と変わりない兄の顔に、わたくしは喉が乾くのを止められません。

 ひきつって言葉が出てこず、ごまかすようにお茶を一口、二口、三口……と味も感じられないまま飲み進めて口内を潤していると、何でもないことのようにお兄さまは続けました。


「昨夜、ファウストがティアの部屋から出てきたから、何か話をしたんじゃないかと思ったんだけれど」


(…………部屋から、出てきたところを、見ただけですわね?)


 何をそんなに疑うことがあるのか、やましい気持ちでもあるかのように素直に言葉を受け取れません。


「…………わたくしが机でうたた寝してしまっていたのを、運んでくれただけですの。

 体調を気遣って、すぐに出ていきましたわ」


(ウソは申しておりません!)


 わたくし、なぜこんなに焦っているのでしょう。

 言い訳じみた物言いになっておりませんでしょうか。

 こっそりとお兄さまを窺い見ると、すんなりと納得してくれたようで頷いておりました。


「そうだったんだね。

 病み上がりなのだから、机でなんて寝なくて本当に良かった。

 でも、そうか……、ティアからはまだ話していないんだね?」


(話すって、何を……!?)


 お兄さまが何を仰りたいのか、わたくし本当に気が気でありません。

 またみぞおちのあたりがキリキリしてきます。

 お母さまに痛み止めをお願いしなくては。


(わたくしがファウストに、とりわけしたいお話などありませんわ!そう、ありませんのよ……話したいきもちなんて、なく、も、なくないよう、な……)


 痛みを鎮めるように細く長く息を吐き出していると、お兄さまが少し心配そうにわたくしの顔を覗き込みました。


「あぁ、顔色がよくない。外気に当たり過ぎたかな」


 自分の着ていた上衣を脱ぐと、わたくしの肩にそっとかけてくださいました。

 お兄さまの優しい香りがいたします。

 お父さまと似ていて甘く、もう少しだけ爽やかなような。


「すまない。

 病み上がりなのにそんなに込み入った話をするわけがなかったね。

 ファウストの婚約について、ティアから話してくれるのがいちばんだと思ってしまったから」


( ────! )


 わたくし、少しだけ忘れておりましたわ。

 ファウストに、サジッタリオ家のご令嬢との婚約話が出ていたことを。

 昨夜のことを思い出しては浮ついていた心が、急激に沈んでいきます。


「…………お兄さまからお話になるのでは、ダメなのですか……?」

「私だと、やっぱり次期公爵の立場からになってしまうから、ティアが相談にのってあげてくれるほうがファウストも本音を話しやすいんじゃないかな」

「…………そうで、しょうか」

「荷が重いかい?」


 どんどんと暗くなってしまう声に、お兄さまは気遣うように手を握ってくださいました。


「冷たくなっているね。部屋に戻ろう。

 この話はリチェルカーレから戻ってきてからでもいいだろう。

 それまで、ティアは一日でも早く元気になっておくれ」


 お兄さまに支えられながら部屋に戻る間、わたくしは胸が塞がるような苦しさに耐えるのに精いっぱい。


(お父さまにも、お兄さまにも、わたくしが姉としてファウストに話をすることが望まれているのですわね)


 思い出してしまった姉弟という絆は、例え義理であろうとそう簡単に乗り越えてしまっていい壁ではないということを……そんな当たり前のことをどうして忘れてしまっていたのでしょう。

 わたくしの心臓には氷の棘が刺さったように、血の一滴から冷えていくような感覚が、部屋へ戻る足取りを心許なくさせていきました。

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