二
「ルクレツィア嬢、どうされましたか」
出会った頃から変わらない重たい前髪の隙間から、月明かりを取り込んだような金の眼だけがはっきりと浮かんで見えます。
「まぁ、ラガロ様……」
ラガロ様とは結局、今日にいたるまであまり仲良くなれたとは思えません。
王子殿下と距離を取ろうとすると、その側に控えるラガロ様とも自然と距離ができてしまいましたし、ラガロ様自体、お茶会でお会いする時はいつも業務的で、お話しを楽しむ、という雰囲気は皆無でした。
それは殿下やお兄さまたち相手にもそうで、「真面目なヤツだなぁ」とフェリックス様が揶揄っていたほどですから、そういう性格の方なのだと思っていたのです。
四角四面の、融通の効かない騎士タイプなのだわ、と。
そう思っていたのですけれど、月明かりに立つラガロ様のご様子は、なんだかいつもと違います。
こちらを取り込むような、深い闇に手招きをされているような……。
「眠れないのですか」
「えぇ、けれどもうお部屋に戻るところですわ」
めずらしく、ラガロ様から歩み寄ってきてくださいます。
けれど今のわたくしには、誰かと言葉を重ねるだけの余裕はありません。
部屋に戻って、布団をかぶり、どうにか朝を待つしかこの夜を超える方法がわからないのですもの。
「お送りします」
「ありがとう存じます。
けれど大丈夫ですわ。こんなに夜更けに勝手に城内を歩き回って、ご容赦くださいましね」
ラガロ様の強い金の眼で見つめられると、こちらの考えていることがすべて見透かされそうで怖しくも感じます。
できればいつものように距離をとって、そっとしておいてくださればいいのに、ラガロ様の金の眼はわたくしを捕らえて逃してくれそうもありませんでした。
「何か、楽しい話は聞けましたか?」
おやすみなさいと会話を打ち切ろうとしたその前に、ラガロ様は何か含むように問いかけてきました。
「……なにか?」
問いかけの意味を理解しきれないでいるうちに、ラガロ様は意地の悪い光をその眼に宿しました。
「盗み聞きは、いかがでしたか?」
首を傾げて聞いてくる様は、獲物を見つけた猛禽類そのもの、わたくしを追いつめることに愉悦を感じてさえいるような笑みは、この五年、決して見せたことのない表情です。
(あら、あらあらあら?)
ラガロ様は、お父さまたちが話していた内容も、そしてそれをわたくしが黙って聞いていたことも、すべて知っているようです。
それをわたくしにわざわざ突きつけてきて、いったいどういうおつもりなのでしょう。
そもそも。
(生真面目な騎士タイプの皮を被った、ウラオモテのある二重人格キャラでしたの?!)
まだまだ甘い自分の読みに、愕然といたしました。
「
クシャッと前髪をかき回すラガロ様は、言葉に含まれる苛立ちを隠そうともいたしません。
(……コレは、どちらですかしら)
わたくしの頭の中には、
いつからかはわかりませんが、ラガロ様がわたくしを嫌っていらっしゃったのはわかりました。
わたくしが傷つく様を見たいと、そうお思いになられていなければ、先ほどの発言は出ませんもの。
でもこれが、「単に悪役令嬢が気に入らないから」という理由なのか、もともとは「ヒロインと親密度アップするためのイベント」なのか、そこが肝心なのです。
前者なら、まあ致し方なしとして、それっぽくスルーすることもできますわ。
でもこれが後者なら、なぜ、どうして、としか言いようがありません。
(いつの間にか悪役令嬢溺愛シナリオに移行していたとでも言うのでしょうか……)
それともレオナルド様とセレーナ様との結婚イベントを起こしてしまったから、連鎖的にラガロ様イベント発生という理不尽極まりない事故が起きてしまっているのでしょうか。
そうなるとリオーネ領はラガロ様のイベント多発地帯となって、かなり危険なところとなりますわね。
こういう攻略キャラクターはゲームなら良いのですけれど、現実だとめんどくさ……厄介ですもの、できれば知りたくもない二面性でした。
レオナルド様の結婚で傷心の今、救われたいのはわたくしのほうです。
いかにも心の救いが必要そうな攻略キャラクターはノーサンキュー。
ゲームで出てくる選択肢だってかなり難解なのですから、ここで選択肢を間違って、早々にフラグを折りたい気持ちとなりました。
「ラガロ様は、とてもお母さま思いなのですわね」
絶対にハズレの選択肢、いいえ、選択肢にもない返答でいきましょう。
苛立つラガロ様をさらにイラつかせるように、わたくしは慈愛の眼差しでラガロ様を見返します。
「は?」
「レオナルド様に恋焦がれていたわたくしが、お母さまの結婚式を台無しにしないか心配されているのでしょう?
それでしたら、なんの心配もありませんのよ。
心からお祝いを……」
言いかけた言葉は、強制的に黙らせられてしまいました。
(壁、ドン……っ)
壁際に追い詰められて、凄むようなお顔が間近でわたくしを見下ろしています。
イベントは順調のようです?
「アンタ、本当に苛つくな。
いっつも何にもわかりませんみたいな顔して、平気で他人の気持ちを踏み躙って楽しいか?」
うーん、ここは選択肢、「………」で様子を見るのがよろしいかしら。
「アンタのその顔が歪むのが見たくて、伯爵と母親の結婚が早くまとまるように俺がけしかけたんだって言ったら、アンタどうする?」
引き続き「…………」で。
「だんまりか?
今日はせっかくアンタの泣き顔でも見られるかと思ったが、いつもみたいにヘラヘラ笑って、自分が想ってる男が他の女と結婚して、辛いんじゃないのかよ?なんで笑ってられる?頭ん中までお花畑かよ?」
素晴らしい罵倒のバリエーションです。
わたくしの心を抉ろうという意気込みを感じる怒涛の攻勢。
ですがこの性格に付き合って差し上げるほど、わたくし今世では物好きではないのですわ。
「それとも本当は、全部わかってるんじゃないのか?
殿下に対するアンタを見てると、時々ホントにそう見えるよ。
わかってて知らないフリされるなんて、アンタみたいな女に振り回されて、殿下もお可哀想だよなぁ?」
まぁ、正解!
さすが「ラガロの星」をお持ちの方は炯眼でいらっしゃるのね!
(なんて、喜んでいる場合ではありませんわね、絶好調のラガロ様の気勢を削ぐには……あ、)
「まあ!ラガロ様、瞳の中に本当に星があるのですわね!」
今までの怒涛のセリフ、全て聞いていなかったことにいたしますわね!
(それに瞳にある星ってどんなものかしらと、興味もありましたのよっ)
壁ドンをされて、顔を間近で拝見できたから、しっかりと瞳の奥を見ることができましたわ。
金の眼には、五芒星ではなく、四つの菱形を中心に集めたような、四芒星と言えばよろしいのかしら、そんな形がより濃い金色をしてくっきりと浮かんでおりました。
あまりにキレイなものですから、思わず声を上げて喜んでしまったのですけれど、ラガロ様のお顔はより一層と剣呑なものに。
(あら、肩透かしを食らったような反応を期待しておりましたのに、残念)
なかなかしぶといようです。
「なあ、もっと近くで、もっとよく見てみろよ。
ああっそうか、二人が結婚する前の夜に、その息子が公爵家の大事なご令嬢に乱暴でもしたら、さすがに全部ぶっ壊れるかも、そういう筋書きでも狙ってんの?」
あらあら。
ひさびさに復活した心の友チベスナさんが、冷えた目でラガロ様をご覧になっておりますよ。
わたくしにも、血は争えないですわね、と言わせないでくださいますかしら。
きっとそれを言えば完全にフラグは壊れるかもしれませんが、ラガロ様のお心まで粉砕したいワケではありませんのよ。
(でもここまで言葉にしてしまうと……)
「イザイア、いけませんわ。
伯爵子息にそのようなものを向けては」
わたくしの鬼強な護衛が出てきてしまいましたわね。
「お嬢様、まさかコレが伯爵子息だと?
あまりに不届きな輩がいたので、どこのゴロツキかと」
イザイアは、王城に通うようになってからは常にわたくしに付いていてくれるようになりました。
わたくしが外に出ることを過剰に心配したお父さまの采配です。
けれどイザイアは、いつも影の中に身を隠し、どこに控えているのかは悟らせません。
本当に、隠密の護衛って存在するのですわね!
声をかければ返事がありますから側にいることは確認できるのですが、一人になりたい時やそうでない時も、わたくしが気にならないようにと決して姿を見せません。
余程のことがなければわたくしの目に触れない範囲で対処しているようですし、人前に出てくるのを見たのはわたくしも久々です。
今日のような、突然の夜の徘徊にも必ず側にいるだろうとは思っておりましたが、ラガロ様のあまりの言葉に出てきてしまったようですわ。
すでに臨戦態勢のイザイアは、わたくしに対しては慇懃に振る舞いますが、ラガロ様を見る目は完全にゴミを見る目です。
ラガロ様の急所に的確に鋭いピックのようなものを突きつけたまま、まさか伯爵家の人間のはずがない、と武器を下ろそうといたしません。
「ラガロの星といえば、あらゆる武術に精通した比類なき獅子の王のことと聞き及んでおりますから、私ごときに背後を取られるような方は、ラガロの星様とは違う方なのでは?」
「ラガロ様には双子のご兄弟がいらっしゃったのかしら?」
「いるわけないだろ?!」
ようやくラガロ様はイザイアの出現に脳が追いついたのか、身を翻してイザイアと距離をとりました。
その間に、わたくしはイザイアの後ろに庇われるように場所を移します。
「それほど弱くてラガロの星とは、リオーネ家も安泰とは程遠いようですね」
暗器の似合うイザイアは、嘲弄するように何気なく立っているように見えますが、ラガロ様はひとつも反撃できる隙が見えないようで、悔しそうにお顔を歪めております。
「独りで出歩いてたんじゃないのかよ……」
「一人でしたわ?」
舌打ちをしてボヤくラガロ様に、何を言っているのだろうと、心底不思議そうな顔でお返ししました。
貴族令嬢として、使用人はカウントに入れないだけです。
わたくし公爵令嬢ですもの、例え気心の知れているリオーネ家でも、万が一何か起こってはお互いの家に傷が付きますから、誰の目にも見える予防線である
「これだから貴族はイヤなんだ。
どうせ
こんなものなければ、俺だって……」
前髪をグシャリと握りしめて目を隠すようなラガロ様に、彼ルートの攻略の糸口が見えた気がいたします。
(勝手にイベントを進められているのが気になりますけれど……)
聞いてもおりませんのに独白を続けるラガロ様、今は伯爵家の養子ですけれど、元も子爵家で教育を受けてきているのですから、ラガロ様も立派な貴族だと思うのですけれど、そんな心情を吐露してしまうほどには、どうやらラザーレ家であまり良い思いをされなかったようですわね。
やがては自分たち一門の長となる子どもであっても、同じ種でありながら自分には宿らなかった「星」に、自分より後に生まれ、しかもメイドの生んだ子どもが自分より上に行くことが確約されているのですもの、子爵夫人とそのご令息がどんなお気持ちでラガロ様に接されたか、なんとなく想像がついてしまいます。
それをラザーレ子爵が制御できていなかったことには驚きですが、まあ、クソヤローですものね、そんな高等なことは出来なかったのでしょう。
すっかり乙女ゲームの攻略対象らしく鬱屈した幼少期を過ごしてしまったラガロ様には同情いたしますけれど、その膿をわたくしにぶつけられても困ります。
わたくし悪役令嬢ですし、そういう心の傷を引き受けて癒すのはヒロインの役割ですもの、こうしてイベントのようなものが発生してしまっているのも、事故なのです、事故。
「それで、いったいイザイアはどうしましたの?いつもなら出てきませんのに」
これ以上ラガロ様のイベントには付き合えませんから、その呟きは聞かなかったことにして、わたくしはイザイアに話を振りました。
ここも、きちんと軌道修正いたしませんと、「わたくしがラガロ様に何かされそうになっていた」ことになってしまいます。
「お嬢様の御身を守るのが私の務めですので」
「何かわたくしの身に危険なことが迫っておりますの?」
「…………私の早とちりでございました」
不承不承ではありますが、わたくしの「分かっていなかった」フリに、イザイアは「何もなかった」ことにしてくれるようです。
このままお父さまに報告でもされますと、ラガロ様は明日の朝日をご覧になれなくなりますもの。
レオナルド様の晴れの日に、そんなことわたくしひとつも望んでいませんのよ。
───結婚する前の夜に、その息子が公爵家の大事なご令嬢に乱暴でもしたら、さすがに全部ぶっ壊れるかも、そういう筋書きでも狙ってんの?
明日のことに思い至った瞬間、先ほどラガロ様に言われた言葉が頭の中でリフレインいたしました。
ラガロ様の言葉はひとつも本当ではありません。
……ありませんけれど、
(もしもそうなってしまったら?)
と一瞬でも頭を過ってしまったなんて、わたくしのなんて浅はかなことでしょう。
ラガロ様の抱える闇に引きずられるように、先ほど聞いてしまったお父さまたちのお話しがまた頭の中をぐるぐると駆け回り、わたくしの心の内をかき乱します。
(ラガロ様が、少しうらやましいですわ)
自分の中にある鬱屈を外にぶちまけられるだけでも、少しはスッキリするのでしょうか。
その相手にわたくしを選んだことは不服ですが、今日ここまで、ずっと物わかりよく振る舞ってきたわたくしには、ラガロ様の行いは眩しくも思えます。
(それともラガロ様、無意識でわたくしにもそれをさせようとしてくださったのかしら)
なんて、考えすぎでしょうか。
王子殿下への牽制の意味も込めてではありますが、お茶会の席で他のご令嬢たちへ
そこへ傷付いた様子も見せず、笑ってお祝いを伝えるわたくしに、決して上策とは言えませんでしたが、わたくしの心を無理矢理にでも波立たせ、その本心を引きずり出してやろうとあのような言動に至った、というのはあり得ないことでしょうか。
ラガロの星はどうやら勘の鋭さもその恩恵に含まれているようですし、どんなに悪態を吐かれようと、根は攻略対象だと思っておりますので、そんな邪推もできてしまいますわね。
そこまで考えついて、ひとつため息を落とすと、少しだけ湿り気を帯びて震えるものになりました。
「お嬢様?」
「……?!」
振り返ったイザイアもラガロ様も、なぜだかわたくしの顔を見て驚いておりますわ。
「?」
何かあったのだろうかと首を傾げると、濡れた感触が頬を伝うのがわかりました。
(あら?)
何かしらと指でそれを拭えば、次から次へ、それは滴り落ちてきて、わたくしの頬を濡らします。
(あら、わたくし泣いているのね)
自分でもよくわからないタイミングで、わたくしの涙腺は決壊したようにホロホロと涙を溢れさせております。
心は、とっくに限界だったのかもしれません。
部屋に帰って、布団にくるまり、誰にも気付かれないように泣くつもりでしたのよ。
それをラガロ様に引き留められ、突然二重人格設定など露わにするから驚いて引っ込んでしまっていましたけれど、考えすぎる頭と心は切り離されて、勝手に涙を溢れさせてしまったようです。
ほとんど表情を変えずに涙を流すわたくしに、ラガロ様はなぜだかオロオロとしはじめ、イザイアも固まってしまいました。
イザイアはともかく、ラガロ様はこれが見たかったのではないのかしら。
(どうしましょう、止め方がわからないわ)
しゃくりあげるでもなく、涙だけが止まらなくて、拭おうという気概も今はもう湧きあがりません。
少しでも何か言えばいいのでしょうが、口を開くと喉の奥から嗚咽が込み上げてきそうで、呼吸すら止めなくてはいけないような気がいたします。
「……ルクレツィア嬢、」
ようやくラガロ様が近づいて、わたくしの涙でも拭おうかと手を差し出した時、
「さわるな」
まだあどけないながらも鋭い声が、階段の上から降ってきました。
(ファウスト)
わたくしの
「
さらに怒気を含めてファウストはラガロ様を制すると、そのまま階段を駆け降りてわたくしの側までやって来ました。
「彼に何かされたのですか?」
涙を溢し続けるわたくしの頬に躊躇なく触れ、心配そうな灰紫の瞳がわたくしの顔を覗き込みます。
「っ」
口を開くと本格的に泣いてしまいそうで何も言えないわたくしに、ファウストは傍らに場所を譲ったイザイアに目を向けました。
「イザイア」
「まだ何も」
わたくしの意思を守って、「何もなかった」ことは継続してくれましたが、その言い方ですと、これから何かされそうだったと聞こえてしまいますわ。
ラガロ様に殺意の籠った視線を投げかけるファウストに、わたくしは慌てて首を振りました。
「ちが、うのっ」
ああ、やっぱり口を開いてはいけませんでしたわ。
涙に濡れた声は、哀れなほど掠れて、ファウストが痛ましげにわたくしの目元を親指で拭います。
ここ一年で、ファウストはわたくしの背を越しました。
キレイに切り揃えたシルバーブロンドは胸元まで伸びて、窓から忍び込む月光に共鳴するように煌めいて見えます。
涙に滲んだ世界でも、ホッとするその輝きにわたくしは心を少し落ち着けて、ファウストの手をとりました。
「へやに、」
「はい、戻りましょう」
みなまで言わなくても、ファウストはわかってくれます。
これ以上、この場に留まりたくはありません。
いつお父さまたちのお酒が切れて、こちらへ来ないとも限らないのです。
こんなふうに泣いている姿を見られたくはありませんもの。
何か言いたげだったラガロ様を完全に遮断し、ファウストはわたくしを守るように連れ去りました。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
立ち去る二人を見届けて、イザイアは詰めていた息を吐き出した。
ルクレツィアの泣き顔に衝撃を受けて何も出来なかったなど、自分でも信じられない失態だった。
「おい」
隣で間抜けヅラをしていたヤツがいたからまだマシに見えていただけで、大差ない醜態だと自分で自分が嫌になる。
「おいっ」
その間抜けに話しかけられて、応える義理はあるだろうか?
いや、ないな。
ファウストはただでさえ人より聡いのが、姉のこととなればさらにその能力を跳ね上がらせるから、ラガロが側にいて、
姉の言葉に従って「何もない」ように彼はするだろうが、言葉の細部まで伝えることはせずとも、「何かは起こらなかった」程度に公爵にあらましを伝えるのはイザイアの仕事だ。
そうなれば、この伯爵子息が公爵家にとってどのような存在になるか、火を見るより明らかだった。
相手にする価値もないと思い、イザイアはそのまま暗闇に姿を消そうと思った。
気配を絶って、イザイア独自の魔力を少し操作すれば、誰の目にも触れない影になることができた、できるはずだった。
───金の眼が、邪魔をしなければ。
まだ使いこなせてもいないが、あの眼は使いようによっては
間抜けはそんなことも知らずに無意識でそれをしているのだから、資質のまったくないヤツなのに、とんだ宝の持ち腐れだなとイザイアは呆れるしかない。
「ラガロの星」
面倒だが、もう少し心を折ってやろう。
イザイアは、鋼の瞳で、所在ないような金の眼を静かに見つめ返した。
「満足か?」
「……っ」
突き放すような冷たい刃の瞳に、ラガロは批難される理由をすでに思い知っていた。
「お嬢様は、私が仕えてからこれまで、あんな風に泣かれたことはない。
常に幸せであるようにと、愛されて、大事にされて、そうして過ごされてきたんだ」
「そんなのっ…」
「そう、恵まれているんだろうな、そうして暮らしていられる、ということは。
だが、その何がいけない?」
開き直りとも取れるイザイアの言葉だが、「何がいけない」と問われれば、ラガロは返す言葉を見つけられなかった。
「貴様はただお嬢様を羨み、妬み、そのつまらない恨みつらみを関係のないお嬢様にぶつけただけだ。
それで、期待どおりに気丈に振る舞っていたお嬢様を泣かせることができたんだから、さぞ満足だろうな」
低くなった声には、蔑みも混じった。
貴族だろうがそうではなかろうが、それぞれ歩んできた人生が違うのは誰のせいでもない。
生まれてきた環境をどうにかするには、自分の意志と外側からの少しの援助が必要だが、「ラガロの星」こそ人から羨まれる才だろうに、ないものばかりを見て自分を可哀そうがっている愚かな男だ。
そんな男に、果たしてレオナルド・リオーネの後継が務まるのか、イザイアは本気で不思議でならない。
「自分ではなぜダメなのか」
「っ」
イザイアはさらに、ラガロの奥底の心理に刃を突き立てた。
イザイアは知っている。
王城で、ルクレツィアを取り巻く少年たちがどんな目で少女を見つめているか。
少女の影になり守っているイザイアには、手にとるようにわかった。
真面目実直の皮を被り、さらにその下では苛立ちに隠しながら、ラガロの金の眼もそれと変わらない色をしてはいなかったか。
「リオーネ伯爵に取って代わるつもりだったなら、あまりに滑稽なやり方だったな。
お嬢様が貴様のものになることはないだろう」
ついに光を消した金の眼に、イザイアはようやく溜飲を下げた。
星の力はもうイザイアの邪魔をしない。
言葉もないラガロを顧みることなく、イザイアはするりと闇に消えた。
ルクレツィアの影となりそのすべてを守るためにあるこの力が、愚かだった男を唯一救いあげてくれる力だったことを、神に感謝しながら。
───その後、置いて行かれたラガロがどんな顔をしていたのか、誰も知ることはない。
クシャリと前髪をかき乱し、自嘲の笑いを浮かべた「ラガロの星」が、泣きそうに顔を歪めても、誰も見る者はないのだ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「姉様、平気ですか?」
客室に連れ帰り、わたくしを寝台に座らせたファウストは、しゃがみ込んでこちらの顔を覗き込んできます。
首を縦に振っても、まだ涙はポタポタと落ちてきますから、とても平気には見えませんわね。
「そんなに泣いては、目が溶けてしまいます」
和ませるための言葉ではなく、本当にそうなってしまわないか、ファウストは真剣に心配してくれているようです。
はじめはハンカチで涙を拭ってくれていましたけれど、すぐにダメになってしまいましたから、今は冷たいタオルを擦らないように優しく頬に当てて、心が落ち着くように片手はわたくしの両手を握ってくれています。
「……ファウ、スト」
ダメですわね。
やっぱり息を吸うと、しゃくり上げるような呼吸音がして、わたくしの涙はさらに溢れてしまいます。
「止め方がっ、わからないの……っ」
どうしてこんなに泣いているのか、自分でもわかりません。
ずうっと、我慢をし過ぎたのでしょうか。
五年分、枯れるまで、この涙は尽きないのかもと不安になって、ファウストの手を握り返す力が強くなってしまいました。
「明日、は、レオナ…さま、の結婚式、なのに、泣いて腫れたっ、お顔で、は」
「母上に、治癒の魔法を少しかけていただけば大丈夫です」
「おとう、さまにはっ」
「はい、知られないように」
優しく、根気強く、ファウストはわたくしの零す言葉を拾い上げて、ひとつひとつ丁寧に、安心させるように返してくれます。
「ファ、ウスト」
「はい」
呼べば必ず答えてくれる、優しい
「涙が、止まるまで、いてく、れる?」
「はい」
「ずっと?」
「はい」
「朝になっても?」
「はい」
その優しさにつかえがとれて、まだこんなに体に水分があったのかというくらい、涙は止めどなく溢れてきました。
「おそばにいます」
ウソのない真心の言葉が、少しずつわたくしを癒やしてくれます。
「ありが、とう」
そう言って頭を下げれば、慣れない手つきではありますが、ファウストがわたくしの頭を撫でてくれて、まるでいつもとは逆の立場ですわね。
その感触が気持ちよくて、すりと、自らも頭を擦り寄せましたが、驚いたのか、ファウストは手を離してしまいました。
「…………」
わたくしはなんだかそれが大層不満で。
「足りま、せんわ」
拗ねるようにファウストを見上げれば、困ったように眉尻を下げているのがとても可愛らしい。
「ファウスト」
「ハイ」
「わたくし、泣いているの」
「ハイ」
「なぐさめっ、なくては、いけません…わね」
「……ハイ」
「こうい、ときは、ハグ、するものよ」
「はぐ」
困らせたいわけでもないのですけれど、好きに甘えてワガママを言えるのは、アンジェロかファウストだけですもの。
横暴な姉らしく、ファウストにハグを要求すると、ファウストの眉毛はこれ以上ないくらい下がってしまいました。
「して、くれないの?」
泣き顔のまま首を傾げれば、ファウストが折れるのは知っています。
年頃の男の子ですもの、姉とハグなんてきっと恥ずかしいでしょうけれど、わたくしは今とても弱っていて可哀想なのだから、いいのです。
「しま、す」
おずおずと、ファウストから手を伸ばしてくれて、そのまだ薄い肩にわたくしの頭を抱えてくれました。
部屋着のシャツに、涙の染みがついてしまいますが、構わないでしょうか。
(そういえば、ファウストはなぜあそこに来たのかしら)
そんなことをぼんやり思いますが、人肌より少し熱いくらいのファウストの体温が心地よくて、わたくしはぎゅうと、その背にしがみつきました。
涙はしとどに落ちてきますが、一人で泣く夜よりはずっと心強くて、どこかほっとしています。
「ねえさま」
ファウストがわたくしを優しく呼ぶ声に、心が少しずつ凪いでいきます。
応えるようにすりと頬を擦れつければ、ファウストは仕方がないというように、また頭を撫ではじめてくれました。
トントンと、もう片手であやすように背で
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「ねえさま……?」
すうと、落ち着いた呼吸に切り替わった頃、そっと声をかけても、姉からの返事はなかった。
顔を覗き込めば、赤い目元が痛々しいが、穏やかな顔で眠っている。
(よかった……)
姉がリオーネ伯爵に恋に落ちた瞬間から今日まで、ずっと側で見守っていた。
姉にここまで思われて応えないあの男はどうかしているんじゃないかと思っていたが、姉がそれでかまわないと言うなら、それでいいのだとも思っていたのに。
腫れた頬に触れると、熱くて可哀そうだ。
冷やすために指先に少しだけ魔力を込めて、冷気をまとわせる。
起こさないように、そっと。
もう少ししたら、寝台に横たわらせて、それから。
「………さま」
姉が譫言のように何かを呟いた。
起こしてしまったかと思ったが、そうではなかった。
ぎゅうと、自分に縋りつくように力のこもった姉は、
「……レオナルドさま」
この五年、想い続けた男の名前を呼んでいるのだ。
「……っ」
そう気が付いたとき、ファウストの心には、これまで感じたことのない、言いようのない感情が急激に湧き上がっていた。
心のあちこちを刺すように暴れ回るそれが、「姉」に持ちうる感情ではないことを、ファウストは知っているのか────
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