三
目が覚めると、わたくしのいるキングサイズほどの寝台の隅で、猫のように小さく丸まって寝ているファウストを見つけました。
本当に朝までそばにいてくれたようです。
(そんなに遠慮しなくてもいいのですけれど……)
律儀な弟は、小さなブランケットに包まっていて、一緒のお布団に入って寝る、という選択肢はなかったのでしょうか。
まだ春も浅いですから、寒くはなかったのか心配になってしまいます。
起こすのはしのびなかったのですが、ドンナがわたくしを起こしに部屋に入ってくるなり大声を出したので、目を覚ましてしまいました。
「お嬢様のお顔が!」
案の定、大泣きしたわたくしの顔は浮腫んで、目の周りはとくに赤く腫れ上がっていました。
いかに妖精といえど、生理現象には敵いません。
それを見たドンナは卒倒しそうになりましたが、だいたいの事情をすぐに察して、「今日のお衣装のことで」とお母さまを呼び出してくれました。
お母さまにこんな顔を見られるのもバツが悪い気がいたしますが、このまま式に参列するわけにも、式を欠席するわけにもいかないのですから、お力をお借りするしかありません。
お母さまの生家のヴィジネー侯爵家は、稀少な癒しの力を持つ家系で、お母さまはその中でも幼少期から群を抜いて魔力がお強かったそうです。
それにより誰かと婚約、結婚をすることが大変難しい立場にいらっしゃったそうですから、成長してお父さまと恋愛結婚できたのは本当に奇跡のようだと、お二人の恋物語はすでに戯曲となって世界中で公演されております。
お父さまが、まだお小さい頃にお母さまに一目惚れしてから、自分へ押し寄せていた婚約話は何がなんでもすべて断っていた、というのは、奇跡の裏に隠された企業努力です。
そんなお母さまの欠点は、能力を制御し切れていない、というところでしょうか。
所謂ノーコン。
火力調節が難しいそうで、打撲やかすり傷程度か、四肢欠損を治すか、そのどちらかしか選択肢がないというのですもの。
腕を骨折したとして、そこだけ治そうとしてもそこにもう一本腕が生えるのですから怪我以上の大惨事。一旦肩から切断しないと治せないのでは、その力の使い道は限られてしまいます。
わたくしの今日のお顔は、いくらひどくても最弱火で癒していただけますから、わざわざ頭を切り落とす必要はございません。
「まぁ、ティアちゃん」
わたくしの顔を見たお母さまも、すぐに事情を飲み込んでくれました。
余計なことは何も言わずに、まずは労わるように温かく抱きしめてくださり、それから両手で頬を包み込んで、昨日のように額をコツリと合わせます。
そこからジワジワと、清涼な光が淡く灯り、わたくしにまとわりついていた目の周りの重さはすっかり消えていきました。
「さあ、いつものティアちゃんよ」
額を離して、わたくしの顔を覗き込んだお母さまは今日もステラフィッサの女神です。
傍らで見守っていたファウストも抱き寄せると、
「ファウストちゃんがそばにいてくれたのね。ありがとう」
と額にキスをして、寝不足そうだったファウストの顔色も良くなりました。
朝食に広間へ降りて行くと、昨日夜更けまで飲み過ぎたらしいお父さまたちの顔色も相当なものでしたので、それぞれ叱られながらも、結局お母さまが癒やして差し上げていました。
お母さまが叱ったと言っても、「めっ」と言って人差し指で額を優しく
代わりにお兄さまが、「こんな日にどうして」というひどく真っ当な疑問を、心底不思議そうに正面から投げていたので、お父さまは恥じ入っていらっしゃいました。
フリオ様は、ヴィオラ様によく似た伯爵夫人に叱られるというよりは静かに呆れられていて、ヴィオラ様がお酒の残り香に気分を悪くされるので、朝から少しも近づかせてもらえないことが何より堪えると、肩を落としておられました。
レオナルド様だけが、旧来の乳母にこれぞお説教とばかりにガミガミと叱られておりました。
セレーナ様は朝から準備に追われているようで、朝食の広間には来られませんでしたから、結婚式当日に情けない新郎の姿を見ることがなくて良かったのかしら?
それとももうそんなお姿はご存知なのかもしれませんわね。
ラガロ様も、朝からお姿が見えません。
わたくし一言言って差し上げたかったのですけれど。
決してラガロ様のせいで泣いた訳ではないのですよ、と。
あれは元々ガマンしていたものが溢れてしまっただけですので、自分のせいで泣かせた、などと勘違いされていては据わりが悪うございます。
実際、ラガロ様が何を仰っていたのかちゃんとは聞いておりませんでしたし、なんだか勝手に盛り上がってイベントっぽくされてしまったものですから、回避のために必死で頭を使っておりましたのよ。
婚約者もまだおらず、例えラガロ様が攻略対象ではなかったとしても、まずレオナルド様のお身内という時点でありえないのですから、こちらへ興味など抱かず、これからも適切な距離感でいていただきたいものですわね。
*
結局、式がはじまる直前までラガロ様は姿を現さず、リオーネ家の使用人たちはヒヤヒヤしていたようですが、ようやく現れたラガロ様は、これまでずっと目を隠すように下ろしていた前髪をスッキリと切っており、この一晩でいったいどんな心境の変化があったのか、ずいぶんと憑き物が落ちたようなお顔をされていました。
わたくしに吐き出して、落ち着かれたのでしょうか。
一方的ではございましたけれど、まぁ、ご本人的には良かったのではありません?
心の中ではチベスナさんが、(知らんけど)と呟いておりますが、あんなイタい二重人格設定は、学園に入る前に早々にお捨てになったほうがよろしいもの。
もう式がはじまろうかというとき、ラガロ様と目が合いました。
わたくしは参列者席、ラガロ様はご親族の立ち位置でしたので、言葉を交わせる距離ではありません。
ラガロ様のお顔が気まずそうに揺れたのは一瞬、こちらが驚くほど深く、頭を下げてこられました。
どこからともなく、イザイアが思わず漏らしたような(はっ?)という剣呑な声が聞こえ、謝罪なのか感謝なのか、わたくしにも受け止めようがございませんので困っていたら、ファウストがちょっとだけ不機嫌そうな様子で間に入ってくれました。
顔を上げたラガロ様は、わたくしの前に立ちはだかるファウストを見て、再度頭を下げていました。
(……勝手にイベントが成功しているような気がするのですけれど???)
この五年、出会いから変わらず想いを寄せてくださっているようなエンディミオン殿下のご様子も思い出せば、乙女ゲームの世界って本当に怖しいですわね!
わたくし悪役令嬢ですけれど。
ヒロインの立場を失くしてしまっていないでしょうか。
ゲーム開始前にイベントの重要そうなところが発生し、ラガロ様ルートが潰えてしまったようなのはわたくしのせいではないとは思いますが……あら?でもレオナルド様のご結婚はわたくしの有り様に話が進んだようなことを昨日仰っていたので、やはりわたくしにも原因の一端が?
(いろいろ、もろもろ、
シナリオ改変しているからと言って、悪役令嬢が愛され令嬢になり過ぎ問題を、まさか地で突き進んでしまうなんてまったくの遺憾ですのよ。
(わたくしは、たくさんの方に愛されなくても、たった一人に愛して大事にしていただきたいだけですのに)
そのたった一人を望んだ方は、今、白い花嫁衣裳を身に纏った
大泣きしたおかげか、わたくしは大きく心を乱すことなく、お二人の結婚式を見届けることができました。
ファウストが、励ますように背に手を添えていてくれたからかもしれません。
昼過ぎから執り行われた挙式は滞りなく、お父さまとお母さまが立会人となり、レオナルド様とセレーナ様の結婚の宣誓は厳粛に神の下に認められました。
ステラフィッサの崇める神様は、こちらの世界では一般的な五柱の神様で、聖なる巫女をわたくしたちに遣わしてくださるという神様たちです。
ステラフィッサでは主にその一柱である
旱魃や長雨に関わる「
星の災いから世界を救った「星護りの巫女」のお話は一千年前の一度きりの伝説しかありませんから、それによって成り立っている
(いろいろとあって忘れておりましたけれど、近い将来、星が降るのでしたわ)
リオーネ城の礼拝堂は立派なもので、主祭壇には見上げるほどのアステラ神像があり、その両側に二柱ずつ、三分の二ほどの大きさの地水火風の神像が置かれておりました。
この配置もステラフィッサ王国では一般的ですが、他国ではこれほど大きなアステラ神像はあまり見られないことでしょう。
サダリ湖を越え、遥か西方にある「聖国」には、ステラフィッサでも見られないほどの巨大な、空をも支えるほどの神像が五柱、神殿に聳えているというので、いつか見に行ってみたいと思っておりますけれど、その前に星が降っては一大事です。
(今のところ、なんの予兆もありませんわね)
お兄さまは、リオーネ領から王都に帰れば、すぐに学園生活がはじまります。
フェリックス様も同学年で、二年先に入学されたクラリーチェ様がお待ち兼ねのようです。
十二貴族のような主だった貴族の場合、寮には入らず王都の邸宅から通うことになりますから、お兄さまと長い時間離れることにはなりません。
その点を寂しく思う必要はないのですが、いよいよ、という気持ちが強くなります。
来年、ラガロ様とシルヴィオ様、ベアトリーチェお姉さまが共にご入学されれば、その次はわたくしたちの番です。
メイン攻略対象と思われるエンディミオン殿下のご入学と同時に、ゲームのシナリオはスタートとなるのか、ファウストも攻略対象と考えればその一年後、全員が揃った時からはじまるのか、どちらにせよ聖なる巫女が現れたという話はまだどこからも聞こえてはおりません。
兆しはなんなのか。
式が終わり、礼拝堂の外に出ると、空は底抜けに青く、とても穏やかな昼下がりです。
その奥に、すでにこちらへ向かっている巨大な星のカケラがあるとしたら───
考えるだけでも恐ろしくなって腕をさすると、ファウストが心配そうに、「寒いのですか」と訊いてくれます。
なんだか今日は、とても過保護です。
いえいつも過保護ですけれど、いつも以上に。
それもそうですわね。
昨晩のわたくしの有り様をファウストは見ているのですもの。
さんざん甘えた気がするのですけれど、今さらその醜態が恥ずかしくなってきましたわ。
「……ファウスト」
ゾロゾロと参列客が礼拝堂から城内に移動していく中、わたくしはファウストの袖を摘まんで引き留めました。
「はい」
素直にこちらを見返すファウストは、いつもと変わらぬ真っ新なお人形のようなお顔をしております。
「……昨晩は、どうもありがとう」
改めてお礼を伝えるのは気恥ずかしくありましたから、そんな顔になってしまっていても許してくださいましね。
「っ、」
ファウストは目を少しだけ見開いて、息を詰めたような気配がありましたが、それも一瞬のことで、見間違いだったかもしれません。
「……いえ、べつに」
いつものファウストらしくもなく素気なく答えると、ふいと顔を逸らされてしまいました。
(やはり姉のあんな様子を思い出すのは、きっと居た堪れないのですわね)
わたくしだって恥ずかしいのですもの、当然のことですわ。
「ティア、ファウスト、どうしたんだい?」
アンジェロお兄さまが、遅れたわたくしたちに気づいて、戻ってきてくれました。
「良いお天気でしたので」
ごまかすように空を見上げると、お兄さまもファウストも、つられて一緒に空を見上げます。
温かな陽光、うららかなそよ風、近づいている破滅があるとは、とても思えない日常。
この先、二人の心を奪ってしまうようなヒロインが現れた時、わたくしはどうするのでしょうか。
お兄さまにはベアトリーチェ様がいますから「目を覚まして」と一生懸命呼びかけるしかありませんけれど、ファウストは。
(そういえば、ファウストルートの悪役令嬢らしき方は現れませんでしたわね)
エンディミオン殿下への片想いを続けている悪役令嬢力抜群のスカーレット様は、実はお茶会の前からシルヴィオ様との婚約話が保留になっているとお兄さまから伺いましたから、きっと正規シナリオの世界なら、彼女がシルヴィオ様ルートの悪役令嬢になっていたのでしょうけれど。
やはり意地悪な
(邪魔など決してしませんわ)
義弟に邪険にしてもらえるようになる目標はまだまだ道半ばですけれど、恋の応援くらいはしてもいいと思いますの。
わたくしのことを思いやり、いつもそばにいてくれるファウストが、他の誰かをいちばんに考える日がくるのは、とても、とても寂しいことですけれど……。
「そろそろ行こうか」
お兄さまが手を差し伸べてくださいましたので、わたくしは迷わずその手を取って、反対の手をファウストに差し出しました。
いつもならすかさず握り返してくれるファウストが、なぜかその手をじっと見て、それからわたくしの顔を見つめます。
(?)
不思議に思って見返すと、きゅっと口を結んでから、ファウストはようやく手を握り返してくれました。
(家族と手を繋ぐのも、恥ずかしいお年頃になってしまったのかしら)
今日は少しだけいつもと様子が違うのは、まだ昨日のことが尾を引いているせい、と思っていましたのに、それからファウストは、少しずつ、少しずつ、お互いに気付かないほどささやかに、変わっていったのです。
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