五
(ルクレツィアの、ガラッシア家のお顔の威力をなめておりましたわ……)
まさか笑顔ひとつでヒトが落ちるとは思いもよりませんでした。
先ほど、お父さまの舌打ちなどと世にも珍しいものといっしょに聞かなかったことにしたうめき声は、攻略対象ではない
(いいえ。見なかったことにいたしましょう)
心で真顔になったわたくしの決断は早いものでした。
今見たものは、記憶から追い出しましょう。
そうです。なかったことにするのです。
王子殿下とは数秒目が合った程度のこと。
わたくしは何も見なかった。
わたくしが見なかったことは、起きていないことと同じこと。
王子殿下が、悪役令嬢などに恋に落ちようはずがございません。
折よく、お父さまがエンディミオン殿下の視線を妨げるように、わたくしの前に一歩前進して壁となってくださいました。
(今のうちに、体勢を立て直しましょう!)
動揺している場合ではないのです。
正念場ですのよ。
王子殿下の婚約者には成らない。
これが破滅回避のための最大のミッションなのですから。
(わたくしは妖精、わたくしは妖精……)
そう、わたくしは妖精さんなのですもの、
という
(お父さまがいらっしゃれば、絶対にどうにかしてくださいますもの)
心を強く持ちましょう。
いよいよ、王妃陛下と王子殿下に一家族ごとにご挨拶をする段に移ります。
ガラッシア家はもちろん一番手。
侍従がお父さまとお母さまのお名前を呼びました。
「ラファエロ・ガラッシア、エレオノーラ・ガラッシア、王妃陛下のお召しにより参上致しました」
最敬礼で貴人に向かうお父さまとお母さまに倣い、わたくしたちもあとに続きます。
「ガラッシア公、公爵夫人、よく来てくださりましたわ。子どもたちに会える今日この日を、とても待ち侘びておりましたのよ」
「本日は、王妃陛下、並びに王子殿下に家族共々拝顔の栄に浴し、恭悦至極に存じます。
これなるは、ガラッシア家が嫡男アンジェロ、長女ルクレツィア、次男ファウストにございます」
お父さまに名前を呼ばれ、改めましてのカーテシー。
「アンジェロにございます。
本日は、王妃陛下、並びに王子殿下に拝謁賜り、幸甚の至りに存じます」
お兄さまが三人を代表してご挨拶をいたします。
「ルクレツィアにございます」
「ファウストにございます」
わたくしとファウストは以下略、という感じで、ここまではお作法どおりでございます。
これを一家族ずつすべてやり取りしなければならない王族は大変でございますわね。
ジェメッリ家が特例で省略されるのも頷けますが、本日はガラッシア家と十二貴族、さらに王家に覚えめでたいその他の侯爵家、伯爵家まで招待されておりますから、この後の行列は人気のアトラクション並みです。
わたくしやはり、どうしたって王族の一員になりたいとは思えません。
「固苦しいのはここまでにいたしましょう」
続く王妃様のお言葉で、しばしの歓談タイムになるのは段取りの内のひとつなのですが……。
「あぁ、エレオノーラ様、本日もなんてお美しいの……はぁぁ、眩し過ぎて心が洗われます……」
尊い、尊い……、とまるで推しアイドルか神様にでも会ったかのように王妃様がお母さまを拝みはじめました。
(????)
王族らしい威厳を保っていたのが嘘のように、王妃様のご様子がおかしくなりました。
先ほどまでこの場の誰よりも高みにいらしたはずなのに、王妃様はエレオノーラお母さまに跪きそうな勢いです。
お父さまもお母さまも、そしてお兄さまも何でもないような顔をしており、諌める方もいらっしゃらず、まさかこれは王城での日常風景?
王子殿下も諌めるどころか、こちらをチラチラと伺って顔を赤らめているばかりです。
「ソフィア様、本日もご機嫌麗しゅう存じます」
お母さまに縋りつきそうでそうはせず、行き先なくさまよっていた王妃様の手を、当のお母さまが掲げるよう引き寄せて、包み込みました。
「あぁぁっ、なんてもったいない……っ」
推しに神対応を受けて歓喜に震えるオタクそのものの王妃様と、そんな王妃様を見つめニコニコと微笑んでいらっしゃるお母さま……。
王妃陛下は温厚なお人柄だと思っておりましたけれど、今後、お母さまの仰る「とても良い方ですのよ」「昔から善くしていただいているの」という言葉は信じないようにいたしましょう。
「陛下、そろそろ気は済みましたか」
言葉にならない悲鳴をあげ続けている王妃さまに、静かにお父さまが静止の声をあげました。
「公爵、もう少しだけ……」
「ダメですね。減りますから」
お父さまにすげなく断られ、王妃様はしゅんとなさりました。
ですが繋いだ手を放すご様子はないので、おそらくこのままお話は続けられるのでしょうか。
「先週も確か王城のお茶会に呼びつけて、同じことをなさっておいでだったと記憶しておりますが」
「一週間も前のことですわ!それから今日までずっとエレオノーラ様にお会いできなくて、
そう悲壮感を漂わせて訴えながらも、執拗にお母さまの周囲の空気を吸い込んでいらっしゃるのは、本当にこのステラフィッサの国王妃様なのでしょうか。
どういう表情でこのやり取りを眺めていればよろしいのかがわからなくて、お兄さまの様子をこっそり伺います。
(さすがお兄さま!揺るがない微笑のままですのねっ)
そこには何の感情もないような気がいたしますが、おそらくそんなことに気付けるのは家族だけですわね。
ふと、お兄さまの目線がこちらに向きました。
瞳に苦笑を浮かべ、わたくしとファウストにアイコンタクトを送ってくれました。
ここは、多少気を抜いてもいいところなのでしょう。
ファウストはファウストで、例え戸惑っていたとしても普段からあまりお顔に出しませんから、お人形のように涼やかな表情のままですが。
「は、ははうえっ」
大人たちの他愛ないやりとりに、果敢に割り込んだ方がいらっしゃいました。
もちろん、王子殿下ですわね。
上擦った声に、ソワソワと落ち着きなく、王妃様、お父さま、お兄さま、そしてわたくしにと視線が移ろいます。
「わたしにょ、の、ための、交流の機会ではなかったでしょうかっ」
(にょ)
噛みそうになりながら、必死で取りつくろう王子殿下の様子は、少し可愛らしいと思ってしまいました。
「まあエンディミオン、ごめんなさい、そうでしたわね。
あなたもルクレツィア嬢ときっとお話しなさりたいと、母もわかっておりましてよ」
(ひえっ、名指しされてしまいました)
お母さまへの隠さない愛情表現から、わたくしへ標的を変え、王妃陛下の、何かスイッチが入れられたのがわかりました。
(王族って、
わたくしの怯えを感じとって、お父さま、お兄さま、ファウストがそろって少しずつ距離を詰め、わたくしの防御陣形に入りました。
「殿下は、ファウストにも会いたがっておいででしたね」
お兄さまの攻撃。
まずは話題の矛先をファウストに逸らします。
「ああ、そうだ、次男のファウストが作っているもので、陛下に是非ご覧に入れたいものが」
と、お父さまが王妃陛下に見せたのは、ファウストが最近試作した
「これは!」
「あら、
先日、旦那様に撮っていただいたものですかしら」
ごく自然に振り返ったお母さまのお姿ですが、
畳みかけるような連携プレー。
王妃様は奪うような勢いで写真をお父さまの手から受け取りました。
「エレオノーラ様からいただきました品質の格段に上がった
そっと写真を侍従に渡すと(自然な流れで王妃様のものになりましたわね)、王妃様はファウストに詰め寄りました。
「絵画とは違いますわね?どのようにしてあれを?」
「光魔法と時間魔法を掛け合わせた魔石を専用の機械に組み込み、実際に起こっているその瞬間を特殊な紙に焼き付けて写しています」
表情をひとつも変えず、淡々とファウストは説明をしますが、かなり高度な魔法技術が魔石から機械、紙の作成にいたるまで使用されております。
口頭のこんな簡単な説明だけでは再現が不可能なことが分かっておりますので、公の場でもこれくらいの情報が開示できるのです。
「実際に、起こっていることを……」
噛み締めるように繰り返した王妃様の目はとても真剣です。
「これに、色は付きますの?」
「はい、陛下。そうなるよう研究を重ねているところです」
まるで明日にでも完成しそうな平坦な調子で、ファウストは即答しました。
「素晴らしい……とても素晴らしいですわ……。ファウストでしたね。ぜひこれからも研究を続けてください。
私個人からの援助も申し出たいほどです」
「もったいないお言葉です」
ガラッシア公爵家三兄妹の商会に、あっさり王妃様というスポンサーが付きそうです。
「ファウスト、わたしにもアレは写せるだろうか?」
意外にも、王子殿下まで写真に食い付きましたわ。
「はい、王子殿下。
試作機のためまだ一台しか出来ておりませんが、誰が手にしても使えるよう設計しています」
「今度、アンジェロとともに王城に来てはもらえないだろうか。その、試作機を持って。
……それから、ルクレツィア嬢も、どうだろうか。ぜひ貴女を写してみたい」
あら、あらあら、うまく王妃様をかわせたはずでしたのに、王子殿下がストレートに反撃なさってきましたわ。
大きな瞳が、必死にこちらに訴えかけるように見てくるものですから、うっかり情が湧きそうです。
何かに似ています。
やはりあれですかしら。
(王子殿下の犬みがすごいですわ)
ワンコ属性の王子が、この乙女ゲームのメイン攻略キャラクターなのでしょうか。
お兄さまが正統派の貴公子然としておりますから、ここはあえての親しみやすい王子殿下のキャラ設定、という考え方もできますわね。
「エンディミオン、なんて良い提案ですかしら!
アンジェロなら王城にも慣れておりますから、今度来る時は是非二人を連れていらっしゃい。
ルクレツィアさん、これからエンディミオンと仲良くしていただけるかしら?」
(あぁっ、余計なことを考えていたら、王妃陛下も盛り返してきてしまいましたわ!)
王城を訪ねる習慣を作り、婚約までの道筋を築かれたような気がします。
どのようにお応えすればよろしいのか、王子殿下の期待の眼差しに肯定も否定もできず、わたくしはお父さまを見上げます。
お父さまは、わたくしを安心させるような鷹揚な笑みを湛えてから、王妃陛下に向き直りました。
「それは願ってもないことです。娘は少し内向的なところがありますから、殿下のような方に是非ご友人になっていただけたら」
すごいですわ、お父さま。
こんなに含みも何もない、真っさらなご友人の仰りようがありまして?
それ以上に決して成りようのない、力強い響きがございました。
文面だけで見れば、貴族らしい言い回しによる婚約の打診に、それに応じたような文脈にすら感じられるのに、それらをすべて撥ねつけてしまっているのです。
「どうだいルクレツィア?
王子殿下のご友人など、とても光栄なことだよ」
お父さまが畳みかけます。
それでしたらわたくしも、全力で肯定するだけですわ。
「まぁ、わたくしが殿下のお友だちですか?
とてもうれしく存じます」
それこそ、お父さまとは違った方向で、純粋無垢な、自然そのままのお友だちです。
ふわふわの空気感はそのままに、踏み込ませない神聖さで完全ガードに成功です。
「そうですわ、お父さま。
ベアトリーチェ様もご一緒ではいけませんか?」
「アクアーリオ侯爵令嬢かい?」
「はい。わたくし一人だけでは、お城でのマナーなどまだまだ心細く存じますから、ベアトリーチェ様もご一緒に殿下のお友だちになってくださいますと、うれしいのですけれど……」
女性のマナーのことですから、お兄さまやファウストでは筋が違います。
それに異性の頭数が増えれば、わたくしが王子殿下の下に赴く特別感が減らせましょう。
わたくしは内向的な娘らしく恥ずかしそうな表情を浮かべ、王妃様と王子殿下を窺いました。
多少、王子殿下には毒かもしれませんが、少しの犠牲で最大の効果があるのなら、出し惜しみはいたしません。
「如何ですか、陛下」
「侯爵令嬢もですか……」
「ソフィア様、オルネッラの娘ですから、とても良い子ですのよ」
「エレオノーラ様がそう言うのでしたら、後ほどアクアーリオ侯爵にもお話をしておきましょう」
お母さまの援護に、王妃陛下の答えははっきりしておりました。
エレオノーラお母さまのすごいところは、これがわたくしの婚約回避のための計算ではなく、天然の立ち回りというところです。
「アクアーリオ侯爵令嬢は、アンジェロの自慢の婚約者だったね。もちろん仲良くしたいが、わたしは婚約者のいない身だから、アンジェロに遠慮をしなくてはいけないだろうか」
王子殿下の発言に含まれる色を消しにかかったお父さまとわたくしに、王子殿下は新たな仕掛けをしてきました。
(案外めげませんのね、王子殿下)
ベアトリーチェお姉さまのお名前を出したわたくしの落ち度かもしれませんが、「婚約」という話題に舵を切られてしまいました。
ワンコだなんて思っておりましたけれど、本来、かなり明晰な方なのかもしれませんわ。
「遠慮など、わたしとともに、婚約者とも仲良くしていただきたく存じます」
お兄さまがどうにかそれ以上の流れを作らないようにガードしますが……。
「エンディミオン、貴方も早く婚約者を持てればよろしいのですわ。
どなたか素敵なご令嬢がいらっしゃれば、貴方から声をかけて差し上げてもよいのですよ?」
ねえ、ルクレツィアさん、と王妃様が獲物を定める目でわたくしを見てきました。
(王妃様の会心の一撃ですわ!)
茶化してはおりますが、わたくしの背中には冷たい汗が伝っておりました。
本来、王家から貴族の結婚は、家同士の契約です。
当主やその意向を含んだ者が腹の探り合いを経て内々定を進め、段取りがついたら改めて正式な話し合いの場を設け、決まりごとを文書にまとめ公的に国に届出て、審査を受けて認められることで、はじめて婚約が成立します。
これは、位の上のものから一方的に理不尽な婚姻関係を結べないようにという、下位貴族保護のための制度でもあります。
とりわけ王族が強権を発動して、気に入った貴族家のご令嬢を自分勝手に召し上げることができないようにするためのものだと、お父さまから伺いました。
ですので、内々定を進めようにも、ガラッシア家当主であるお父さまがのらりくらりと打診をかわし続ければ、わたくしの婚約は誰とも進められないのです。
いくら王家といえど強引にわたくしを王子殿下の婚約者に据えることはできず、どうにか外堀から埋めようという動きがあったらしいのを、今日までお父さまが跳ね除けていたようですが、いよいよ王妃陛下が、爆弾を落としてくださいました。
要は、公の場で、「子供同士の口約束」という形の既成事実を作ってしまおうという魂胆のようです。
ここで王子殿下がわたくしに婚約を申し込み、わたくしが頷いてしまえば、婚約は成ってしまうでしょう。
まして公衆の面前で、王家に恥をかかせるようなことをガラッシア家がするのか、というところまで見越していらっしゃるような気がいたします。
(こんなことになるのではとは思っておりましたけど、本当に王族って怖しいですわね……)
シナリオの強制力なのか、それとも王妃陛下の手腕を称えるべきでしょうか。
わたくしの心のチベットスナギツネは、ルクレツィア本体の動揺を宥め、冷静に状況を判断します。
元のシナリオがわからない以上、どんな破滅が待ち受けているのかもわからないのですもの、せめて婚約回避だけは成さなければなりません。
こういう展開も想定しておりましたから、もちろん対応は考えております。
王妃様に話を向けられ、わたくしはそれはもうニッコリと、お母さま由来の笑顔を浮かべました。
「まぁっ、王子殿下からお声がけいただくなど、きっとその素敵なご令嬢にとっては幸運なことですわね」
「そう思うだろうか」
わたくしの華やいだ応えに王子殿下は期待を大きくしたようで、勢い付いてこちらへ一歩前進されました。
(あぁ、申し訳ありません王子殿下。
その先を言わせるつもりはありませんの)
ここは秘技「天然」を発動いたします!!
「王子殿下、素敵なご令嬢を見つけられた時には、ぜひわたくしにもお教えくださいね。お友だちとして、微力ながらも何かお力添えさせていただきたいですわ」
空気を読まず、言葉の裏があるとも知らない顔をして、自分のこととはカケラも思わない善意一〇〇パーセントの気持ちで「貴方の恋を応援します」という無邪気で残酷な宣告をいたしました。
貴方の恋を応援する、ということは、貴方のことをこれっぽっちも異性として意識していないですよ、ということと同じことになります。
そしてわたくしは、これをお友だちの恋のお手伝いができることを純粋に喜び楽しみにする
(あらら……王子殿下がわかりやすく固まってしまいましたわ)
勇気を持って何かを言いかけていたのでしょうけれど、先手を打ったわたくしの勝ちですわ。
(まぁ、お顔を見ただけで落ちた恋など、ヒロインが現れた時にあっさりと反故にされそうですもの、そんな不誠実な告白自体、受けたいとは思いませんわね)
まだ幼いうちにこんな振られ方もないでしょうけれど、淡い初恋は淡いまま、消えてしまうのがお互いのためと存じます。
「……ルクレツィア嬢、貴女は、貴女もまだ婚約者はいないのだろう?
どんな相手が理想だろうか?」
(あらあら、本当にめげない方……必死な様子は可愛らしいですけれど)
そう、可愛らしいとは思うのです。
けれどその可愛らしいは、あくまで、幼い子どもを見ている感想でしかないのです。
精神年齢が三十路+αなもので、さすがに八歳に恋人としての魅力は感じられません。
前世に少年趣味はなかったようです。
「わたくしの理想、でございますか?」
先ほどの一言で一気に消沈した王子殿下の最後のあがきと申しますか、未来に繋がる蜘蛛の糸を掴もうという必死さを感じる問いかけに、わたくしはお父さまを見上げました。
(申し上げてよろしいのかしら?)
この問いに持つ答えは、ひとつしかありません。
これを公に言うことに躊躇いがないわけではございませんけれど……。
お父さまは、眩いばかりの笑顔で強くわたくしに頷いてくださいました。
なんとなく、隣でお兄さまがため息をついたような気がいたします。
ニコニコと笑顔を絶やさないお母さまと、人形のように表情が変わらないファウストが何を考えているのかはわかりませんが、お父さまが「良い」と仰るなら、きっと大丈夫なのでしょう。
「わたくしは、お父さまのような方が理想ですの」
恥ずかしそうに頬を染めて、わたくしはここ一番にはにかんでみせました。
月のようなお父さまに、太陽のような王子殿下。
正反対のタイプですわね。
まして世界一美しいお父さまですから、王子殿下は、わたくしのためにそこまでに至る覚悟はございますかしら?
「またガラッシア公爵なの……」
王妃様は、何かこのやり取りに既視感を覚えたらしく、一度お母さまを見て、それから深くため息をつきました。
王子殿下は、わたくしの表情に一瞬気を取られたものの、言葉の内容が咀嚼できた瞬間にお父さまを見上げました。
それにお父さまは勝ち誇ったように(わたくしにはそう見えました)悠然と微笑み返し、王子殿下に足りない何もかもを示して見せるようでした。
おとなげない、とは申しません。
だってこんなに美しくて全てを持っているというのに、娘の愛情すらも必死で勝ち得ようとする可愛らしいヒトなのですもの、八歳の殿下が敵うはずもありません。
「公爵の、どのようなところが……」
そこまで食い下がっていただけるのですか?
王子殿下、少しだけ見直しました。
けれど。
「どのような、と申されましても……困りましたわ……。考えたことがございませんでした。
ずうっと、お父さまとお母さまのようになることに憧れておりますから、結婚するのならお父さまのような方、と決めておりますの」
強いていえばそのすべて、なのですけれど、さすがにそこまで言い切ってしまうと外聞が悪いですわよね。
王子殿下が蜘蛛の糸さえ掴めないよう、わたくしの答えはひどく曖昧なままですが、そのくせ意思は固く、はっきりとしておりますから、「そうか……」と王子殿下はすっかり肩を落としてしまいました。
「そろそろ、お時間でございます」
そう年老いた侍従が王妃陛下に伝えたのは、わかりやすく落ち込んでしまった王子殿下への助け舟だったのでしょうか。
これ以上不憫な姿を見るのが忍びない、という思いもあったかもしれませんわね。
もちろん、謁見待ちの行列はわたくしたちが先頭ですから、これ以上の長居もご迷惑になります。
この後、大人と子どもに分かれた社交の時間が設けられているため、わたくしたちは「
「それでは、御前を失礼いたします」
侍従に促され、またお作法どおりに戻ったわたくしたちは、お父さまのご挨拶を合図にその場を辞しました。
*
(ふう……とりあえずの危機は去りましたかしら?)
第二庭園の東屋に腰を落ち着け、わたくしは緊張を解きました。
王子殿下のめげなさは少々驚きましたが、あそこまで言えば諦めてくださいますでしょう。
それを天然を装ってやり通した自分を誉めてあげたいくらい。
王家との関係に角が立つのは望みませんし、お父さまが婚約を頑なに避けるのは、ちょっと浮世離れしている娘可愛さと温かく受け入れられれば重畳です。
「ねえさま、大丈夫ですか?」
先ほどまでピクリとも動かず、お人形のようだったファウストのお顔に、こちらを慮る表情が浮かんでいます。
ファウストもこう見えてかなり緊張していたのだと思います。
それでもわたくしのことをずっと気遣ってくれていたのです。
「ファウストがいてくれましたから、平気です」
隣に座るファウストのシルバーブロンドを撫ぜると、やっぱり喉を鳴らす猫のような顔になります。
これは家族にしか見せないお顔なのだわ。
肩で切り揃えた癖ひとつない真っ直ぐな髪は、ガラッシア家のふわふわの髪質の中では異質ですけれど、王妃陛下、王子殿下への受け応えは堂々としており、血の繋がりのないこと、元の子爵家の血筋への中傷が実はそこかしこで囁かれていたのですけれど、そんなものは決して彼の品格を損なうものではございません。
「二人とも、とても素晴らしい振る舞いだったよ」
お父さまにも褒められて、ファウストは嬉しそうです。
「あの写真というものもソフィア様にとても気に入っていただけましたから、本当にファウストちゃんはすばらしいわ」
お父さまに同意しながら、お母さまも感極まったように目元が少しだけ潤んでおります。
「そのお話ですが、やはり一度は二人を殿下の元にお連れする必要がありますね」
婚約話はほとんど核心にもならないうちに打ち消しましたが、その
「それはベアトリーチェお姉さまもごいっしょですよね?」
「勝手に彼女の名前を出して、気を悪くしないかな」
「わたくしもいっしょに謝りますから、やはりお願いできませんでしょうか……」
不安げな顔をすれば、アンジェロお兄さまが断ることはありません。
言葉を尽くして、ベアトリーチェお姉さまにお願いいたしましょう。
「それだけどね、ティア」
お父さまは何か良いことを閃いたように、わたくしに提案しました。
「もう少し人が多ければ、ティアも安心するのではないかな?」
「?」
「ティアは友だちを欲しがっていただろう?
だから、もっとたくさんのご令嬢に、エンディミオン殿下のお友だちとして王城に上がってもらうんだよ」
「リチェお姉さまのほかに、わたくしにもお友だちができますの?」
「そうだよ。お父さまに任せておきなさい」
王子殿下のお友だちが、わたくしのお友だちに?
お父さまの仰ることは雲をつかむようでよくわかりません。
それでも任せておけと仰るのですから、良いようにしてくださるのでしょう。
(お父さまのこういうところが、理想といえばいちばんの理想ですわね)
わたくしの幸せを願って、すべてに優先して、力の及ぶかぎり叶えてくださろうとする包容力。
わたくしが娘だからそれは当然なのかもしれませんが、お母さまには、ただひたすらの愛でそれをなさるのです。
(そんなふうに愛してくださる方が、わたくしにも現れますかしら)
王子殿下は、わたくしをいちばんに優先させることはできません。
ステラフィッサ国そのものが、彼のいちばんでなくてはならないのです。
(気の毒といえばそうなのでしょうけど、王子に生まれついたものの宿命ですわね。
あとは巫女様がいらっしゃれば、きっと救ってくださいますわ)
柴犬のようなあどけなさでこちらを見つめたエンディミオン殿下のファイアオパールの瞳を思い出しました。
AでもBでもCでもなく、エンディミオン殿下はきっと良い方なのだと思いました。
薄らと申し訳ない気持ちでいると、お母さまの優しい手がわたくしの頬に触れました。
「ティアちゃんは、本当に王子殿下のお嫁さんにならなくてよかったのかしら」
なんでも見通しているような、深く青い瞳が注がれます。
お父さまの宙色に続くような、遠く果てしない青。
「わたくしは、お母さまみたいに愛されたいのですもの」
意地を張る子どものような口振りになってしまいましたが、お母さまは笑って頷いてくださいました。
「それでしたら、今日これからの出会いが素敵なものになるように、おまじないをしてあげますわね」
そう言って、わたくしの額に口づけをくださったお母さまのなんて圧倒的な女神力。
本当に何某かの加護が宿っていそうです。
これから、王妃陛下と王子殿下への謁見の済んだ他家のご令息、ご令嬢がこちらの庭園に続々とやってきますから、その中でも上手に立ち回れるよう、幾許かの勇気をいただけたような気がいたしました。
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