四
「もうすぐ王妃様主催のお茶会ですわね」
ベアトリーチェ様はそう言うと、落ち着かない素振りで紅茶のカップを抱きしめるように両手で握り込みました。
お作法的にはあまり誉められないのですけれど、普段、完璧な淑女たらんとするベアトリーチェ様からは考えられない様子が可愛らしくて、わたくしも真似をして同じようにカップを持ち上げました。
ガラッシア家のたくさんある応接サロンのうち、公式に使うものではなく、小さなものですが身内しか招き入れない「
あれからわたくしは順調にベアトリーチェ様との仲を深めており、今では二人きりでお茶やお喋りを楽しめるほどにまでなりました。
ベアトリーチェ様は思ったとおりの真っ直ぐな方で、アンジェロお兄さまの婚約者として相応しくあろうと、日々努力を怠らず、頑張りすぎるところのある方でした。
オトメゴコロを猛勉強中のお兄さまも、そんなベアトリーチェ様に心を砕いており、お二人の仲はかなり睦まじい様子です。
オルネッラ様とベアトリーチェ様はお二人でよく我が家を訪問してくださるようになりましたが、お兄さまは王城や商会の工房へ赴いていることも多くあるため、お兄さまがお帰りになるまでは、わたくしが代わりにベアトリーチェ様のおもてなしをするのが日常ですの。
普段はお母さまやオルネッラ様もご一緒ですが、本日は冒頭のベアトリーチェ様のお言葉どおり、間もなく開催される王妃様主催のお茶会──第一王子エンディミオン殿下のために広く同世代の子息令嬢を招待するお茶会ですわね、のためにわたくしたちのドレスを誂える準備でお忙しい様子。
わたくしのはじめての王城デビューでございますし、ベアトリーチェ様はアンジェロお兄さまにエスコートされるはじめてのお茶会となりますから、かなり気合いが入っているようで、熱の入るお二人について行けずに、ベアトリーチェ様とわたくしは早々に抜け出して参りました。
けれどベアトリーチェ様はお茶会のことを考えるとすでに緊張してしまうらしく、いつもの落ち着いた振る舞いがウソのようにそわそわとしております。
王城への正式な招待に、というよりは、やはりお兄さまの婚約者として、のほうに意識が向かわれているようです。
(とても可愛らしいわ、ベアトリーチェ様!)
恋する乙女のお顔をしております。
お兄さまはお父さま譲りのあのお顔ですから、エンディミオン殿下を主役とした会だとしても、かなりのご令嬢から注目されるはずです。
そのお隣で、堂々と胸を張って、お兄さまはベアトリーチェ様のものであることを主張すればよろしいのですわ!
日頃の努力も見ておりますもの、万難なく無事にお役目を務めることができると思います。
ベアトリーチェ様の可愛らしいお顔を眺めつつ、わたくしはお作法を無視したまま紅茶をこくりと飲み干しました。
恋するオトモダチの表情を堪能しながら飲むお茶のなんて美味しいこと!
そばにはドンナとベアトリーチェ様の侍女のアルマが控えておりますが、テラスへの窓を大きく開け放し、初夏の気持ちのいい風に吹かれ、抜けるような青空と庭先に整えられた花々を見渡していると、少しくらいお行儀が悪くても大したことはないという大らかな気持ちになるようですわね。
「……ティア様は、王城にいらっしゃるのははじめてですのに、緊張したりしませんの?」
あまりにわたくしが落ち着いているからか、ベアトリーチェ様はご自分の態度を恥じいるように聞いてきました。
「緊張をしているのかどうかはわかりませんけれど、ドキドキはしておりますわ」
わたくしはほわほわと笑いながら答えました。
最近のわたくしは、できるだけ天然を装おうようにしております。
わたくしの内面が突飛なことは重々自覚しておりますから、その心のままに振る舞えば、かなり変わった子という目で世間からは見られてしまいます。
ガラッシア公爵家の令嬢としてそれは避けたいところなのですが、かえって優秀だったとしても、王子殿下の婚約者候補として株を上げるだけになりますし、なかなかこの塩梅というのが難しいのですわ。
ですから、所作はお母さまを見習って、一際美しく見えるように訓練をしましたが、お話しをすると、ちょっとこの子ずれてるわ、と思っていただける微妙なラインを狙っておりますの。
浮世離れしていると思われれば、この外見も相俟って、本当に妖精かなにかと認識していただけないかしら。
妖精に
「王子殿下とのご婚約のお話しもあるとうかがいましたわ」
そんなわたくしの思惑は知らず、ベアトリーチェ様が直球を投げていらっしゃいました。
ドキドキ、の意味をそういう方向へ結びつけましたのね。
やはりご自分が恋をしていると、ものごとをこじつけて話したくなるのかもしれませんわ。
「わたくしもよくは聞いておりませんのよ」
ベアトリーチェ様の問いかけに、わたくしは眉尻を下げた困ったような顔で笑ってみせ、首を振りました。
これは本当ですの。
明確に、今回の王妃様のお茶会で王子殿下に拝謁し、婚約者に決まるとは誰からもうかがっておりません。
ただなんとなくそんな空気がある、といいますか、正直全体の流れがそのように動き出しているようで、お父さまがピリピリしているのです。
アンジェロお兄さまも、それとなく殿下の話題を出してわたくしの様子を窺う素振りがあり、わたくしはそれにまったく興味を示さずにお父さまのご機嫌をとるほうに心を注いでおります。
「殿下はお父さまに似ておりますの?」
その一言で大体解決です。
この世界一、いいえ宇宙一素敵で美しいお父さまに似ている人物がいたとしたら、それはおそらく将来のアンジェロだけです。
「殿下は今度八歳になられるところだから、ティアが思うほどには私には似ていないだろうね」
容姿どころか振る舞いでさえ、お父さまに近づくこともできていないということを、お父さまご本人が上機嫌に教えてくださいます。
「そうですの」
それでわたくしの関心がすっかり消え失せていく様をみて、アンジェロお兄さまもそれ以上は何も言えなくなります。
「ティアは相変わらずだね」
と、仕方のないものを見る目で眉尻を下げるだけです。
いくら天然を装っていても、この点については昔からぶれずに一貫しております。
正直このままだと王子殿下どころか誰とも婚約、結婚できずに終わってしまう可能性すら出て参りますが、そのあたりも少し考えがございますので、時期が来たらファザコンの第二形態に入ろうと思っております。
「リチェお姉さまは、王子殿下にお会いになったことがあるのでしたわよね?」
「ええ、アンジェロ様との婚約が決まる前に、一度だけお父さまに連れられてお城でごあいさついたしました」
高位貴族の中でも、ガラッシア家を含めた公爵家は現在三家、そのほか十二貴族と呼ばれている侯爵家、伯爵家各六家の子息令嬢は、子沢山のジェメッリ伯爵家を除いて全員が一度は通る道です。
十二貴族は、ステラフィッサ王国でもとりわけ由緒のある、ステラフィッサ建国に大きく貢献した特別な家柄でございます。
アクアーリオ侯爵家、ビランチャ侯爵家、リオーネ伯爵家、そしてお母さまたちの生家もそうですので、わかりやすく攻略対象や登場人物を輩出してくれる役割という理解でほぼ正解のような気がいたしますわね。
同世代の王子殿下や王女殿下がいらっしゃれば、まず一度非公式に王城を訪れ、相性を見て、世代が変わった際の組織図を測るのが目的でございます。
見事当選したお兄さまが王城へ通っているのもその延長上、すでに概ね組織図は出来あがっているのです。
最後に、「婚約者」のピースがはまれば完成。
ベアトリーチェ様は、すぐにアンジェロお兄さまの婚約者に決まったのでそのピースから外れ、一度きりのご挨拶となったのでしょう。
わたくしは、本来の流れを避けに避け、このたびの王城デビュー。
まるでわたくしが来るのを待ち受けているかのように、未だその椅子は埋まっておりません。
(この三年のうちに、
内心舌打ちしておりますが、ベアトリーチェ様の前ではそんな姿見せられませんわね。
「お茶会に参れますのは楽しみですのよ。
今回はファウストといっしょにはじめての登城ですし、お兄さまがお城のお庭はどこよりもすばらしいとおっしゃっていたから、ぜひ拝見したいと思っておりますの」
さんざん行き渋っていたことはおくびにも出さずに、憧れのお城に思いを馳せるようにわたくしは頬を染めました。
しかしこの言葉のあとに「でも……」と続くのです。
「ティア様は、ガラッシア公爵様のような方が理想なのですものね?」
ベアトリーチェ様はすべてわかっているように先を繋いでくれました。
王子殿下の婚約者になるなんて、多くの貴族令嬢の憧れでしょう。
お互いの恋バナで華やいだ会話になればと、ベアトリーチェ様も話題にされたのだと思います。
けれどベアトリーチェ様もお兄さまと婚約しておりますし、お父さまがわたくしたちのお茶会に交じることもございます。
ですので、ガラッシア家の男性よりも素敵な殿方がこの世に存在するものかしら、という疑問をわたくしと共有してくださっているのです。
ベアトリーチェ様のお父さまのアクアーリオ侯爵も素敵な方だとは思いますが、もはや次元が違うと言わざるを得ません。
日常的にそばにいる男性のレベルがお父さまとアンジェロ、ファウストですので(使用人は数のうちには入れませんわ)、どうしてもハードルが高くなってしまうことをベアトリーチェ様もご理解してくださるのですわ。
身内では功を奏しているこの生粋のファザコン作戦も、いよいよ社交の場に出たときにどれだけ通用するのでしょうか。
王妃様のお茶会は、本格的な社交デビューではなく、同世代を一同に会してまず互いに認識を得る機会とされています。
幼い子どもたちが公式に外に出る、はじめの一歩になるのです。
わたくしだって、はじめて会う方々ばかりになりますし、王子殿下だけでなく、ほかの攻略対象キャラも揃い踏みとなるはずです。
不安に感じていないわけがないのです。
前世の記憶を思い出してからのこの三年、いろいろなケースを考えて参りました。
正解のない問題を解くようにありとあらゆる場面を考え尽くし、いつかこの
何があってもいいようにたくさんの対策を練ってきておりますが、実際に何が待ち受けているのか、知っているのといないのとでは結果は大きく違うでしょうから。
(本当に、思い出せますかしら……)
このお茶会はどうやら不可避のようですので、王子殿下に拝謁し記憶を取り戻せるか、思い巡らせてもあとは出たとこ勝負です。
婚約が回避できるかどうかは、お父さま次第。
糸口はあるようですので、信頼してお任せしております。
「王子殿下にお会いしたのはまだ五歳になられたばかりの頃ですから、わたくしもよくは存じ上げないのですけれど、似ていらっしゃるといいですわね」
わたくしの言い知れぬ不安をベアトリーチェ様も感じとって、そんな風に励ましてくださいました。
(リチェお姉さま……なんてお優しい……。
例えそうでも、王子殿下とだけは婚約しないのですけれど……)
心の声は見せず、わたくしは曖昧に笑い返して、空になったティーカップにそっと吐息を落としました。
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(アンジェロ視点)
わたしの妹は、世界一可愛いと思う。
こんなことを言うと兄の欲目と笑われるかもしれないけれど、それでもわたしの妹は、ルクレツィア・ガラッシアは世界一可愛い。
わたしたち兄妹は、幼い頃は一対の人形のようだった。
同じプラチナブロンドにサファイアの瞳を持ち、手をつなぎながら歩いているだけで、神話画から飛び出してきたようとよく褒めそやされた。
成長するにつれ、わたしは父に、妹は母に、それぞれ少しずつ似てきているが、世界一美しい公爵夫妻と吟遊詩人までもが歌い歩く両親の血統を正しく受け継いでいる。
正直なところ、自分の容姿について特筆したいことはない。
唯一、婚約者に嫌われないのならそれだけでいい。
それに、父上と母上を見ていれば、外側の良さは彼らの魅力の一部分でしかないことがわかるから、父上や母上のようになろうと思えば、いくら努力をしてもし足りないとさえ思っている。
けれど、妹を見るたびに、なんて可愛らしいのだろうと毎回感心してしまう。
もう少し幼い頃は、こちらを困らせるようなワガママやお転婆もあったけれど、「仕方ないなぁ」と笑って許してしまえる天真爛漫な愛らしさだった。
そうしてわたしの婚約者と交流を持つようになってからは、小さなレディの身のこなしを覚え、天界に住うという精霊のような聖なる可愛らしさに変わりつつあった。
それでもわたしやファウストに笑いかけ、父上や母上に甘える姿はわたしたちの可愛いルクレツィアのままで、庭先の花で戯れていれば花の妖精だし、太陽の下で笑っていれば光の妖精になり、夜の
そんな妹の噂が、人々の口の端にのぼることは至極当然のことなのだろう。
*
その日、いつものように王城へ赴き、エンディミオン殿下の元に参じると、殿下はわたしの顔を見るなり問いかけてきた。
「今度のお茶会には、アンジェロの妹、……と弟も来るのだろうか?」
とってつけたように弟も問いかけに加えたが、どうやら殿下は妹のルクレツィアのことが気になるらしい。
エンディミオン殿下の遊び相手として登城するようになり三年、最近では剣術や乗馬などの稽古にお付き合いすることが多くなった。
出会った頃のわたしの年齢を超してもうすぐ八歳になられる殿下は、少しずつ幼さがなくなってきたが、それでもわたしを兄のように慕ってくれる素直さを残したまま、今もファイア・オパールの大きな瞳がわたしを頼るように揺れている。
「ガラッシア家の息女が未だに王城に参じていないなど、殿下の面目を潰すつもりかって、おじさんたちは声が大きいから、殿下の耳にも入っちゃったんだよね」
そう殿下の問いかけの真意を補足してくれたのは、外務大臣スコルピオーネ侯爵子息のフェリックスで、わたしと同じ年に生まれ、殿下のおそばに侍るようになったのも彼と同じ時期だった。
垂れ目がちなスピネルの瞳の目元にある黒子が、「困るなぁ」と続いた彼の言葉の裏側にある「面白くなってきた」という享楽的な本音を明かしている。
「婚約者候補の筆頭だろう。さっさとご挨拶に来ないから、殿下も不安に思われるんだ」
少し当たりが強いのは、ビランチャ宰相子息のシルヴィオ。
年はひとつ下だけれど、意思の強い翡翠の瞳を眼鏡の奥で眇め、年上のわたしやフェリックスにも忌憚のない意見をしてくれる。
「なるほど……。
妹も弟も、お茶会には参じさせていただきますよ」
いちおうの納得を見せて、わたしは殿下の問いにだけ答えることにした。
公爵家三家と十二貴族の同年代の子息令嬢で、殿下にご挨拶できていないのはルクレツィアとファウストだけだ。
ルクレツィアはあの可愛らしさだから、少し目を離した隙にすぐにでも連れ去られそうだと、父上も母上も大事に仕舞い込んでいる節がある。
本人も王都の邸からはあまり外には出たがらないから、無理強いをしてまで王城に連れて行こうとは思わないらしく、本人の意思を尊重していた。
オフシーズンに帰るガラッシア領内では、外出しても楽しそうにしているから、王都の空気が合わないのかもしれない。
ファウストもそんなルクレツィアに倣うようなところがあるから、商会の仕事以外では邸から出ることがない。
わたしはガラッシア公爵家嫡男としての立場があるから、必要に応じて父上に連れ出されることが多く王都にも馴染んでしまったけれど、王城に棲まう
それにしてもフェリックスもシルヴィオも、殿下はかろうじて気を遣いファウストも話題にしてくださったというのに、まるではじめからルクレツィアの話しかしていないような発言はどうなのだろう。
とても失礼ではないかな?
ファウストも、わたしの可愛い可愛い弟なのだから。
「そうか、それならばよかった。
わたしはファウストに会うのも楽しみにしているんだ。
先日、一瞬だけ顔を見せに来たジョバンニが何だか彼の話をしきりにしていたから」
何も言ってはいないけれど、殿下のファウストへのフォローは続く。
気遣わしそうにこちらをうかがっている気配すらある。
「……そういえば、今日はジョバンニはどうしてる?」
殿下の発言で何かに気がついたらしいフェリックスが、目を泳がせて話題の転換を図り、
「聞くだけ無駄だろう」
とシルヴィオもわたしの顔を見ようとしない。
「ジョバンニなら、今日もわたしの弟のところへ足繁く通っているようだったけれど」
思わず声が低くなってしまったわたしに、二人はそろって黙してしまった。
ヘタに誤魔化そうとしなければいいものを、やはり二人の態度には指導すべきことがありそうだ。
ここにいないジョバンニとは、カンクロ伯爵家の嫡男だ。
カンクロ家は代々、土木、工芸、建築など、あらゆる技芸工法に富んだ家系で、王国としても彼らの知識には敬意を払っている。
カンクロ家の人々はそれぞれの興味のある分野に特化していく傾向があって、カンクロ家のおかげでこの国の発展はあると言ってもいい。
現在のカンクロ伯爵は建築に造詣が深く、各地の街の整備や領城の新築、改築、修繕に重宝されて飛び回っている。
魔石の構成やそれに関する技術にとにかく目がなく、脇目も振らずに研究に没頭している。彼は新技術などの開発にも大きな興味があるようで、先日ファウストが試作した「
家族の肖像を画家に描かせていたときに、何時間も同じポーズをさせられていたせいか、「家族のいまの姿を、もっと手軽に形に残しておけたらいいのに」とルクレツィアが言ったことからファウストが作りはじめたものだ。
絵画は時間がかかるから諦めていたけれど、ルクレツィアやファウストの成長過程をもっとこまめに残しておきたいわたしにとっても素晴らしい提案だった。
試作機では、
将来は、これに色がついて、ルクレツィアが立って歩いて笑っているそのままに、動いているところも残せるようにしたいとファウストは張り切っている。
何か役に立てればと、ジョバンニに試作機を見せて話を聞いてみようとしたところ、案の定ジョバンニはファウストに会わせろとものすごい勢いで迫ってきた。
一度会わせたら最後、彼はファウストのところに入り浸っている。
ジョバンニは本来わたしたちと一緒にエンディミオン殿下の側近候補として肩を並べているはずなのに、もともと自分の研究でほとんど王城に顔を見せることがなかったのが、最近ではガラッシア家の邸や商会の工房で、ファウストの助手のように振る舞っている姿を毎日目にする。
最初は戸惑っていたジェメッリ家の双子だけれど、ピオはすでに彼の扱いに慣れはじめている。
彼の知識の豊富さはファウストたちの助けになっているようだけれど、さすがに伯爵家の嫡男を商会の従業員のように扱うわけにはいかないから、客分として、そこで得た知識の秘密保持契約だけはしっかりとした上で、工房に出入りすることを許している。
そうしてわたしたちガラッシア家側のメンバーで見解が一致しているのは、
「ルクレツィアには会わせたくないな」
ということだ。
ジョバンニがそれを知ったなら、彼が夢中になっているとき独特の、矢継ぎ早の早口で、ルクレツィアに迫っていくのが容易に想像できてしまう。
ルクレツィアの可愛らしさに惑わされないだろうところは評価できるが、ジョバンニの言動に驚いて目を白黒させている妹はあまりに不憫だろう。
なので、ルクレツィアには絶対に会わせないという暗黙の了解のもと、護衛のイザイアを中心にジョバンニの動向は常に監視されている。
ジョバンニの前ではルクレツィアの話題は出さないことを徹底しているから、彼はわたしの妹について未だに認識していない可能性すらある。
ルクレツィアにも、ジョバンニについてとくに説明はしていない。
「いつもみたいにまくし立てて何か説明をしてくれていたんだけど、アンジェロの弟がすごい、ということだけで、結局ほかは何が言いたかったのかさっぱりだったな」
話題をもとに戻した殿下は、肩をすくめて仕方なさそうに笑ってみせた。
側近候補なのにほとんど顔も出さず、たまに来たと思ったら自分の興味のあることだけ話し散らしていくジョバンニに、それでも殿下は寛大だ。
彼の伝わりにくい早口を、いつも一生懸命に理解しようとしている。
そして殿下が、ファウストを正しく評価してくれているようなので、フェリックスとシルヴィオの失礼な態度については、今は不問にしてもいいような気がしてきた。
「それで、フェリックスとシルヴィオは、妹のことが聞きたいのかい?」
わたしが話を向けると、二人はあからさまにほっとして見せた。
別に失礼だなと思っているだけで態度には出していないはずなのだけれど、そこまで萎縮されるのは心外だ。
「あー、ほら、君の妹が殿下の婚約者になるって話。
どんな子なのか、殿下だって気になるでしょ」
「そうなのですか?」
フェリックスは軽々しく言うけれど、この問題は、かなり
娘を溺愛している父上と、そんな父上と結婚したいと言って
「まだ決定事項ではないし、そういうわけではないんだが……、母上や侍女たちが、わたしに聞こえるようにしきりに彼女のことを褒めるから」
困ったように弁解めいたことを言った。
「今回のお茶会で婚約者を決めたいという思惑は確実に動いているからな。王妃陛下は、公爵家のご令嬢を推したいんだろう」
シルヴィオの言葉にも、曖昧に笑うだけで肯定しかねている。
第一王子と結婚の約束をする相手だ。
エンディミオン殿下が立太子されることはまず間違いがなく、引いては将来の国王妃になるべく存在だから、政治的な側面はかなり重視される。
それでも殿下の気持ちも尊重したいという親心に見せかけて、世界一可愛いお嫁さんをもらいたいという王妃陛下の希望がかなり透けて見えていて、そんなにあからさまな誘導がされているのかと呆れてしまう。
「王妃陛下は、妹君と面識があるんだったか」
シルヴィオの問いかけに、その時のことを思い出してわたしはため息とともに頷いた。
王城に一度も来ていない妹が世界一可愛いとかなり噂になっているのは、公爵家の私的なお茶会に招かれているご夫人たちがあちこちで話して回っているからだ。
そんなご夫人たちから両陛下はガラッシア家の令嬢の話を聞きつけ、公爵夫妻の子どもならさもありなんと思う。
そうして数年に一度めぐってくる、公爵家から十二貴族の王都邸への両陛下の
社交デビューはまだだけれど、両陛下と両親はそれぞれ親交が深かったので、相応の気安さがあり、粗相のないように短い時間だったけれど、わたしも一緒にご挨拶申し上げた経緯がある。
そこからわたしの登城が決まり、それからルクレツィアも……という自然な流れがあったのを、本人が行きたがらないばかりに今の今まで先延ばしにされていたのだ。
「我が家に両陛下にご逗留いただいた際にね。
王妃陛下はかなり妹を気に入っていらして、お人形のようだと抱き上げていらっしゃったかな……」
そうしてそのまま連れて帰りそうな勢いでいらっしゃったのを、国王陛下が
「母上は、何かとガラッシア公爵夫人を側に置きたがるから、その延長だとわたしも理解はしているんだ」
王妃陛下は、学園時代は母上の後輩になり、「憧れのお姉様」とファンクラブを結成して会長を務めていたほど母上のことがお好きらしい。
その娘のルクレツィアを、ご自身の子どもに嫁がせたいという強い意志が伝わってくるようだ。
母上がルクレツィアの気持ちを尊重して、「あまり期待なさらないでね」とやんわり牽制しているので、無理に押し通そうとはしていらっしゃらないようだが、今回のお茶会にかけていそうな気がする。
「そこまでご執心なのに未だ決まらないのは、やっぱり公爵家側に何かご事情があるのかな?」
息を吸うように
代々外交を得意として、正攻法から諜報活動まで例え嫡男だろうと幼少期から叩き込まれるらしく、普段の軽薄に見えるフェリックスの振る舞いにも納得がいく。
今のも単純な好奇心から出た発言で、二心がないとわかっているけれど、しかし相手は選ばなければいけないだろう。
「……あ、今のはやっぱりなしにしてほしいかも……」
少しだけ片眉を動かしたわたしの些細な表情の変化に気づいて、フェリックスが小さく付け足した。
そういうわけにはいかないだろうけどね。
「どうあれ、殿下と公爵令嬢の婚約が決まりとならなければ、周囲への影響が大きいことは公爵も理解されているんだろう?」
シルヴィオが上手にフェリックスの失言を流した。
わたしの心には留め置いているけれど、ここで
「君にも、何か影響が?」
「母上がうるさいくらいだが。
公爵夫人とアクアーリオ侯爵夫人、それにあの人は、私たちが生まれる前から仲が良いだろう。
貴方とアクアーリオ侯爵令嬢が婚約しているから、本当は私と妹君を、という理想があるらしいんだが、あの人は、生家のサジッタリオ家の血が濃い。
愛は自ら掴みとるものという信念だかで、親や家同士で子どもの婚約者を決めるという概念が欠如しているから、誰かに取られる前に私に口説き落とせと言う」
心底うんざりした顔を見ると、ビランチャ侯爵夫人の声が今にも聞こえてきそうなほどだ。
「確か侯爵夫人も、一回りも年上のビランチャ宰相に、社交会デビューの日から結婚を迫り続けたという逸話があったよね」
思い出したような殿下の言葉に、「実話です」と苦々しい顔でシルヴィオは小さく返した。
「でも君、アリエーテ家のご令嬢との婚約話も出ていなかった?」
さすがのスコルピオーネ家の情報網なのか、わたしも初耳のことをフェリックスは当然のように言うが、シルヴィオも慣れているので淡々と返していた。
「それはビランチャ家の意向だな。
早いうちに婚約者は決めておいたほうが何かと都合がいいという方針だが、私もその考えに賛成だ」
「オレはサジッタリオ侯爵家の家風、好きだけどね」
「クラリーチェとペイシ伯爵家のご令嬢を天秤にかけているお前に何を言われる筋合いはない」
確かクラリーチェ嬢はサジッタリオ家のご令嬢で、シルヴィオの従姉のはず。
ペイシ家はアクアーリオ侯爵夫人の生家だから、ベアトリーチェの従妹になるだろうか。
「それも、殿下の婚約が決まるまでは保留の話なんだよね。アリエーテ家もそうだろ?」
「そうだ。どこも年頃の娘がいれば、殿下の婚約者に据えるチャンスがあるのならと様子見の状態だからな」
そこで、改めてフェリックスとシルヴィオは、殿下とわたしの顔を見た。
無言の
誰に何を言われても、父上──ガラッシア公爵とわたしの言動で、何かしら察することのあるらしい殿下は、決して婚約については自ら触れず、明言もしない。
聡く賢明な王子殿下を生涯お支えしたいという気持ちで、わたしはまだ少し物事を見る目が足りない二人に、にこやかに笑いかけた。
「わたしはベアトリーチェと婚約したけれどね」
これはなかなか、我ながら皮肉の効いた返しになってしまったかなと思う。
二人は
ベアトリーチェは、ルクレツィアに次いで婚約者にしたいご令嬢候補だったという。
そのご令嬢と早々に婚約を決めて、しかも臆面もなくわたしは彼女がいかに健気で愛おしいか周囲に語って聞かせているから、惚気ととられることも多い。
実際、惚気ているのだけれど。
二人が聞きたいのはわたしと婚約者の惚気話ではなく、ルクレツィアと殿下がどうなるのか、ということなのはわかっているけれど、この場でわたしから言えることは何もない。
手の内を明かすわけにはいかないだろう。
ルクレツィアの気持ちひとつで、まだ婚約者の決まらない二人には申し訳ない気持ちは少しあるけれど、おそらく、殿下とルクレツィアの婚約は成らない。
ルクレツィアが殿下と顔を合わせたら、もしかしたら、万に一つの可能性だけれど、気持ちが変わるかもしれないが、今のところ、父上以上の方が現れない限りは妹の気持ちは動かせないだろう。
殿下にはまだ荷が重そうだ。
ルクレツィアがそうであるかぎり、父上は絶対にそれを通すつもりのようだから、例え王妃陛下相手でも、父上は引かない。絶対に。
「とにかく、いよいよガラッシア家の深窓のご令嬢が表舞台に出て来られるんだから、状況も変わるだろう」
「殿下も、ガラッシアの妖精に会えるんですから、気合い入れていきましょ」
「気合いで、何か変わるものかな……?」
わたしから何かを聞き出そうとするのは諦めたのか、殿下に念押しをしはじめたフェリックスとシルヴィオに、どうやって
当日、何が起ころうと、殿下の優しく素直な心根だけは守り通そうと、わたしは静かに誓った。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
本日は、いよいよ王妃様のお茶会です。
わたくし、お母さまの本気を見て、ただいま少々震えておりますの。
ガラッシア公爵家にはお抱えのデザイナーとお針子がおり、彼女たちが作るドレスはステラフィッサ王国の流行をも作ると云われております。
お母さまとオルネッラ様が熱心に、それはもう熱心に彼女たちと熟考に熟考を重ねて作り上げた、わたくしの王城デビューのドレスが凄まじいのです。
もちろん、ベアトリーチェお姉さまのドレス、お母さまたちのドレス、そしてお父さま、お兄さま、ファウスト、ついでにアクアーリオ侯爵様のモーニングもすべてご用意なさったようなのですけれど、なぜだかわたくしのドレスだけが飛び抜けておりますの。
ガラッシア公爵家、アクアーリオ侯爵家でそれぞれがひと揃えだとわかる色調、形で、その中でもお兄さまとベアトリーチェお姉さまが対になっていることがわかります。
二家族そろってお茶会の会場に入場した際は、それはもう圧巻の一言に尽きる素晴らしさでしたとわたくしも誇らしい気持ちです。
ですけれど、その中でもわたくしのドレスだけデザイン性がひとり異なるのです。
一言で言い表すのはとても無理なのですけれど、とにかく、フワフワなのです。
ベルラインのスカート部分がふわりと膨らんだ基本の形に、ペールブルーのオーガンジーをこれでもかと重ねて、その上に銀糸で編んだベールが羽根のように広がり、光によって七色の虹彩を放っております。
髪型はプラチナブロンドをふわふわと巻いただけでそのまま下ろし、ベールの起点となっている花冠のようなティアラが全体の統一感を明確にしております。
イメージは、やはり妖精のようですわ。
大人っぽいベアトリーチェ様のドレスとは全く異なる、ひとり
どうしてこうなったのです。
絢爛ながらもシックな装いでまとめらている中、これはかなり目立ってしまっておりますわ。
異次元の美しさを誇るガラッシア公爵家としても充分過ぎるほど人目を引いているのに、その中でもダントツに注目を浴びてしまっております。
お母さまは、わたくしのドレスの出来栄えにとても満足そう。
そんなお母さまにお父さまも幸せそうな顔が隠せません。
お兄さまとベアトリーチェお姉さまは、お互いの装いに見惚れ、お二人の世界。
わたくしのエスコートはファウストですが、ファウストだけがわたくしの心に寄り添うように、こちらを気にかけて手を繋いでくれております。
だってなんだか、やっぱりわたくしだけ浮いておりません?
他のご令嬢のドレスもどれも素晴らしい気合の入れ方とお見受けするのですけれど、わたくしだけその方向性が違うといいますか、浮世離れ感が凄まじいのです。
いたたまれなさに呼吸も浅くなるというもの。
(内心で狙っていたこととはいえ、まさか外側からも妖精感を全面に押し出すことになろうとは思ってもおりませんでしたわ、お母さま……)
普段のわたくしの言動を形にするとこんなドレスになるのかしらと、お母さまの感性に震えるばかりです。
このままベールの羽根で飛んで行ってしまえないかしらと現実逃避をいたしますが、ガラッシア公爵家が招待客の中で最後の入場になりますから、間もなく王妃陛下、王子殿下のご来臨です。
場所は王城の一角、夏の催しの際に使われる「
デネブというのは、前世の知識の
お父さまが登城する楽しみのひとつとして、王城でしか見られない鳥がいることを以前話してくださりました。
見たこともないような輝きを放つ水鳥は、ステラフィッサ王城の、この庭園で開かれる催しでしかお目にかかれない特別な鳥なのだそう。
ふっくらとした銀毛の鳥は、前世のテレビでよく見たようなカルガモの親子を思い出させて少しだけ和みますが、それでもわたくしの内心は緊張でいっぱいです。
我が公爵家は注目の的ではありますが、王妃陛下、王子殿下の次に位が高いので、お父さまから話しかけない限りは招待客の皆さまは誰も近付いてはこられません。
当のお父さまは本日もすこぶる美しく、わたくしと同じペールブルーの生地に、青銀の精緻な刺繍の入ったフロックコートを嫌味なく着こなしております。
お母さまもお揃いの生地で作られたドレスをお召しになり、お二人並んでそこに立っているだけでなんという芸術品。
わたくしなんてオマケでよろしいのですけれど、わたくしへ向かう好奇の目のなんて痛いこと!
アクアーリオ侯爵と談笑しながら牽制するようにお父さまが周囲を威圧しておりますが、他人の視線まで御すことはできませんわね。
あまり怯んでみせても付け入る隙になりますから、やはりここはこの世のものに
それもやり過ぎるとファウストがきゅっと握る手に力を込めるので、よほど飛んで逃げていきたそうな気配をさせてしまっているのですわね。
「ねえさま、大丈夫です」
わたくしの弟が、なんて頼もしい。
緊張や不安が繋ぐ手から伝わっていたかのように、しっかりと目を見て励ましてくれました。
エスコート役といってもわたくしよりまだ背の低いファウストですから、応えるように首を傾げて儚く笑みを返しました。(その瞬間、あちらこちらから心臓を射抜かれたようなうめき声とお父さまの舌打ちが聞こえたような気がいたしましたが、聞かなかったことにいたしましょう。)
「……ティアは、今日のお茶会の参加者すべての初恋を奪いそうだね」
お兄さまがベアトリーチェお姉さまの耳元で囁くのははっきり聞きましてよ!
そこまで甘い声で言うほどの内容ではないと思いますけれど、「ええ…」と微かな声で応えるお姉さまは、真っ赤なお顔で立っているのもやっとではありませんの。
わたくしをダシにいちゃついてるような気もしないではないですけれど、お姉さまがお幸せそうならそれは許します。
お兄さまに目を奪われたご令嬢たちが、隣りに睦まじく寄り添っているベアトリーチェ様を見てため息をついているのですもの、付け入る隙がないと思う存分見せつけて差し上げてくださいませ。
「さあ、ルクレツィア。いよいよだよ」
アクアーリオ侯爵とのお話に区切りをつけたお父さまが、わたくしの隣に立ち支えるように背に手を添えてくださいました。
反対側のファウストには、お母さまが寄り添います。
空気が変わるのがわかりました。
ファンファーレが高らかに響き渡ります。
(ついに、王子殿下と
そのためだけにいる役人が、王妃陛下、王子殿下の臨席を歌うように発声すると、庭園の奥、蔦バラのアーチから、絢爛な衣装をまとった近衛兵を引き連れてお二人が並んで登場します。
役人の合図とともに、わたくしたちは一斉にお辞儀をいたしました。
カーテシーというやつですわね。
王妃陛下のお声がかかるまで、顔を上げることはできません。
立ち位置は家格の順位で決まっておりますので、我がガラッシア家は王族の上がる舞台のすぐそばに控えております。
顔をあげれば、おそらくすぐそこに王子殿下がいらっしゃいます。
逸る気持ちと、やはりまだお顔を見るのが怖いという相反する気持ちで、心臓が口から飛び出しそうです。
「皆、我が王子エンディミオンのため、此度はよく来てくれました。
面を上げ、よく顔を見せてください。
エンディミオン、ステラフィッサの未来を支える子どもたちです。
広く友誼を結び、互いによく学び、ともにステラフィッサの繁栄に尽くすよう努めなさい」
王妃陛下のお言葉が切れるのを合図に、わたくしたちは一斉に顔を上げました。
(胃がっ、胃が焼き切れそうですわ……!)
ここ一番の場面に、心模様が顔に出ないよう訓練は積んでおります。
お母さまに倣った淡い笑みを湛え、わたくしは真っ直ぐと王妃陛下、王子殿下に向き直りました。
────パチ!
と、音がしたかもしれません。
(思い切り、目が合いましたわ!!!!)
エンディミオン様も、真っ直ぐこちらを向いておりました。
(目を、逸らすわけには、参りませんっ)
動揺に倒れそうになりながらも、なんとか踏みとどまって気絶するパターンは避けられました。
この場で気絶するのは、王子殿下の気をひいてしまう可能性もありますから得策とは言えません。
ガラッシア公爵家の令嬢としても、そのような醜態は避けなければ。
(この方が、わたくしの破滅フラグ)
なおも王子殿下と見つめ合っております。
夕焼けのようなファイアオパールの大きな瞳がわたくしをとらえて放しません。
明るい太陽のようなブロンドと、さっぱりと整ったお顔立ちは、アンジェロお兄さまともファウストとも違ったタイプで、前世の記憶の柴犬を彷彿とさせます。
パターンはD?純情で素直そうな方。
いえでもBかも。見た目とのギャップ狙いで腹黒という可能性も。
将来性はCということも?
この見た目でAの俺様キャラだとしたら、ギャップどころか製作サイドの設定ミスのような気さえいたしますから除外しても良さそうでしょうか?
とにかく、「お顔だけはいいクソヤロー」の方向だけは是非とも避けていただきたいのですけれど、それにしたって……まさか、そんな。
(エンディミオン様、あなたいったい、何のゲームのキャラクターなんですの?!)
会った瞬間に衝撃のように降ってくる記憶は、ひとつもありませんでした。
皆無です。
ないのです。
昨日とわたくしと今日のわたくしで、何ひとつアップデートはされませんでした。
あの方はどこのどなたなんですの?
ステラフィッサ王国の第一王子でいらっしゃることは知っています。
でも誰なのです?
わたくしの知っている乙女ゲームにはいらっしゃりません。
見知らぬ攻略キャラクターのまま、王子殿下はそこに立っていらっしゃいます。
(やっぱり、まだ思い出せませんのね……)
期待をしていた分の失望と、なんとなくこうなるだろうなという予感からの諦念で、わたくしの心はすぐさまチベットスナギツネになりました。
いまだ殿下と目の合ったまま、そんな表情になるわけには参りませんから耐えておりますが、わたくしの心はすん、と感情をなくしております。
(それにしても……)
殿下はいつまでわたくしを見つめているおつもりかしら。
こういう場合、上位の方からそっと目を逸らすものだと思っておりましたけれど、わたくし?わたくしから逸らさないといけないのでしたかしら?
少し混乱してしまい、戸惑ったわたくしは、心のままに眉を下げて、ガラッシア家らしいハニカムような笑顔を殿下に向けてしまいました。
(あ、)
その瞬間、わたくしは自らの失態を悟りました。
殿下の大きなファイアオパールがさらに見開かれ、目元に徐々に朱が差していくのがわかります。
(ヒトが恋に落ちる瞬間を、はじめて見てしまいましたわ……)
お茶会の参加者すべての初恋を奪ってしまうなんて、お兄さま、どうしてそんなフラグを立ててしまいましたの?
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