二
前世の記憶を思い出してからエンディミオン殿下にはじめてお茶会でお会いするまでの三年の間に、第一王女が生まれ、兄の婚約者が決まり、わたくしにひとつ下の義弟ができました。
そう、義弟。
悪役令嬢の義弟。
完全に攻略対象のポジションですわね。
ポロポロとゲームの登場人物たり得る存在が現れておりますが、やはりいちばん気になるのは義弟。
アンジェロという嫡男もいて、なぜ新たに男の子を我が家に迎え入れたかといえば、ひとえに公爵家の分家の不始末です。
問題の家は分家とは申しましたが、末端のシェアト子爵家。
先代の急逝により爵位を継いだばかりの若い子爵夫妻はそろって素行が悪く、賭け事がやめられずにあちこちで借金を増やし、招かれた夜会で酒を飲めば泥酔して騒ぎを起こし、どこの家からも嫌厭されるようになると今度は王都の市街で流血沙汰を引き起こし、とにかくひどい行状で、たとえ末端といえど本家の公爵家が責を問われ、王家の温情から父の公爵が自ら采配し、シェアト家の爵位を本家が接収、子爵夫妻は身分剥奪の上で放逐とすることでようやく解決に至ったのでございます。
その元子爵家のひとり息子が、義弟になったファウストです。
わたくしが前世の記憶を思い出してから半年ほどして、ひどく痩せてオドオドとした小さな男の子を父が連れてきたのです。
歳はわたくしのひとつ下と言うには、発育が遅いように感じました。
もしかして生粋の悪役令嬢ルクレツィアなら、突然のことに驚き、ファウストの様子にイライラとしていじめていたかもしれませんわね。
それでも父の話をよく聞くと、子爵家では碌な扱いを受けていなかったために身体は小さく情操面にやや問題があるものの、調べてみれば希少な魔法の属性を持っていて、育てば素晴らしい人材になるだろうと、養子にすることを決めたようです。
そもそもガラッシア家には、長男の他に男子が生まれなかった場合、分家から養子をもらい、広大な領地を持つ公爵家の管理の補佐をする人材に育てる習慣がありました。
両親はまだ年若いですし、今後実弟が生まれる可能性もありますが、お父様は子爵家のことに責任を感じていて、他の家で縁を結ぶことは考えられなかったようです。
さて、この義弟という攻略キャラクターのフラグ、どういたしましょう。
もちろんいじめたりしませんし、本当の弟のように接するつもりではおりますの。
けれどそれも過ぎると、ルクレツィアのこの天使の容貌も相まって、ヒロインではなく義姉に恋情を抱く禁断のルートが開かれるパターンがありますから、義弟といえど、そのあたりの背徳感はヤンデレに通じる可能性がありますし、やはり阻止、ですわね。
ファウストと仲良くすることで彼のルートでの破滅フラグは避けられるはずですから、ここは距離感に気をつけて、たとえば前世の記憶で見たような、愛情のある「うちの姉ちゃんマジで横暴だから」を目指すしかありません。
姉の権力を振りかざし、いじめにならないような可愛い
うふふ。なんだか楽しみになってきましたわ!
ファウストに邪険に扱ってもらえるような姉になる、という新たな目標ができました。
「わたくしのことはティアお姉様とお呼びなさい?
これから公爵家の一員として、よろしくお願いしますわね」
ファーストインプレッションは、なかなか高慢な姉としてうまくいったのではなくて?
ワクワクとニコニコを隠せもしないわたくしに、戸惑いながらファウストはコクリと頷きました。
*
ファウストが公爵家の暮らしに慣れるのには少し時間がかかりましたが、アンジェロとわたくしは根気強く彼を見守りました。
公爵家で暮らしはじめたばかりの頃、不安定な様子を見せるファウストには、姉弟二人だけの特別なイベントを発生させることなく、アンジェロと三人で過ごす時間を度重ねることで、家族としての関係性をより強く印象付けたのです。
そうして公爵家の末っ子として落ち着いたファウストは、元より賢い子のようで、教えることは素直に、そしてすごい勢いで吸収していくのです。
(あらあら?ファウストは天才タイプのキャラクターかしら?
アンジェロが秀才タイプですから、そのあたりで義弟にコンプレックスを持つようになるとしたら、お兄様のシナリオが読めましたわね)
アンジェロはわたくしとよく似た容貌で、天使のファンクラブが貴族から商家のご夫人までの間にすでにできているとか。
性格は温雅で、育ちの良さがそのまま現れた貴族子息そのもの、対外的には、ガラッシア公爵家の跡取りとしてすでに如才ないスマートさを発揮しています。
そんな彼が人知れず義弟の才能に嫉妬めいた屈折した感情を抱いたとしたら、なかなか人間くさい面が見られて、趣き深いシナリオになるかもしれませんわね。
ファウストはファウストで、悪役令嬢の義姉からの扱いを含めた公爵家での立場や、実家の子爵家の件が要でしょう。
(なるほど。かなり王道寄りのシナリオなのかもしれませんわ)
隕石が降るという未曾有の災厄を前に、ヤンデレや一八禁展開は、そんな場合じゃないだろ、ですものね。
身近なところから心配していたチャート②が絞れそうで、展望が開けてきました。
そもそも兄弟の性癖のことなど知りたくもありませんし、家族としても真っ当であれと願わずにはいられませんわ。
(……兄と義弟の禁断愛、はないですわよね?)
アンジェロの顔の良さはさることながら、公爵家の豊かな生活により健康になったファウストのお顔も、やはり攻略対象キャラクターと言わんばかりの出来栄えです。
シルバーブロンドの髪に灰紫の瞳は幼いながらに怜悧な印象を与え、甘い顔立ちのアンジェロと並ぶとちょっと世界観への認識が揺らぎます。
怜悧な印象といっても本人は至って素直な性格で、口数は少なく感情表現は苦手そうながらも、アンジェロやわたくしの後について回る姿はさながら懐いている小動物のようです。
まだまだ貴族の衣装に着られているような様子も、半ズボンから出ている短い足が座ると床に付かないのも、とにかく可愛らしい弟に違いありませんから、幸せになってほしいとは思いますが、兄とはちょっと……。
確信を持って潰したはずのチャート①が一瞬頭を過ぎりましたが、これから巫女が現れるのですから、それはあり得ませんわね。
ふう、と人知れず詰めていた息を吐き出し、ファウストがおとなしくアンジェロに本を読み聞かせてもらっているのを、動揺を隠しながらわたくしもそばで見守っておりました。
* *
「ねえ、おにいさま」
マナーや王国史などのお勉強の時間の合間、兄妹三人でいつもくつろいでいる子どもたち用の部屋で、アンジェロが一人掛けのソファで本を読んでいる膝にとりつきながら、わたくしは「今世では素敵なオトモダチを作るのですわ大作戦」を決行しておりました。
後ろには、たくさんのクッションに埋もれて眠そうに座っているファウストがおります。
「どうしたんだい、ティア」
本から目を離したアンジェロが、優しく応えてくれました。
「ベアトリーチェおねえさまは、次はいつ我が家にお見えになりますの?明日?明日とか?明日ですわよね?」
ベアトリーチェ様は、アンジェロの婚約者となったアクアーリオ侯爵家のご令嬢です。
婚約に際して、顔合わせのため我が家に招いてお茶会を開いた折にはじめてお会いしましたが、その時は当たり前ですがお兄さまばかりがお相手をして、わたくしはそれほどお話ができませんでした。
侯爵家の方々がお帰りなられたあと、わたくしはそのことについてアンジェロに散々拗ねて見せておりました。
「ティアはもう七歳になったのに、他のご令嬢より少し幼いようだね」
困ったように笑いながら本を閉じると、お兄さまはわたくしの髪を撫ぜ、耳にかけてくださいました。
それはわたくしが精一杯幼く見えるように振る舞っているせいですが、たしかにベアトリーチェ様はわたくしとひとつしか歳が違いませんのに、婚約者の家に招かれたこともあってか、かなり大人びて見えました。
なるほど、この世界の七歳はもう少しませているのですわね。わかりましたわ。情報をアップデートいたします!
「ティアもファウストのおねえさまですもの、もう大人ですわっ」
もちろんそんなにすぐには改めません。
こういうのは、違和感をもたれないよう徐々に、ですわ。
「で、す」
胸を張って言ったわたくしの後ろで、ファウストも語尾をまねてたどたどしく同調してくれました。
単に、「ファウストの姉である」ということを力強く訴えていたことに対する健気な追従のようですけれど。
「わたくし、だよ」
自分はもう大人だと言い張る幼い妹の一人称を嗜めながら、アンジェロはファウストにもおいでおいでと手招きします。
ゆっくりと頷いて立ち上がったファウストは、わたくしとは反対側のアンジェロのひざに取りつきました。
それに柔らかく笑みを深めたアンジェロは、ファウストの頭も優しく撫でて、言葉を選ぶようにわたくしに言い聞かせました。
「婚約者になったといっても、そう簡単に屋敷を行き来できるわけではないのはわかるだろう?
私たちがもう少し大きくなって、学園に通う頃になれば毎日でも顔を合わせることになるけれど、今はまだ、ベアトリーチェ嬢とは手紙でやりとりをすることがほとんどなんだ。
だからお手紙にティアとファウストが会いたがっていることを書いて、また我が家に遊びに来てくださいとお願いしてみようか」
結局は弟妹に甘いアンジェロは、そう言うとすぐに手紙を書く準備を侍女に言いつけました。
両親にも、今度は改まった席ではなく、もっと私的なお茶会を開いてくれるようにお願いしてくれるはずです。
さすがアンジェロお兄さま。
その行動力が素敵です。
わたくし自身がベアトリーチェ様とお友だちになりたいという願望が強いですが、お兄さまが婚約者と過ごす時間も増えれば、将来クソヤローになる可能性も低くなるはずということも考えておりますのよ。
我ながら完璧な対策。
わたくしたちには言いませんが、アンジェロなら卒なく、弟妹をダシにするだけでなく、自分も会ってもっと話がしてみたいとか、婚約者の気を惹くような文句をお手紙に書くことでしょう。
なんて罪作り。
もちろん婚約したばかりのアンジェロは素直にそう感じているかもしれませんが、「こう書いておくものだ」という模範回答の考えも、彼の頭の中にはあるように思います。
ですから、二人で過ごす時間を増やし、ベアトリーチェ様にはできるだけお兄さまを理解してもらい、将来アンジェロがヒロインに転ばないように、しっかりと捕まえておいてほしいのです。
はじめてお会いしたベアトリーチェ様は、ブルネットの濃い色の髪にアクアマリンの瞳が印象的で、お母さまのアクアーリオ侯爵夫人にとてもよく似た、しっとりとした美人に成長しそうでした。
気の強い悪役令嬢というより、芯を持った好敵手のようなキャラクターなのかもしれません。
ヒロインに嫉妬して嫌がらせをするのではなく、自分を磨き、見つめ直し、最後は結局アンジェロの幸せのために潔く身を引くような。
(なんとしてでもお友だちになりたいですわ!)
後半は妄想ですが、わたくしの意欲は俄然高まりました。
「わたくし、お父さまにお願いしてまいりますわ!
ベアトリーチェおねえさまに早くお会いしたいわってお願いしたら、明日にも遊びにきてくださるかもしれないですものっ」
無邪気さ全開で跳びはねるように立ち上がり、ワガママを貫こうとするわたくしに、アンジェロは思わずといったようにクスクスと笑い出しました。
「本当にティアはベアトリーチェ嬢が気に入ったんだね。
わかったよ、明日は無理かもしれないけれど、できるだけたくさん遊びに来てもらえるように、私も頑張ってみよう」
家同士で決められた婚約者としてではなく、心を通わせる相手としてお兄さまがベアトリーチェ様を見てくれたら、こんなに素敵なことはないと、わたくしは満面の笑顔で喜びを表し、その言葉を後押ししました。
「父上はまだお仕事から帰っていらっしゃらないから、まずは母上に話を通しておこう」
やはりお兄さまの行動力は素敵。
お手紙といっしょにお茶会の招待状を添えられたら、きっとすぐにでもベアトリーチェ様は我が家にいらっしゃるはず。
早速三人で根回しをしにいくと、エレオノーラお母さまはちょうどお出かけの準備をしているところでした。
「お母さま、すてきなドレスねっ」
朝焼けのグラデーションをそのまま織り上げたような、光によって濃い空色から橙色へと複雑に表情を変えるドレスは、首からデコルテ、手の甲までを繊細な銀糸のレースが覆っていて、楚々と結われた金色の髪の編み残した一房が、その肩に光が差すように片側にだけ垂らされていると、ステラフィッサの至宝と言われる母の清らかな美しさが殊更に際立たつようでした。
天使というより、朝日とともに生まれた女神のよう。
「ティアちゃん、それに二人も一緒ね。どうかして?」
母の身支度の場に立ち入ることを遠慮したお兄さまと、それに倣ったファウストは入り口で立ち止まっていました。
ファウストは目をパチクリとさせて、お母さまを見上げて呆けているようでした。
わたくしだけが同性の娘という気安さで侍女の間をすり抜けて母の側に寄ると、お母さまはアンジェロとそっくりな仕草で、入り口の二人を手招きしました。
「母上、お出掛け前の忙しい折りに申し訳ありません」
お兄さまが恐縮した様子で歩み寄ると、お母さまはにっこりと、鮮やかな微笑みを浮かべました。
朝日が一気に地平線から顔を出したように、それだけで辺りを眩く照らすような。
「かまわなくてよ。
そのお顔は、何かお願いごとがあるのでしょう?」
身を屈めてアンジェロの頬に手を添えるお母さまは、すべてお見通しのような優しく温かい眼差しです。
何度見ても、慣れないほどの美しさ。
お兄さまもわたくしもその遺伝子を明確に受け継いでいますのに、この泉が湧き出るような清冽な佇まいを身につけるには道のりは遠く、我が母ながら圧倒されてしまいます。
さらに養子のファウストにとってはとても近寄り難いようで、わたくしのドレスの影からおそるおそる覗くように見上げるだけで精一杯のようです。
そんな様子の義息子にもしっかりと目線を向けて微笑みかけるお母さまからは慈愛が溢れ過ぎていて、何をお願いしに来たのか一瞬忘れてしまいそうでした。
「母上は、今日はどちらへ?」
お兄さまがようやく訊ねると、
「ビランチャ侯爵夫人にお呼ばれしているのよ。
お母さまが嬉しそうに笑うと可憐な少女のようで、これは多少無理をしてでもお母さまの好きなものを買いあさってしまう方が出てきても不思議ではありません。
ビランチャ侯爵はステラフィッサ国の宰相職を勤めている方なので、夫人が遠く離れた東国の品物を取り寄せることなどはきっと朝飯前でしょうけど。
(宰相……というとだいたいその子息が攻略対象のメガネ枠ですわね)
「シルヴィオのところですか。エンディミオン殿下のところで知己を得ております」
ほら、お兄さまが親しげに名前を出しましたわ。
「ええ、あなたのひとつ下のご子息ですわね。
とても利発で、きっと気も合うでしょう」
「お母さま、アクアーリオ侯爵夫人はいらっしゃいませんの?」
そのメガネの話はここで終わりです!
続きそうな宰相子息の話題を遮り、わたくしは強制的に話の矛先をもとに戻しました。
目的はベアトリーチェ様、攻略対象がやはりエンディミオン殿下の周囲に集まっていることだけわかれば充分ですわ。
「オルネッラ?ええ、もちろんいらっしゃると思うわ。
アリアンナ様の集める外つ国のお茶は、
アリアンナ・ビランチャ侯爵夫人も、オルネッラ・アクアーリオ侯爵夫人も、お母さまとは幼いころからのお知り合いなのだそう。
アリアンナ様は二つ年上で、オルネッラ様とお母さまが同じ年の親友同士。
嫁ぐ前のもともとのお家柄も、容姿もともに目立つ三人で、学園時代は、何かと気の強いアリアンナ様に、しっかり者のオルネッラ様が、これでもかという美貌を持ちながらおっとりとしているお母さまを守っていらしたとか。
その縁で今回のアンジェロの婚約も決まったようなものだと聞いておりますから、わたくしの嫁ぎ先にビランチャ侯爵家というのも候補にあがりそうな話です。
王子の婚約者になるよりはマシなような、結局は攻略対象なのでやっぱり避けたいような、難しい選択なので、ここはやはり触らぬ神に祟りなし、ですわね。
「お兄さまっ」
お母さまの答えに、わたくしは期待に満ちた目をアンジェロに向けました。
「母上、できるだけ早く、ベアトリーチェ嬢とまたお話する機会をいただきたいのですが……」
「あらっ、まあ、そう?
うふふ、それはオルネッラも喜ぶと思うわ」
お母さまはお兄さまの恋バナを聞いたようなはしゃぎようで、華やいだ声をあげました。
「それでは、今度一緒にアクアーリオ家を訪ねてみますか?」
お母さまお一人でなら頻繁にオルネッラ様のところへ行き来しておりますから、気安くそんなことも提案できたのでしょう。
「いえ、我が家に。
ティアもファウストも、ベアトリーチェ嬢と仲良くしたいようで」
そう、それが重要です。
お兄さまもお忘れでなくてよかったわ。
わたくしが強く頷くと、ファウストもコクリコクリと一生懸命頷いて援護してくれました。
「まあ、ティアちゃんもファウストちゃんもベアトリーチェ様を気に入りましたの。
ティアちゃんは年の近いご令嬢とお会いしたのがはじめてでしたもの、そうね、きっとそうなりますわね」
いくら懇意にしている同士といえど、年少の子供はあまり外には出されないのがこの国の貴族の慣例です。
それこそ王族からの召喚、婚約者同士の訪問、でなければ一族の行事の折だけ。
ガラッシア公爵家はほとんど招く側になりますし、お母さまの開くお茶会には、間もなく社交デビューというプレ参加のご令嬢やご子息がいらっしゃる時はありますが、前世でいう中学生ほどの年齢で、これから入学する王立の貴族学園に入学するために、同じ年頃の方たちでお友だちを作るので精いっぱいという感じです。
ですので、わたくしの周りにいる子供はお兄さまとファウストだけということになり、ベアトリーチェ様とお友だちになりたいというのは、わたくしにとってかなり切実なことなのです。
わたくしの勢いに、お母さまは納得したようにひとつ頷きました。
「わかりましたわ。
オルネッラに、ベアトリーチェ様を近々またお招きしたいこと、伝えておきますわね」
そう言って、侍女に羽飾りの付いた扇を渡されると、お母さまはいよいよお出掛けになりました。
これで根回しは完璧。
あとは、お父さまですわ!
*
侍女からお父さまがお帰りになったようだと伝えられると、わたくしは玄関ホールまで駆け出しました。
「おかえりなさいませっ、お父さま!」
馬車が帰ったらすぐに知らせてとお願いしていたとおり、ラファエロお父さまは執事に外套のマントを預けているところで、駆けてきた勢いのまま、わたくしはお父さまに飛びつきました。
「やぁっ、ティア、ずいぶん熱烈なお出迎えだね」
驚いてみせるお父さまですが、七歳の女児ひとりに飛びつかれたくらいでは揺らぎません。
しっかりと抱きとめて、さらには腕に座れるような形で抱きあげてくれました。
首に腕を回して、近くなったその頬にお帰りなさいのキスをすると、相好をくずしてお父さまも返してくださいます。
その笑顔の甘さと言ったらなく、お父さま、本当に、もう永遠に見ていられるほどお顔が良いですわ!!
お父さまの異名、ガラッシアの月の貴公子なんてちょっぴり恥ずかしいほどかと思われるかもしれませんが、何ひとつ言い過ぎてはおりませんのよ。
嬉しそうに頬ずりをしてくる父の、月光のようなプラチナブロンドが、柔らかくわたくしの頬をくすぐります。
この髪は、朝日を反射して煌めく湖の水面のような黄金色のお母さまとは違って、わたくしもアンジェロもお父さま譲りです。
そして瞳は、たくさんの星が瞬く夜空を映し込んだような
男性に使う形容とも思えませんが、精巧な人形のような肌は陶器のようですらあり、この世界にはお髭という概念がないのではと思うほど。
おそらく表情をなくしてしまえばとてつもなく怜悧で、人類みなその腕に抱いて囲う夜のような清艶とした美貌でしょうに、わたくしに見せるお顔はとにかく甘く、蜂蜜色の満月を思い起こさせます。
そうしてこんなとんでもない容貌を持ちながら、どうしてこんなふうに育てるのかと思わざるを得ない純心さも持ち合わせているのですから驚きです。
もちろん、筆頭公爵家の当主たり得る資質と品格を、その役割を全うする責任感と、一筋縄では行かない貴族たちを制する立ち回りを自然とこなす圧倒的な存在感とを持っておりますのに、ファウストを引き取った経緯からもわかるように、お人好しで情の深いところがお父さまの本質なのでしょう。
この世のすべての女性を魅了してやまないお顔ですのに、学生時代は初恋のお母さまひとりを想い続けて、その他大勢から向けられる自分への好意には気づいてもいなかったと、以前ご友人の伯爵様がいらっしゃった折りに話していたのを、お父さまのお膝の上で寝たふりをしながら聞いておりました。
ジリジリと進まない両片思いの純愛を成就させるべく伯爵様がご活躍なさったとかで、結果、アンジェロお兄さまとわたくしが生まれたのですから感謝しなければなりませんわね。
こんな奇跡のような両親を持って生まれたのですもの。
わたくしだって今世は謳歌したいです。
(やはりお友だちと、素敵な恋は必須ですわ!)
恋人がお父さまのような方ならなお理想です!
わたくしが七歳の幼女で、血を分つ愛娘だというルクレツィアとしての確固たる認識がなければ、この顔に頬ずりをされて正気なんて保てませんわ。
殺伐とした三十路女の記憶からくる羞恥は、天真爛漫な愛され幼女のフリを全力でしている時点でかなぐり捨てております。
けれど前世の記憶本来の趣味嗜好が訴えるのは、お父さまはかなり理想的だということ。
地位も名誉も権力もあって、類稀なほどの美貌な上に人格者。
歩くお伽噺ですわね。
それでも今世のわたくしにはぴったりの条件でもあります。
「わたくしもお父さまと結婚できたらいいのに」
首に抱きついたまま、思わず声に出して呟いてしまいました。
(……はッ! “大きくなったらパパのお嫁さんになるの”、はもっと効果的なタイミングで使うはずでしたのに!)
わたくしは自分の過ちにすぐに気がつきました。
ベアトリーチェ様のことをお願いするはずで急いで来ましたのに、言うタイミングをはずしているのはもちろんのこと、言い方もすでに諦めている風ではありませんの。
まして自分から結婚の話題を振るだなんて!
案の定お父さまは、わたくしの言葉に美しい眉を悲しそうにハの字に歪めています。
「どうしたんだい、ティア?
前はお父さまと結婚すると言ってくれていたじゃないか」
あら?あらあら?
もしかして「大きくなったらパパのお嫁さんになるの」は、わたくしすでに言っておりましたの?
それこそ前世の記憶を思い出す前、ルクレツィアが幼すぎて記憶にも残っていない時期ですかしら?
これは、ピンチはチャンス、ではなくて?!
「だってお父さま、お兄さまはベアトリーチェ様と婚約なさったでしょう?そうしたらティアもどこかへお嫁に行かされてしまうのではなくて?」
至極当たり前のことを、この世の終わりのような顔で訴えました。
お父さま以外と結婚なんてあり得ないと言う体です。
(お父さまにはやり過ぎなくらいがちょうどいいですわ。
お父さまの匙加減ひとつで婚約だって決められてしまうのですもの、ここはハッキリと伝えて攻めに出るべき!)
「わたくし、お父さまのような方でなければイヤです。
お嫁に行って、お父さまと離れ離れに暮らさなければいけないと考えるだけで悲しくなりますのに……」
目に涙を溜めるくらいは、公爵令嬢の嗜みですわね!
さめざめと悲しみにくれる愛娘に、お父さまのわたくしを抱きしめる手の力が強くなりました。
「こんなに可愛いティアをどこかにやってしまうわけがないだろう!」
玄関ホールでヒシっと抱き合う美しい親子です。
周りを囲む執事や侍女は微笑ましそうに見守っておりますが、俯瞰で見ている三十路女が、ツッコミ不在を嘆いております。
ですがこれくらい言っておけば、余程の縁談でもないかぎり、お父さまは受け付けなくなるかもしれませんわね。
それこそ王族からの打診でもないかぎり、婚約者を見極めるお父さまの目は相当厳しいものになるはず。
その王族との婚約をいちばん避けたいのですが、わたくしがイヤがるものを無理に押し進めることはしないくらいには、手放しがたく思っていただかないと。
「父上、おかえりなさ……い、ませ」
ようやく、ファウストを連れて遅れてやってきたツッコミ、もといアンジェロお兄さまの登場です。
ちょっとだけ異様な光景に(それが正しい感性のように思いますわ)戸惑いながら、最後まで言い切ったのはさすがお兄さまが優秀だからですわ。
「ただいま、二人とも」
わたくしを抱く力を緩めることなく、お父さまがアンジェロとファウストにも絶世の笑顔を向けます。
愛情深いその笑顔を間近で見る破壊力……やっぱりお父さまがいちばん素敵です!
娘という立場を遺憾なく発揮してぎゅうっと抱きついておりますと、もの問いたげなアンジェロの視線に気がつきました。
「ティア、もう父上にはお願いしたのかい?」
「??」
はて、なんの話でしたかしら??
首を傾げるわたくしに、お父さまもいっしょに首を傾げます。
そんな仕草だって、絵に描いてずうっと見ておきたいくらい魅力的なんです。
お父さまの顔をじっと見つめ、パチパチと目を瞬いておりますと、アンジェロは父とも母ともよく似た、「仕方がないなぁ」という愛にあふれた美しい苦笑を見せました。
ファウストも不思議そうな顔でこちらを見上げていて、まあるく幼い瞳がまた小動物のようで、とにかく可愛らしい。
顔面偏差値がこの世界でいちばん高い空間。
それがガラッシア公爵家なのは間違いありません。
「父上、ベアトリーチェ嬢を、また我が家にご招待したいのですが」
お父さまのお顔が良すぎるせいですっかり頭から抜けてしまっていた「お願いごと」を、アンジェロの言葉でようやく思い出しました。
「そうでしたわ!ベアトリーチェお姉さまとわたくしもっとお話しがしたいって、お父さまにお願いをしたくて待っていましたの!」
「なるほど、おねだりのための歓迎ぶりだったわけだね」
「でも大好きなお父さまのお顔を見たら、すっかり忘れてしまいましたわ」
お父さまが残念そうに眉尻を下げるものですから、わたくしは慌てて弁解いたしました。
「あれだけ父上の帰りを待ちわびて飛び出して行ったのに、どうして忘れられるんだい?」
今度はアンジェロにはっきりと呆れられてしまいました。
さんざん拗ねてお兄さまを振り回していた自覚はありますから、そう思われても当然とは思いますが、幼い子供が支離滅裂なんてことは往々にしてありますわよね?
本当は三十路女が常に頭をフル回転させながら幼女のフリまでしているせいで言動が突飛になりがちなのですけど、それは誰も知り得ぬこと。
子供の気ままさで貫かせていただきます!
「だって、お父さま以外の方と結婚しなくてはいけないのかしらと思ったら悲しくって……」
わたくしが再び悲しげな顔をすると、お父さまも、そしてつられてファウストまで悲しそうな顔になりました。
素直で共感性の高い家族です。
「ティアは娘なのだから、そもそも父上とは結婚できないだろう?」
「そうですけど!そうなのですけど!」
お兄さまはこういう時にひどく常識的で困ります!
ファウストのほうが余程本当の血縁のようですわ。
たしなめるというよりは不思議なことを言う妹にモノの道理を説いているという風ですけれど、今はそういう話をしているのではないのです!
「お兄さまのそういうところ、気をつけませんとベアトリーチェお姉さまに嫌われますわよっ」
思えばお兄さまは周囲から好かれて当然の環境でここまで育ってきておりますわね。
このままでは自分が周りに愛されていることを疑わない頭のゆるふわな残念な方になってしまうかも。
もちろん残念系の攻略キャラクターが売りの乙女ゲームも大好きでしたけれど、そんなのが許されるのは二次元まで。
それが身内にいるなんてとんでもないことですわ。
まして残念なだけに止まらず、愛されている自身の言動はすべて正しいと信じてそれを振りかざし、それによって他人に嫌われることがあるということにも考えが及ばない人間になってしまっては取り返しがつきません。
ここは釘を刺しておいて、行く道を正しておく必要がありますわね。
「わたくし、本当に心配になって参りました。
お兄さまがベアトリーチェお姉さまに嫌われて、わたくしたちのお姉さまになっていただけなかったらどうしましょう!」
「どうして僕が婚約者に嫌われる話になるのっ」
深刻そうに言うとお兄さまは思ったより動揺したようで、いつも気を遣っているはずの言葉遣いが素に戻っております。
「婚約者だから好きになってもらえると思っていたら大間違いですのよ。お兄さまは乙女心をちっともご存じないようですから、今からベアトリーチェお姉さまに嫌われないようお勉強したらよろしいのですわ」
その顔で成長すればもちろんさぞかしおモテになるでしょうけど、顔に釣られるのではない方に愛していただけるよう努力はするべきですわね。
そんなことはまだ言っては差し上げられませんが、アンジェロは突然矢で射抜かれたような釈然としない顔をしたまま、「おとめごころ……?」と口の中でつぶやいておりました。
「ティアも乙女心を語るようになってしまったんだね……。でもまだお父さまのティアでいてくれるかい?」
「もちろん、ティアはいつまでもお父さまのティアでいますわ」
娘の成長を喜ぶのと、手放す日がほんのわずか近付いた些細な気配を敏感に察して複雑な思いでいるお父さまの心境に、わたくしは全力で後者に訴えかけました。
「さあ、そろそろお母さまにただいまのあいさつをしに行かせてくれるかい」
離れがたい抱擁のまま、わたくしの素直な返事に安堵したお父さまは、そろそろ待っているお母さまのことも気になり出したよう。
わたくしを抱き上げたまま歩き出したお父さまに続いて、お兄さまがファウストの手を引いて歩き出そうとすると、
「……ベアトリーチェさまは、いついらっしゃるの?」
これ以上ない素朴な質問がファウストから発せられました。
何のためにそろって玄関ホールまで来たのか、結局忘れ去られそうな気配を察しましたのね。さすがは天才枠の攻略キャラクター、というところかしら。
「ああ、ベアトリーチェ嬢をまた招待したいという話だったね。
エレオノーラとも相談しないと」
お父さまがファウストの頭を優しく撫でると、ファウストは猫が喉を鳴らす時のような顔をします。
順調に家族の一員らしくなってきておりますわね。
「お母さまにももうお願いしておりますのよ」
「なるほど、ではなおさらエレオノーラに話を聞かないと」
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