第89話 停戦条約

 カルゴアとミルアド。その国境沿いのなだらかな丘のある大平原。


 はるか遠くの景色まで眺められる丘の傾斜は緩く、青々とした土地には現在、ミルアドを支配するバルゴアードの幹部軍約3000がいる。


 さらに国境を挟んでカルゴア側にはカルゴアの軍と人類軍の混成の軍隊が同じく3000ほど。


 数に優劣はないが、所詮は相手は人間だ。いざとなれば魔族の膂力で蹴散らしてしまえば良い。


 そう考えていたからこそ、たとえ眼前に敵軍がいようとも魔族軍には余裕がある。


 もちろん、魔族軍とて人類側の力を見くびっているわけではない。


 特に魔王ギュレイドスを屠った謎の戦力に関しては今も警戒している。


 しかし魔王ギュレイドス軍は魔族軍の中でも最前線に立っていた部隊であり、斥候や諜報に長けた部隊はおらず、いまだその謎の戦力に関しては詳細が掴めていなかった。


 もちろん、そういう情報に特化した部隊はいるにはいる。しかし、情報関係の部隊は主に大陸北部にいる別の魔王軍の領分であり、ギュレイドス軍の領分ではなかった。


 それに加えて、軍のトップであるギュレイドスが斃されたことで、今やギュレイドス軍は完全にバラバラになり、幹部軍がそれぞれに独立したことで、それぞれの部隊に情報も届かなくなっている。


 何かが起きていることはわかっている。しかし何が起きているのかはわからない。だからこそ、今までとは異なる戦略が必要になる。ただ戦うだけではダメなのだ。


 人間は弱い。だが警戒は必要だ。だからこその今回の停戦なのだ。


 いくら強い戦力があるといっても、所詮は軍の一部。国が停戦だと言えば、どれほど強い戦力があったところで機能はしない。


 ならばまず、停戦という名の餌をぶら下げる。そこに乗っかってきた人類軍に停戦をさせる。


 あとは軍を引かせた後、停戦条約を破って侵攻すれば良い。


 ふふふ。馬鹿な奴らだ、と魔族軍の使者は嘲笑う。


 人間なんぞを相手に本当に停戦なぞするわけがない。しかし、どうやら人間というのは本当に頭の悪いバカの集まりらしい。


 こちらが停戦したいと言えば、あっさり信用しやがった。挙句にこちらの要求を全部飲むほどだ。


 これならもっと吹っ掛けても良かったか?そうだ、平和条約を結んでやる代わりにギュレイドスを斃した者を処刑しろとでも要求しても良かったかもな。


 人間は馬鹿だからな。そんなことで平和が手に入るなら安いものだと思って本当に処刑するかもしれない…ふふ、今日は冴えてるな。


 魔族軍の野営地にて将官の一人がそんなことを考えていると、外から慌ただしい音がする。


 やがて将官たちが集まるテントに一体の魔族が入る。


「伝令より報告!ミルアド首都に敵が迫っています!」


「なんだと!」


 突然の報告に停戦交渉のための魔族軍の使者とその場にいた将官たちが驚きの表情を浮かべて吠える。


 一瞬、人間の軍かと思ったが、それはあり得ない。そもそも人間の拠点はカルゴアしかなく、ミルアドを攻めるためには自分たちの軍を抜けないといけない。


 だが、人類軍は依然、国境を跨ぐことなくその向こう側で駐留したままだ。


 では、一体どこの軍が?


「敵は何者だ!」


「魔族軍です。マツリガントのレイガード軍と、ドウランのギアダイド軍が国境を越えて進軍しています!」


「はあ!ふざけるな!奴ら、狂ったのか!」


 突然の仲間の裏切りである。その場にいた魔族の将官たちは驚愕し、そして怒りの声をあげる。


「まさか奴ら…ギュレイドス様が居なくなったのを好機とばかりに俺たちを潰す気か?」


「…あり得る…あいつら馬鹿だからな。…そもそもギュレイドス様がどうやって討伐されたのかすら考えてないかもしれない」


「くそが!せっかく我々が知略を絞って謀略を立てている時に邪魔しおって!だから戦うしか能がない馬鹿は嫌いなのだ!」


 ここにはいないかつての他の幹部軍のことを口々に罵倒する魔族の将官たち。


 確かに彼らは同じギュレイドス軍だか、しょせんは寄せ集めであり、そこまでの仲間意識はない。


 ギュレイドスという圧倒的な力のある大将がいたから従っていただけで、いなければ協力する理由もなく、なんなら他の幹部軍など邪魔ぐらいにしか思っていない。


 魔族は…魔王という圧倒的な力があるからこそ組織立った行動ができるのであり、無くなれば統率を失ってしまう。


 もっとも。その他の幹部軍もまた、裏切りによって攻撃されたと思ったからこそ進軍に出ているのだが――そのことに気付く者はここにはいなかった。


「それで、どうする?」


 魔族の将官たちの視線が報告にきた一介の魔族に集まる。


「首都には現在7000。敵軍はおよそ1万。緊急につき今すぐ首都まで救援せよ、との要請です」


「…奴ら、本気で我らを潰す気か?」


 国境には現在、3000の魔族軍がいる。首都にいる本隊が7000で、敵が10000…数は不利だがそれでも十分に戦えるだろう。しかし、人間と違って相手は魔族だ。


 たとえ持ちこたえるにしても甚大な被害が出るだろう。下手をすれば全滅だってあり得る。


 今までは人間相手に勝ち戦ばかりしていた魔族軍にとって、急に負けるかもしれない戦が始まろうとしていた。


 冷や汗が出る。せっかく魔属領を捨てて人類の土地に進軍し、安住の地を得たというのに、どこかの馬鹿のせいですべてを奪われるかもしれない。


「―あいつら…ころす!!」


「魔族だろうと関係ねえ!俺たちに楯突くならぶっ殺してやるよ!」


「今すぐ首都に戻るぞ!全軍に報せろ!」


「え、しかしそれだと人類軍の方は…」


「…チッ、100は残せ。どうせもう停戦なのだ。奴らから襲ってなど来ないだろ」


 もともとは破る前提で持ちかけた停戦条約がここにきて自分たちの命を救うとは思わなかった、と内心でホッと安堵する将官もいた。


 撤退する、そうと決まれば魔族軍の動きは早かった。


 野営地に張ったテントを回収し、軍馬に荷物を乗せて撤退の準備を始める魔族軍。


 残された魔族軍はおよそ100ほど。特に武装や防具もなく、大きな斧を担いでいるだけの魔族の兵士が100体、国境を挟んで人類軍の方を注視する。


 既に停戦条約が結ばれてから5日程が経過していた。


 人類軍は停戦条約に従って徐々に兵を撤退させていった。以前までは国境沿いに多数の弓兵の部隊がいたのだが、ここ数日以内に撤退し、今では少数の騎馬隊と短槍の歩兵部隊がいるぐらいだった。


 いずれ奴らもより後ろにあるシス砦まで後退する、そういう予定である。


 当初の予定では、停戦交渉により国境から軍を引かせた後に、バレないようにこっそり魔族軍を侵攻させ、夜襲を仕掛けてカルゴア王都に奇襲する、というのが魔族軍の計画だった。


 どれほど強い戦力があろうと、不意打ちで仕掛けてしまえば斃せるだろう。ミルアドを支配する魔族軍幹部、バルゴアードはそう考えて今回の停戦を計画した。


 正直、交渉は難航するだろうと思っていた。しかしあっさり人類軍が要求を受け入れたことで、人類軍を嘲笑する声が魔族軍から多数あがった。


 そして今、予定通りに事が進んでいた。


 その矢先である。


 仲間だったはずの魔族軍の進軍。ミルアド国境に張り付いていた魔族軍は突然の事態に撤退を余儀なくされる。


 やがて撤退の準備は完了し、約3000の魔族の兵が人類軍に背を向け、縦二列の縦隊でミルアド首都への帰還を始める。


 その時。


 国境の奥。人類軍の横一列の短槍歩兵部隊が動いた。


「それにしても、あいつらあんな貧弱な武器でどうするつもりなんだろうな?」


 遠くにいる人類軍を見て、残された100の魔族の部隊の一体が嘲笑う。


「あんな弱っちい槍で俺様のこの鍛え抜かれた体に傷がつくとでも思ってんのかね?」


「そりゃおめー、ケツの穴ぐらいなら入るだろ!」


「ぎゃははは!あいつら逃げ足だけは早いからな!こっそり後ろに回られないように注意しねえとな!」


「…あん?なんだあいつら?なんか槍をこっちに構えてるぞ?」


 ファランクス、と呼ぶには長さがまるで足りない短い槍。そんな短槍を持つ歩兵たちは片膝をつくと、短槍を構えて先端をこちらに向ける。


 数はおよそ300ほど。人類軍の短槍部隊は横一列の横陣になり、短い槍を魔族軍に向け、そして待っている。


 一見するとただの短槍。しかしその本当の目的に気付いた頃には既に手遅れだった。


「撃て!」


 ドドドドドン!


 なんの準備もしていない魔族軍に対して、人類軍からの一斉の発砲が始まる。


 およそ300から構成される短槍の歩兵部隊…いや小銃を持つ部隊から一斉に銃撃が行われ、目に見えない速度で大量の鉛弾が雨のように殺到する。


 連続する爆発音。小銃より発射される鉛の弾。


 わずか50メートルという距離から発射される小銃からの突然の銃撃を浴びる魔族軍の100の兵士たち。


「ぐあ!」

「ぐやあ!」

「ぎゃびすき!」

「うが!」

「な、なんだ!」


 鉄の剣すら弾く、矢さえ遠さに魔族の硬い皮膚。そこに今、穴が開く。


 どさ、どさ、と次々と魔族の巨体が背後に倒れていく。まるで何かにぶつかったような衝撃を受けて背後に倒れ堕ちていった。突然の事態に、たまたま命中しなかった魔族たちが驚愕に顔を染める。


「な、なんだこれ…なにが起きてんだよ!」


「第二陣、点火…撃て!」


 そして再び訪れる激しい爆発音。火薬の匂いが空気を満たし、凶弾が魔族に迫る。


「ま、まただうぎゃあ!」

「がは!」

「一体なにがぐあああ!」


バタバタと倒れていく魔族軍。先ほどと同じ事態。しかし何が起きているのかわからず、その衝撃的な光景に撤退を始めていた魔族軍にも動揺が走った。


「な、あれは何なんだ…なにが起きてるんだ!」


「ほう。圧倒的ではないか。あの魔族様がゴミのように死んでいく」


 人類軍から一人の指揮官が前に出る。


「停戦条約だが、たった今破ることにした。――お前たち、敵を撃滅せよ!」


「「おおおおおおおお!」」


 怒号とともに、人類軍の騎馬隊が動き出す。


「ふ、ふざけるな!つい最近、停戦したばかりだぞ!このクソ人間が…貴様ら、約束を破る気か!」


 魔族たちはようやく気付いた。約束を破るつもりだったのは、なにも魔族だけではなかったことに。


 人類もまた、魔族との約束など守るつもりはなかったのだ。


「敵は撤退中でこちらに背を向けている。まさに殺すには最高のタイミングだな。魔族どもを皆殺しにしろ!」


「「「おおおおおおおおお!!」」」

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