第88話 開戦の準備

「隙あり!」


「ん、ないぞ、ほいっと」


 三日後。再び魔族との戦争が始まる。


 その最後の仕上げとばかりに演習場では現在、それぞれの大隊長の指示のもとで軍の演習が行われている。


 早朝の総司令官の演説より、兵士たちの訓練にはいつも以上に熱気に溢れている。


 それはそうだろう。


 今までの絶望的な戦いとは違う。負ける一方だった戦いとは意味が違う。


 これは勝利のための戦争なのだ。ミルアドへの反攻作戦が成功すれば、やがてはそこを起点に南部領土奪還の本格的な大攻勢が始まる。


 もはや祖国の地を踏むことを諦めていたあの頃の…絶望に陥っていたあの頃の兵士たちとは違う。今の彼らには希望がある。


 そう、自分たちならやれるという希望が…


「ぐはッ!」


「ぎゃあ!」


「この女、強すぎ…ぐはっ!」


「無理だ…勝てねえよ、こんなの勝てねえよ!」


 うん、希望が…あれ?打ち砕かれてるか?


「おいおい、なっさけねえなあ、それでも男か?もっと気合入れてかかってこいよ。ほれほれ」


 そう言って演習場で次々と兵士たちを木剣で打ち倒しているのは、元S級冒険者にして現在は僕の指揮下に入っているゼイラだったりする。


 彼女も次の軍事作戦に参加する以上、訓練は必要だ。なにより実力を知りたい。


 一体どれくらいゼイラは戦えるのか、その実力を知るためにも、こうして演習場に呼んで兵士たちと模擬戦をやってもらったわけなのだが…


 やはり元S級か。並みの兵士ではまったく歯が立たない。


 スピード、判断力、そして剣技。


 ローゼンシアも強かったが、おそらくゼイラはそれ以上だろう。


「ふぅ、それにしてもあっちーな」


 確かに今日は気温が高く、なんだか空気が暑い。汗ばむゼイラはパタパタと手を振って風を仰ぎ、もう片方の手で服の襟の部分を摘まんで体の中に風が入るようにする。


 そんなことするから彼女の濡れた肌が見え隠れし、その光景に兵士たちのやる気がアップする。


「うお…すっげー爆乳…」


「ゼイラさん!次は自分がお願いします!」


「ずるいぞ!俺が、次は俺に指導してください!」


「お、やる気でたか?よっしゃ、相手してやるぜ!かかってきな!」


 通常、軍隊に新顔が入ってきたらいろいろと軋轢が発生するものだ。しかしゼイラに関して言えば、もともと本人が実力者であることに加え、なによりも見た目がとんでもない美女ということもあってか、兵士たちはとても好意的にゼイラを歓迎している。


 これが筋骨ムキムキのおっさんだったら兵士たちのやる気も根こそぎ奪われていただろう。しかし…


「ぐほ!あ、ありがとうございます!」


「うが!なんて強烈な一撃…でも気持ち良い…」


「む!見えた…ぐは!…わが生涯に一片の悔いなし」


「ああん!そこはダメ!…女に斬られて喜ぶなんて…俺はまさか男より女が好きだったのか…?――無念だ」


「お前ら…本当にやる気あるのか?」


 兵が突進すれば横に避けてそのまま背後から木剣で攻撃し、斬りかかればすべての剣戟を紙一重で交わしつつ隙をついて木剣の突きを入れるゼイラ。


 その剣捌きは見事としか言いようがなく、兵士ではまるで相手にならない。


 そんな様子で兵士たちは次々と木剣で打ち負かされているわけなのだが、兵士たちの表情から希望の色が潰えることはなかった。むしろやる気が漲っているような…


 一応…僕の部隊に配属されている兵士はそれなりに練度のある正規兵のはずだが…いや、なんだか自分からやられにいっている兵士もいるな。まあ奴らも男だもんな。美女に斬られるなら本望だろう。


 すでに模擬戦だけで20回以上の戦闘をしている。確かに汗こそかいているが、ゼイラにはまだまだ体力はあるという感じが見て取れる。いや、それどころか…


 ゼイラは実力の10分の1も出してないのではないのか?これ以上模擬戦を続けても意味はなさそうだな。


「――そこまでだ。ゼイラ、あがっていいぞ。お前たちは各自ペアになって訓練を継続だ」


「「「ハッ!」」」


 僕が指示を出せば、兵たちはすぐに命令を聞き入れて動いていく。確かにゼイラの胸とケツを目当てに模擬戦に参加するようなスケベな連中かもしれないが、そこは正規兵だ。上官の命令はちゃんと聞いてくれる。


「ん?なんだ、もういいのか?アタシ、まだまだ戦えるぜ?」


「それはわかってる。ただ…相手をできる奴がいないからな」


「アンタがいるじゃないか」


 全身汗だくで、服もぴったりと汗でくっついて体のボディラインが露になっているゼイラ。


 一見すると非常に疲れてるようにも見える。しかし、うむ。すごい体だな。大きな胸に対して腰がくびれていて、無駄がない。むっちりとした太ももがとても…


 いや、そうじゃない。なにを見ているのだ僕は?


 ゼイラは確かに汗だくだが、その表情にはまだ余裕がある。むしろ今までの模擬戦は準備運動だと言わんばかりだ。


「アタシの全力を見たいんだろ?ならアンタが戦えばいい。どう?アタシと一戦交えるか?」


 なんだか挑発的で、まるで娼婦のような怪しい笑みを浮かべるが、決して夜の一戦という意味ではないだろう。


 そういえばゼイラの戦闘を見るのはこれが初めてか?ゼイラは確かに元娼婦という一面もあるが、それ以上に冒険者だ。それもレンジャーやスカウト、ヒーラーなどの非戦闘職ではなく、魔法剣士という前衛で戦くことを専門にした戦闘職でもある。


 やはり戦闘こそが彼女の本分なのかもな。


「できればそうしたいが、ダメだ」


「ふーん。それは制約に関わることか?」


 ゼイラは品定めでもするように僕をじっと見つめつつ、そんな疑問を呈する。


 といっても答えるわけにはいかないのだが。


「それは言えない。加護に関することはすべて秘匿とされてるからな」


「それは残念…教えてくれたら良いことしてやったのに」


 ニヒヒっと悪戯っぽく笑うと、ゼイラは服の襟部分に指を引っ掻けて、くいくい引っ張って谷間を見せつけてくる。


 服の中に詰まっていた大きな胸の谷間がこれみよがしに見え隠れする。汗のせいで光沢を帯びた、豊満な谷間の煽情的な光景につい…ハッ!なにを僕は見惚れているのだ。


「!…っ………」


「ほーれ、こういうの好きなんだろ?いいんだぜ?アタシ、あんたに身請けされた立場だしな。いつでも抱いていいんだぞ?」


「……ゼイラ…ここは外だ。そういうことは止めたまえ」


「いや、そんな真剣な眼で言われても説得力がね…まあいいけどさ」


 やがてつまんなそうな顔をすると、ゼイラは演習場の方を見る。


「アタシは冒険者だから軍隊での戦い方なんて知らねえぜ?」


「ああ、わかってる。基本は僕の副官として動いてくれ」


「リュークと一緒に行動すればいいのか?まあそうだな。あんまり細かい指示されてもわかんねーしな」


 ゼイラは確かに強い。だが、軍人としての訓練なんて受けていないし、陣形も組めないだろう。当然、指揮官としての訓練も受けてないので兵を率いることもできない。


 かといってただの一介の兵士と呼ぶには実力があり過ぎる。やはり僕と一緒に暴れてもらうのが一番効果的だろう。


「…あのさ、そのことで相談なんだけど、ニーナの奴も連れていけないか?」


「うん?ニーナか…なんで?」


 ニーナは現在、うちの屋敷でのんびり過ごしている。今まで娼婦としてハードに働いていたので、しばらく働きたくないそうだ。


 ちなみに、知らない間に屋敷にうねうねと動く妙な草木が生えるようになったのだが、ニーナの仕業か?


「アタシの加護さ、前も言ったと思うけど、補助魔法の効果を倍増させるんだよね」


 ああ、言ってたね。強化魔法をかければ威力を倍増できるし、弱体化魔法をかければ今度は肉体の強さが半減されるらしい。


 強化すればするほど強化するし、弱体化すればするほど弱体化する。非常に強力だが、リスクも大きい加護だ。


「ここだけの秘密なんだけどな」


 と声を潜ませてゼイラは耳元で囁く。


「この加護、アタシ本人がかけた補助魔法だと効果がないんだよ。他人が発動した補助魔法でないと効果を発揮しないんだ」


「え、そうなの?」


 じゃあ自分で強化魔法をかけるという手は使えないのか。なるほど、だからチームを組んでたんだな。


「ああ、だからニーナに魔法をかけてもらおうと思ってな」


 と声を潜ませ、こそこそと耳元で語るゼイラ。


 確かにそれならニーナが必要かもな。でもそれなら…


「魔術部隊に頼めば魔法をかけてもらえるが?」


「それはダメだな」


 僕が提案すれば、即座に断るゼイラ。一体なぜ?


「信頼してない奴の魔法だと、自動的に弾いちまうんだよ。ほら、アタシって魔法剣士だろ?万が一に備えて常に魔法で体をガードしてんだよ」


 へえ。そんなことしてんだ。


「それと…いや、これは内緒だな。とにかくよ、信頼してる魔術師が必要なんだよ。だからニーナも連れてもいいか?」


 それは良いのだが…


「ニーナって素人だろ。戦場に連れてっていいのか?」


「あん?大丈夫だろ。あいつだってエルフだぜ?森に住んでた頃はモンスター相手に狩りとかしてたし、前線に出なきゃ問題ないだろ!」


 だははは、と豪快に笑うゼイラ。こうして本人不在の中で、ニーナの参戦まで決定した。


 まあエルフは人種よりよほど魔法に長けてるからな。いざとなったら魔法でなんとかするか。


「中隊長殿!失礼します!」


 ゼイラとの話し合いがそろそろ終わるというタイミングで、一人の隊長がこちらに近づいてくる。どうやらこちらの様子を窺っていたようだ。


 長い黒髪と凛とした表情がよく似合う、僕の指揮下の隊長だ。名前は…


「魔導騎兵部隊の二ムロットであります!訓練が終わりましたので報告に上がりました!」


 そう、二ムロットだ。


 彼女は背筋をピンと伸ばし、サッと敬礼をする。二ムロットは現在、僕の指揮下にある魔導騎兵部隊を率いる隊長で、人類軍から派遣された軍人だ。


 ちなみに彼女自身は魔術国家のディストグルフ出身で、もともとは魔術国家の近衛部隊に属していたらしい。


 指揮官としての経験と実績があるので、こうして僕の部隊にも派遣されている。


 僕の中隊の大部分はカルゴアの兵士で構成されているが、ただ魔導騎兵部隊についてはカルゴアに人材がいないので、二ムロットが指揮する魔術部隊が派遣されている。


 そうだ。ちょうど魔女について聞きたいことがあったのだ。


「二ムロット…頼みたいことがあるのだが、良いかな?」


「ハッ!なんでしょうか?」


 魔術国家の人間だが、そこは軍人だ。きびきびとした態度で受け答えする。あの白い魔女とはえらい違いだ。


「ディストグルフの白の魔女…彼女に相談したいことがあったのだが、呼んできてもらえるだろうか?」


「白き魔女…ルシア導師のことですね。今すぐ連れてきます!」


「いや、忙しかったら…行ってしまった」


 あの魔女はなんだかんだ人類軍にとっても重鎮なので、もし忙しいようであれば構わないと伝えようと思ったのだが、二ムロットは颯爽と演習場を駆け抜けていった。


 そして待つこと数十分後。


「はあ、はあ、はあ、はああああああああああ…疲れた…」


「だらしないですよ導師。それでも我が国の栄えある導師ですか!」


「いや、関係ねーし。こんな無理やり走らされたら導師だって疲れるし…おや?誰かと思えばネトラレイスキー卿ではありませんか?一体どのような御用で?」


 二ムロットに連れてこられた魔女はここまで走ってきたのか、ぜえぜえと肩で息をしながらなんだか恨めしそうにこちらを見る。


 いや、僕のせいじゃないでしょ。ゆっくり来てもらって全然問題なかったし。


 白き魔女、ルシア。その名前の通り、上から下まで真っ白な外見をしている魔術国家の導師で、現在は人類軍に参加している魔女。


 彼女には聞きたいことがあったのだ。


「いえ、実は加護についてちょっと相談したいことがありまして…」


「ほう…加護ですか?いいのです?私に加護について教えても?」


 今まで白い肌に汗を流し、無理やり走らされたことにぶつくさと文句を垂れていた魔女ルシア。


 しかし加護の件を話した途端に顔つきが変わり、好奇心に満ちた眼差しを向けてきた。


「…もちろん、重要なことは話しませんよ?」


「構いません。それで良いので、ぜひお聞かせ願えませんか?――英雄殿の加護、ぜひお伺いしたいです」


 ランランと眼を輝かせ、口元に笑みさえ浮かべる白き魔女。まさに好奇心の塊だ。


 本当に研究が好きなのだろう。


 そんな彼女に大事な部分はぼかしつつ、僕は伝えた。


 なんか最近。ムキムキしていることを。なんか加護を使う度に体が鍛えられていることを。


 ルシアは僕の話を熱心に聞く。


「ふむふむ。…ちょっと手を握りますね…魔力を通して感覚を共有…パスは通りますね…ほう?…これは面白い…なるほど。…はい、もういいですよ」


 魔女ルシアが僕の手を握る。彼女の繊細な、それでいてべっとりと汗まみれの手の感触になんだか妙な気分になりつつ、僕は彼女の診察を受ける。


「卿の加護の詳細まではわかりませんが、ただ魔王を斃すほどの力ですからね。本来、肉体の負担は過剰なほど大きいはず。にも関わらず卿の体は無傷…ふふ、面白いです…ではまず結論だけ言いますね。ネトラレイスキー卿…あなたの体は…」


 僕はルシアの言葉を待つ。どうやら何かわかったようだ。僕の体になにがあったのだろう?


「尋常でないくらい鍛えられてますね。体そのものは健康なので特に問題はないですね」


「はい?」


 なんだか予想と違って、あっさりした回答だった。


「鍛えてるって、どういうことです?別に僕、筋トレなんてしてませんけど?」


「はは、これは筋トレでどうにかなる次元の話ではないですね。おそらく加護を使用して戦闘をしたことで、尋常ならざる負荷が肉体にかかっていたのでしょうね」


 ――これほどまでに過剰な力をもって戦いなどしたら、本当なら体が千切れますよ?とルシアは言う。


「魔王を滅ぼせるほどの強さです。そんなとてつもない力を持って戦うなんて、肉体の限界を越えています。それが可能なのは、加護の力によって卿の体が保護され、再生されているからでしょうね」


「はあ、再生ですか?」


 なんのこっちゃ?


「わかりやすく言ってしまえば、魔王を滅ぼすほどの強力なトレーニングをしつつ、同時に加護の力で肉体が癒されることで、尋常でないくらい強力な筋トレと超回復を繰り返している、その結果として肉体がパワーアップしている、ということでしょうか?」


「そ、そうなんだ」


 確かに冷静に考えれば、あんな激しい戦い方をして体が無事なわけないもんな。そっか、戦いで傷ついた肉体が加護の力で癒されていたのか。


 人間の体というのは超回復をすることで鍛えられるという。それを加護のアシストで行っていたということかな?


「…あれ?つまり僕の体は、どうなってるってことですか?」


「だから、とんでもない筋トレをしているだけってことですね。ムキムキしているのは単純に鍛えられてるだけですね」


「へえ…、じゃあ、副作用とか無いんですか?」


「なんですか副作用って?体がムキムキになる副作用っていったら、筋肉が嫌いな女の子にモテなくなるとか、そんな感じですか?」


 …ああ、うん、そうなんだ。なーんだ、心配して損した。


「なら、これからも加護を使用しても問題ないのですね?」


「そうですね。現状を見る限り、ただ肉体が鍛えられてるだけなので、別に問題ないのでは?」


 そ、そっか。そーなんだー。


 ふぅ。よかった。てっきり僕が加護を使用する度に僕の体が変異しているのかと思った。


 どこかの吟遊詩人が語る物語のごとく、力を使えば使うほど肉体が化け物になるとか、そういうことではなさそうだ。よかったよかった。


 そっか。そうなんだ。ただムキムキしている、それだけだったのか!よかったー。これで心気なく加護を使用できる!


 まあ、使用する度に寝取られることに代わりはないのだけどね。


「…しかし、そうですね、副作用もなしにあれだけの力が入る…とても興味深いです…一度私もじっくり観察してみたいですね」


 と、魔女は澄んだ瞳で僕をじっとりと観察する。その眼はとても人類を救った英雄に向ける目ではない。どちらかといえば実験用ホムンクルスを見る目に近い。


「ねえ二ムロット。私も次の戦争に参加…」


「ダメです。狙われたらどうするのですか?自重してください」


「くぅ、せっかく良い実験データが取れると思ったのに…なんでダメなのです!」


「戦闘中にデータとか取られると邪魔になるからです。前回、怒られましたよね?戦ってる最中に味方に威力鑑定魔法使うなって…今は戦争に勝つことを優先してください」


「はあ。これだから凡人は。いいですか?魔法の発展と人類の存続、どっちが大事なのですか?」


「人類の存続に決まってるでしょ。優先順位間違えないでください」


 導師というのは魔術国家にとってかなり地位の高いもの授けられる称号と聞いていたのだが、ふむ。あまり良い扱いではないようだった。


 そのあとも魔女ルシアと二ムロットとの間でいろいろ論戦が繰り広げられていたが、最後まで断られ続けたことでルシアは不貞腐れるに至った。



 …一方その頃。


 ミルアドとカルゴアの国境沿い。


 ミルアドより派遣された魔族軍が駐留するその場所に向かう軍団が一つ。


 カルゴアの軍旗とは別に、白い旗を掲げるその軍団はゆっくりと戦意が無いことを伝えるように魔族軍に向かっていた。


 やがて魔族軍とカルゴア軍、双方より代表者が国境付近に近づく。


「では停戦交渉を致しましょう」


「うん?お前、女か?」


 カルゴアの護衛兵を背後に控えさせ、一人の女が魔族を前に出る。


「お初にお目にかかります。わたくし、カルゴア王女のシエルですわ」


「ほう。王族自ら出てくるとはな。――バカにしてるのか?」


 いくら王族といえど見た目はただの女の子。とても大事な交渉の場に出てくるのに相応しい人物とは思えず、馬鹿にされたと思ったのか魔族から殺気が漏れる。


 その圧力に押されるようにシエルの護衛兵たちの顔が歪む。その中で一人だけ、悠然と構えるシエルだった。


「ふふ。そのようなことは決してございませんわ。これは友好の証。カルゴア王家も本気で停戦を望んでいる覚悟の証としてわたくしを使者として選んだのです」


 スラスラと語るシエルの言葉に、魔族もそれもそうか?と納得する。


 確かに交渉の場ということを考えれば王女は相応しくない。だが、誠意という意味ではこの上ない人選かもしれない。


 なにしろ一国の王女。それも人類軍最後の拠点となるカルゴアの王女だ。


 既に信頼関係なんて無に等しい人類と魔族との間において、停戦なんて本来ならあり得ない。


 しかし王族自らが危険を省みず前線に来て交渉をするというのであれば――それは本気で停戦する意思があるとも汲み取れる。


「では停戦の条件を教えて頂けますか?」


「う、うむ。これが我々の条件だ」


 魔族の使者はシエルへ封書を渡す。


 シエルは自分の倍以上の大きさのある魔族を相手にまるで怯むことなく、堂々と、それでいて優雅に封書を受け取り、その場で読む。


 中身を開き、視線を動かす。やがて視線を上げて魔族を見ると、優しく微笑む。


「承りました。そちらの要望はすべて飲みましょう。七日以内に人類軍、カルゴア軍、両軍をシス砦まで後退させましょう」


「ほう。ずいぶん物分かりがいいだな?」


 シス砦は国境よりかなり後方にある砦。そんなところまで軍を後退させたら、さすがにミルアドからの魔族の動きを警戒することはできなくなるだろう。


 もしも再び魔族に進行されたら、そのまま首都まで攻められかねない。


 どう考えても譲歩し過ぎだ。しかしシエルは悲しそうな表情を浮かべる。なんなら目尻に涙さえ浮かべる。


「もう耐えられないのです。傷つく民、苦しむ民、とても見てられません。それはあなたがた魔族の方々に対しても同じです。これ以上戦争で多くの人々を不幸にさせるわけにはいきませんわ…戦争は、とても悲しいです」


「ほう?」


 魔族は目の前の女を見下す。この女、もしかして平和ボケした馬鹿なのか?と脳裏に一瞬、考えが過る。


「わたくし、今回、あなた方の申し入れには感謝しているのです。あなた型のような平和を望むが悪いことをするなんて決して思ってもいません。兵を引くのは信頼の証です。どうか我々の信頼、受け取っていただけないでしょうか?」


「ふ、ふふ、ああ、いいぜ。では交渉は成立だな?」


「はい!もちろんでございますわ!」


 やがて双方がサインをすることで、魔族とカルゴアとの間に停戦条約が結ばれることになる。


 魔族からすれば、人類軍を後方まで戦わずに追いやることができるわけだから、万々歳の成果だろう。


 まさに意気揚々と自軍のところへ戻っていく魔族の使者。


 そんな使者の後ろ姿を見送りながら、シエルはサラサラと書を認める。


「それは停戦の布告書ですか?」


 背後に控えていた護衛騎士がシエルに語りかける。シエルはそんな騎士に笑みを浮かべ、


「そんなわけないでしょ?どうせすぐ破る停戦合意なんて布告する意味があります?これは開戦の布告ですわ」


 ――魔族に地獄を見せてあげますわ、とシエルは嗤う。

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