第45.5話 真の『正義』を知りまして
――ヴァイス視点にて記す。
アヴェルナの街の片隅にある、半ば朽ち果てた神を祭る聖堂。
そこに、一組の男女の姿がある。
一人は『正義』を砕かれ、仲間に見捨てられ、装備も全て奪われた哀れな男。
もう一人は、この聖堂の主でもある、儀式杖を持った女性神官だ。
哀れな男の名はヴァイス。
女性神官の名はリシェラ。
少し前に、とある場所で出会ったこともある二人。
だが、そのときにはヴァイスはそれなりの装備を整えた立派な剣士だった。
しかし今は、何もかも失ってただただしょぼくれるばかりの、見すぼらしい姿だ。
聖堂に連れてこられた彼は、リシェラに借りた布で頭を拭いたところだ。
季節は春。しかし、土砂降りの雨は気温を下げ、今は少し肌寒い。
ヴァイスは身を震わせる。
だが、その震えの原因は寒さだけではあるまい。
失ったもの。
装備と、仲間と、己の『正義』。
そのうち、装備はまだいい。
買い換えたばかりだが、替えがきく。全然、問題にはならない。
仲間から見捨てられたことは、彼に大きなダメージを与えていた。
長い間を共に過ごしたライドリィとレベッカ。
そして自分の思想に共鳴し、賛同してくれた『英雄派』の冒険者達。
彼らから見放された事実は、ヴァイスにとって四肢をもがれるに等しかった。
ただ『痛い』で済む話ではない。今の彼は、一人ぼっちになってしまった。
それでも――、それでも死ぬほどではない。
仲間を失ったことは辛く、苦しく、叫び出すほどの痛みだが、まだ心は死なない。
問題は、ヴァイスが『正義』を見失ってしまったということ。
仲間達の『正義』に賛同するのは簡単だ。
しかし自分自身は果たして何を正しいものとして扱ってきたのか。それを忘れた。
きっかけは、あのギルド倒壊の騒動時。
そこにいた魔族を目にしたとき、ヴァイスは激情に駆られた。
魔族は、冒険者にとっての怨敵で、人類にとっての天敵。
それがこんな街中にいるなど、あり得てはならないはずだ。駆逐しなければ。
そのとき、彼が感じていたものは『正しさ』に起因する怒り。義憤。
ヴァイスは剣を抜き、魔族へと立ち向かわんとした。
それを阻もうとしたのが、ウォードだった。
魔族と自分の間に立った彼は、あろうことか両者の激突を止めようとした。
それは、許されることではない。
ヴァイスの心を燃やす義憤が、さらなる激しさを見せた。
と、同時に、そこに『魔』が差し込んだ。
――これはウォードを始末する絶好のチャンスなのではないか。と。
冒険者になった当初、ヴァイスはウォードを尊敬していた。
強く気さくで器も大きなウォードは、まさにヴァイスにとっての『英雄』だった。
だが、それは間違いだったと思い知らされた。
あの『邪神』騒動で。
結局はウォードも他の冒険者と同じ、金にたかるだけの虫けらでしかなかった。
命の火を燃やすべきときに逃げた腰抜け。
よりによって、魔王の生まれ変わりに街を託すような愚かな選択を是とする男。
彼は、そんな男を尊敬してた自分を恥じた。
そして同時に、ウォードに対して『裏切られた』という想いを抱いた。
ヴァイスの中には、最初からウォードに対する『殺意』が根付いていたのだ。
それが、あの瞬間に顔を出した。
魔族を止めようとしてウォードが自分に背を向けたときに、思いついてしまった。
今ならこの男を殺せるんじゃないか?
そして、気がつけば彼はウォードの背中に刃を突き立てていた。
その手応えはひどく固く、とても人の体とは思えなかった。
やはりレベル差がありすぎた。今のヴァイスでは、ウォードを貫けなかったのだ。
それでも魔族が術式を暴走させ、結果的にウォードは瀕死となった。
ウォードが生き残ったと聞いたヴァイスは、安堵半分、不安半分。
彼は、己のしでかしたことを恥じていた。
私怨のままに、恥ずべき男とはいえ同じ冒険者を後ろから刺してしまった。
その事実は本来、ヴァイスにとっては恥でしかなく、直後は深い後悔に苛まれた。
そして、この事実を他人に知られるわけにはいかないという思いにも駆られた。
その部分で、彼はまだ普通の人間だった。
いかに『英雄』ぶって高潔であろうとしても、人は人であることをやめられない。
結局はそこを突かれた。
あの、魔王の生まれ変わりに。周りに魔族を侍らせている、冒険者の恥部に。
そして自分は、全てを失ったのだ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
聖堂にて、ヴァイスは全てを話し終えた。
己の『正義』、己の『罪業』、己の『喪失』、己の『悔恨』。その全てを語った。
「……今の俺に『正義』を語る資格はない」
うなだれて、向かい側に座っている女性神官の顔も見えない。
いや、見たくなかった。
憐れまれているかもしれない。嘲られているかもしれない。それが怖い。
全てをなくした今の自分は、ただ寒さに震えるしかないネズミも同然だ。
薄汚い罪にまみれ、卑しさに腐った心が放つ匂いに、誰もが遠ざかる下等な存在。
打ちのめされ、打ちひしがれ、自らを卑下するしかない今のヴァイス。
だが、そんな彼に女性神官がかけたのは、優しい一言だった。
「あなたは、清い心をお持ちなのですね」
「……え?」
意外過ぎる言葉に顔を上げれば、そこにあったのは憐憫でもなく、嘲笑でもない。
ヴァイスに対する敬意に溢れた、リシェラのまなざしであった。
「リシェラさん……」
「そんなに怖がらないでください」
呆気にとられているヴァイスに、リシェラは微笑みを浮かべる。
その笑顔は強い慈愛を感じさせて、ヴァイスはドキリとする。
「やはり、あなたは私の見込んだお方です」
「それは……」
リシェラの呟きに、ヴァイスは数時間前の彼女との再会を思い出す。
あのとき、リシェラは確かに、自分のことを『勇者』と呼んだ。
自分が『勇者』?
この、罪の汚濁にまみれ、卑劣な手段に手を染めた許されざる男が『勇者』?
あり得ない。
それは、天地がひっくり返ってもあり得ない話だ。
ヴァイスは知っている。
この世界における『勇者』は、人が認めただけではなることができない。
百八柱の神のいずれかに認められ『使命』と『加護』を授からなければならない。
それは、人が得られる称号の極み。
存在としてはもはや半神とも呼ばれるべき、大いなる力を持ちし存在。
何より『勇者』とは『正義』の体現者だ。
どのような事態が起きようとも決して揺らがない、絶対の『正義』を抱くもの。
神の代理人にして、弱き人々の願いと希望の象徴。
それこそが『勇者』だ。
それこそがヴァイスが目指した『正義』の果てたる理想像だ。
「俺は、見下げ果てた男だよ……」
ヴァイスが、力なく笑う。
かつて強い輝きを放っていた瞳は、ドロリと濁って見る影もない。
しかし、その瞳を、リシェラが覗き込む。
「それはあなたが、ご自分の手でご自分の『正義』を穢したからですか?」
「ああ、そうだ。俺は抱いた恨みのままに、やってはいけないことをした。罪を犯したんだよ。そんな男が『正義』を標榜していいのか? いいはずがないだろう……」
このまま、両手で頭を抱えたい気分だ。
だが、リシェラは、そんな彼の右手を両手で包むようにして握る。
柔らかくて、温かい手だった。
「可愛らしい人」
「……何だって?」
何を言われたのか、一瞬わからなかった。
可愛らしい? 自分が? この、薄汚い罪人が、可愛らしい?
「こんなときに何の冗談だ? やめてくれ、笑える気分じゃないんだ……」
「ええ、そうでしょう。けれども、的外れな自責の念に苦しまれている姿が、ついつい可愛らしくて、そのように言ってしまいました。お許しくださいね」
「ま、的外れ……!?」
さすがに、その言葉は聞き捨てならなかった。
「待ってくれよ、リシェラさん……。的外れとは何だ? 俺の何が――」
「あなたがなさったことは、何一つとして間違っておりません。なのにあなたは、それを『正義』にもとる卑劣な行為だといって、苦しんでおられるではありませんか。それこそ、的外れでございますでしょう? あなたは、何も間違っていないのに」
「バカな……」
自分は正しいと言ってくれるリシェラを前に、ヴァイスは半ば自失する。
間違っていない? 全て正しい? 今、こうして苦しんでいることが、的外れ?
「ぁ、あなたは……」
かすれた声で、ヴァイスはリシェラに確かめる。
「俺がやったことは、正しかったと言うのか? 俺が、あの人を背中から刺したことも、間違っていなかったと? ……それは、正しい行いだった、と?」
「ええ、そうです。あなたは間違っておりません」
リシェラの返答は、確たる自信に満ちていた。
それを、ヴァイスは信じられない思いで聞いている。
「ヴァイス様。あなたはただ『より大きな正義』をなそうとしただけなのです。その結果、今のあなたには受け入れがたい行ないをした。それだけに過ぎません」
「より大きな、正義……?」
「考えてみてください。何故、あなたは彼を刺したのですか? 何故、あなたは彼に恨みを抱いていたのですか? 何故、あなたは彼に裏切られたと思ったのですか?」
「それは、そ、それは……、ァ……」
問われて、見つめられ、ヴァイスは思い返す。
どうして自分はウォードを刺したのか。どうして彼に殺意を抱いたのか。
答えは、明白だった。
「あの男が、魔族を庇おうとしたからだ……。魔王の生まれ変わりを、肯定していたからだ。そんなことは、あっちゃいけない。そんなことは、そんなことは……ッ!」
「――あなたは正しい」
彼の濁った瞳に光が戻りかけた瞬間、その言葉は意識にスルリと入り込んできた。
「そうです。あってはならないことなのです。人が魔族と手を取り合うなど、魔王が人に受け入れらるなどあってはならないこと。それは禁忌を越えた邪悪そのもの」
「そうだ。その通りだ。ォ、俺は、俺は……」
「あなたは正しい」
二度目のその言葉はヴァイスの心のより深い部分に入り込んでいった。
そして、苦悶し続けている彼の魂に、甘い甘い金色の蜜のような救いをもたらす。
「仮にその男が死んだとして、それは悲しいことですが、しかし世界の平和と人々の救済を第一に考えるならば、それは必要な犠牲だったということなのです」
「必要な犠牲、より大きな『正義』……」
「千人を救うために一人を犠牲にするのは仕方がないことです。百万人を救うために千人を犠牲にすることも仕方がないことです。一国を救うために街一つを犠牲にすることも仕方がないことで、世界を救うために一国を犠牲にすることも仕方がないことなのです。だって、邪悪とは、そこまでせねば滅ぼし尽くせないものなのですから」
「そうだ、邪悪は滅さねばならない。何を犠牲にしても、邪悪は滅さねば……!」
半ば真っ白になっているヴァイスの意識に、リシェラの言葉が深く浸透していく。
語られる価値観は、彼の『正義』とも非常に合致している。
だからこそ、高すぎる親和性に逆にヴァイスの意識が染め上げてられていく。
「『勇者』様」
まばたきもできなくなったヴァイスに、リシェラが倒れ込むようにして抱きつく。
マヒしかかった意識の中、彼は首筋にかけられる彼女の熱い吐息を感じる。
「あなたこそ、私が、そして私の信ずる『神』が待ち望んでいた御方。どうか、私を受け入れてくださいませ。私に、あなた様のお手伝いをさせてくださいませ」
「ぉ、俺は、ゅ、う、しゃ……?」
「そうですわ。あなたこそ『大鎌の神』に見出されし、私の『勇者』様です」
そしてリシェラは、ヴァイスの唇に自分の唇を重ねた。
直後、細まっていた彼の瞳がカッと見開かれて、その両腕がリシェラを抱き返す。
そのまま、二人はもつれ合うようにして、床に倒れ込んで――、
「……ぁ」
朽ちた聖堂の中、男女が睦み合う音は雨音にかき消され、外には漏れなかった。
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