第10話 ジュピターと妻の出会いは呼び寄せられるように……(後編)



「雑巾お持ちしましたー――あっ!!」


 案の定戻ってきた彼女は早々に俺の濡れたズボン目掛けて躓いた。

 雑巾を持つ手が俺の命にクリーンヒットしそうになったが、俺は予想していたので避けた。


「ぎゃん!」


「あっ……済まない、大丈夫か?」


 何が済まないのかは謎である。彼女が勝手に転んで俺が身の危険を感じて避けただけなのだ……


「そ、そんな……私が転んだだけなので。本当にドジですみません、今日は何だかやけに滑るというか……」


「今日は、なのか?」


「いや、確かにいつにも増してドジだな……まぁ、今日は仕方ないか」


 店主が訝しげに頷いた。

 俺は直ぐに店内が滑る理由に気がついた……店内の床がツルッツルなのだ。


「いやぁ、客が少ない時間帯にワックスをかけておいたんだが、まさか昼間に酒場に食事を取りに来るやつがそんなに居るとは思わなくてなー。すまんな」


 そう、店内に客が居ないのは酒場だからだ。んで、人の少ない時間帯にワックスをかけていたのはしょうがない。酒場は夜中が本番だからな……店主も悪くない。


「そうだな、誰も悪くないな。ズボンが濡れた事については気にしないでくれ。直ぐに魔法で乾く」


 俺は乾燥魔法で服を乾かした。初級のポピュラーな魔法なので誰にでも使えるのだ。


「騎士様なのに魔法が使えるのですね」


「ん? いや、この位誰でも使えるだろう」


「え? そうなんですか? 私、あんまり魔法が得意じゃなくて……あ、でも私、こういう魔法だったら使えますよ」


 そう言ってマリーゴールドは小さな魔法陣を描いた。

 魔法陣に包まれた胡桃が粉々に割れる。


「私、こういう粉砕の魔法は得意なんですよ……と言っても料理に使える位しかならない小さな魔法陣しか作れませんが」


「そうか……」


 何故だろう。何故か嫌な気持ちになった。彼女は何も悪くない。ただ、料理にしか使えない魔法を持っているだけの事。それ以上でも何でも無いはずなのに……


「騎士様も何か潰したい物とかありますか?」


「ある訳無いだろう。使わなくて大丈夫だ、床も滑るし慎重に動いてくれ」


 俺は料理もしないので潰したいものなど何も無い。恐ろしい事を言わないで欲しい。あと、床が滑りやすいから絶対に今は使って欲しくない。


「そうですか、必要になったらいつでも言って下さいね。あと、注文何にしましょう?」


「必要になる事は絶対に無いだろう……とりあえずこの暖かいスープを」


「かしこまりましたー」


 そう言ってマリーゴールドは店の奥へと消えていった。


 その後姿を見送りながら俺はボーっと考えていた。

 ここ最近、仕事が忙しくて騎士になってからも冒険者時代も、こんなにも気になった女は居なかった。

 冒険者時代にそういう店に旅先で行った事も無い訳ではなかったのだが……冒険や以来以上に夢中になれる事など無かったのだ。

 とは言え、気になるとかドキドキするのもこれ絶対に違う意味である。

 俺は彼女の一挙一動を追いかけていた。それも違う意味だと思う。


「お待たせしましたー!」


 その、妙に気になる彼女は確かにスープを持ってきた。スープを入れた小さな片手鍋はグツグツと沸騰していた。――鍋ごと? あとそんなに暖める必要ある?


「今日は特別冷えますので、暖かいうちに食べて下さいねー」


「いや、せめて皿にうつしてくれ――」


 彼女は案の定ツルッツルの床に足を取られて躓いた。迫り来るあっつあつの鍋、スープ。

 それらは一直線に俺に向かっていた。正確には俺の的に。正確に。


「あぶな――」


 その時、俺は迷った。俺が避けるのは簡単だが、下手したら彼女が火傷をしてしまう……

 とは言え直撃は火傷どころでは済まない……

 どうしたら……俺は第二部隊でも使わないような精度の高くて緊急性の強い判断力を迫られた。


「――っ!!」


 俺は思い出したようにスキルを使った。俺が流星と呼ばれる所以……

 周りの空気が夜のように暗くなる。その中で動けるのは俺だけだった。

 彼女を助け起こし落ちかけた鍋の中身を全て掬い取る。はっと気がついた腕の中の彼女は俺をチカチカとした目で見つめた。


「す、すごい……今、流れ星みたいだった……」


「ん? ああ……スキルだ。そう呼ばれる……滅多に使わないというか、こんな所で使うとは思わなかったが」


 いつも先々を判断をし石橋を叩いて渡るような性格の俺は冒険者時代も騎士の仕事でも殆どスキルを使うことは無い。まさか、自身の身の危険をこんな平和な国のど真ん中で女性相手に使うとは思ってもみなかった。


「そうなのですか……綺麗なのに。でも、滅多に見れないそんな綺麗なものが見れたのだったら、私は幸運ですね。ふふ、流星の騎士様」


 そう笑うマリーゴールドに少しドキリとした。何故だろう……


「ありがとうございます、さぁスープを召し上がってください」


 そう言って彼女は、自身で作ったらしきスープを皿に移すと俺の前に差し出した。少し時間が経ったせいかスープは良い位の温度になっていた。


「美味しいよ」


「わぁ……えへへ、良かったら夜も営業していますのでまた是非寄ってくださいね」


「ああ、仕事帰りに……寄らせて貰うよ」


 こんなに落ち着いて食事を取るのも久々だった。違う意味で疲れもしたが、第二部隊での疲弊感はいつの間にか消えて無くなっていたので、疲れた帰りはまたこの酒場に寄るのもいいかなと思い始めた。


「あー、マリー! あいつが出たぞ! 何とかしてくれ!!」


 店主が奥から叫ぶと、つるっつるの床を這って現れたのは――誰もが忌み嫌う、下手したら魔獣より恐れられているあの黒い、アレだった。


「あっ! また出たんですね!! 任せて下さい!!」


 そう言って彼女はあの黒い虫を退治するべくいつも使っているらしき武器を出した。トゲトゲが凶悪な……モーニングスターだった。


「いや……いくらなんでも虫相手に凶悪すぎないか……?」


「いえ、それ位私達飲食業には大敵なんです!!! たーーーー! ――あっ!!」


 そう言ってモーニングスターを振りかぶるマリーゴールドは、やはりつるっつるの床に足を取られれて躓いた。



 マリーゴールドに対する、身の危険のドキドキ……それはこの出会いからずっとジュピターの胸を掠め、遠征に出ても度々思い出し……ついには四六時中彼女の事を考えるまでになったとか何とか。

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