第33話

 しばらくして茶の支度と共に戻って来た藍子を交じえ、当たり障りのない話で盛り上がる。殆どは藍子の伏丘に対する愚痴だったが、からっとした口調に湿度はなく、聞いていても暁子のように傷つくことはなかった。

「じゃあ、悪いがちょっと」

「いえ、妻も同席でお願いします」

 やがて切り出した伏丘に、真志は遮るように返す。伏丘は驚くように私を見たあと、藍子だけを出て行かせた。

「見せびらかすために連れてきたんじゃなかったわけか。まあ確かに、お前は見せびらかすより」

「やめましょう」

 再び遮った真志に笑い、伏丘はポケットから煙草を取り出す。最初の煙を吹く頃には、あの頃を思い出す顔つきに戻っていた。

「で、なんだ」

「九月上旬に、女性が風呂で死亡した案件を担当しまして」

「ああ、旦那が自殺で決着したヤツだろ。あれ、お前だったか」

「はい」

 答えた真志に少し目を細め、柄悪くまた煙を吐く。まるで関係のない私まで居住まいを正すほど、空気がひりついた。

「ちっと手え回すのが遅かったな」

「すみません。ただ、あれは旦那が犯人じゃないんです」

 張り詰めた空気を裂くように、真志は単刀直入に告げる。伏丘は驚いたような表情を浮かべたが、すぐ煙草に戻って促すような視線を真志に投げた。

「あの事件は最後まで給湯システムの事故か事件かで捜査を続けてましたが、それはどちらであっても不可解な点があったからなんです。そこで給湯システムを調査したセンバの技術者が、二年前に似たような事故を起こしたメーカーにヒントを求めて問い合わせをしました。その結果、奇妙な点が一致していることに気づいたんです」

 伏丘は頷くだけで応え、ローテーブルの下から出した灰皿に煙草を弾く。分厚そうな爪が黄色く染まっているのは、煙草のせいだろう。野太い、ずんぐりとした指だった。

「どちらの件でも、被害者は首吊り用の紐を準備してから風呂に入り、熱湯で煮られて死んでいました。一方、俺も四年前に同じように釜で煮られて死んだ男性の事件を思い出して調査しました。切り刻まれて民俗資料館の釜で煮られて死んでいたものの、釜の外で血痕が一切見つからなかったお蔵入りの案件です。そちらも、やはり首吊り紐を準備したあとで死んでいました」

「共通点があったってことか」

 今年六十七だと聞いたが、さすがの貫禄だ。おかしいだのなんだの騒がないのは、伏丘自身にも経験があるからだろうか。

「はい。九月上旬と二年前の現場となった家屋に使われていた古材の一部、四年前の事件は解体現場から盗んだ釜、これらの出処が同じでした」

「どこだ」

「伏丘さんの、ご実家です」

 真志の答えに、煙草を咥え掛けた指が止まる。一瞬で真志に流れた視線は、睨むようなものに見えた。

「先日、ご実家の解体作業を請け負ったとこの社長を殺人未遂でしょっぴきました。その時に問い質して吐かせたから確かです。古材を横流しして、小遣い稼ぎしてたんです」

「……跡形も残すなと言ったのに」

 溜め息交じりに零してちゃんと咥え、また溜め息と共に煙を吐く。

「で、それがどう、旦那が犯人じゃねえ理由に繋がるんだ」

 煙草を挟んだ指先で額を掻きつつ、真志に尋ねる。私に視線を向けた真志に頷き、唾を飲んだ。

「ここからは、私がお話します。大変不躾ですが、奥様に『逃げられた』というのは、本当ですか」

「本当だ。仕事にかまけて放ったらかしにしてたら、逃げられたんだ。三十年くらい前にな。まだ帰って来てねえし、もう帰って来ねえだろう」

「ユキエさんは伏丘さんのご実家でみんなに暴力を振るわれながら、最後まであなたに迎えに来て欲しいと願ってたのでは?」

 逃げられた夫の顔で流そうとした伏丘に、事実を突きつける。伏丘は、はっきりとした驚きを浮かべて私を見据えた。

「夫が、九月の事件現場から連れて帰ってきたんです。ユキエさんは、もうとっくに亡くなっています。伏丘さんのご家族が」

 そこまで口にした時、何かに勢いよく背を突き飛ばされて前につんのめる。手を出したはずなのに何にも触れられず転がって、目の前が一瞬暗くなった。

「……どうして、来てくれなかったの。私があんなに苦しんで、何度も迎えに来てって、電話したのに」

 私ではない女性の声に目を開くと、さっきより近くに強張った伏丘の顔があった。驚いて振り向くと真志と、その隣に私がいた。……いや、私ではない。姿形は私だが、もっと物憂げで生気を感じられなかった。

「澪子!」

「奥さんは、少し出て行ってもらった。返して欲しかったら、私をあの家があった場所に連れて行って」

「本当に……ユキエか?」

 尤もな問いを投げた伏丘を、ユキエは力のない昏い目でじっと見つめる。

「私を山瀬やませから助け出してくれた時は、本当に感謝した。もう一度、人生をやり直す機会を与えてくれて。でも結局、ろくでなしの種類が変わっただけだった。金を搾り取る男から、命を搾り取る男に。私がどんな風に死んだかは知らなくても、死んだのは分かってたでしょ。誰が、殺したのかも」

 淡々と語られる話は、二人しか知らないことなのだろう。伏丘は歪めた表情を隠すように顔をさすり上げる。ユキエの隣で、真志も背を丸めて頭を抱えた。刑事が殺しを見逃したのだから、当然だ。

「話してあげるから、全部。だからあの場所に連れて行って。じゃないと、この人も私と同じように」

「連れて行く! 連れて行くから、返してくれ」

 弾かれたように顔を上げて訴えた真志にも、ユキエは冷めた表情を変えなかった。

「かわいそう、奥さん。こんな男が食いものにしていいような人じゃないのに」

 嘆息交じりに返したあと、憐れむように私を見る。私が、見えているのか。

「ユキエさん」

「行きましょ」

 私を見据えたまま腰を上げたユキエを、私のものではなくなった私の体を、じっと見上げた。

 腰を上げた真志にユキエが続き、最後に煙草をにじり消した伏丘がのろりと続く。私達を出迎えた時の穏やかな笑顔とも刑事に戻ったかのような人相とも違う、憔悴しきった顔だった。

 伏丘は階段から二階にいるらしき藍子に「ちょっと出てくる」と告げ、玄関へ向かう。はーい、とどこかから答えた藍子の声に、ユキエは足を止めてじっと上を見た。藍子も、許せないのだろうか。

「やめろ、あいつは関係ないだろう」

 表情を変えて戻って来た伏丘を、ユキエは黙って見つめる。

「……悪いのは、俺だ」

 伏丘は低い声で告げたあと、また戻って行く。ユキエはもう一度見上げたあと、大人しく続いた。藍子はヒロムが、熊に殺される前に誰かを嬲り殺していたなんて知る由もない。ただ「かわいそうな父親」に思慕を抱く藍子にユキエが複雑なものを抱く気持ちも、分からないではない。

 ふわふわとその最後に続いて玄関を出たところで、ユキエが足を止めた。

「鉈を貸して」

 ユキエの要求に、男二人が固まる。早く、と催促する声に、伏丘は庭の奥にある古びた物置を開けた。手にして戻って来たのは、柄の白木もまだ新しい、冴え冴えとした刃の鉈だった。

「その人は傷つけるな。何も関係ないだろう」

 渋る伏丘の手から鉈を奪い取って、ユキエは薄く笑む。伏丘に辿り着くために、無関係な人間を四人殺しているのだ。今更、躊躇うとは思えない。

「行きましょう、伏丘さん」

 促す真志に、伏丘は俯いてまた歩き出す。肩を落とす丸いその背を眺めながら、ユキエの隣を浮いて進む。救われて欲しいと思ったが、どうすればいいのかは分からなかった。

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