第32話

 翌日、約束を取りつけた真志と共に伏丘の家へ向かう。

「伏丘さんは、姪と二人暮らしでな。昔、例の事件のあと出てきた兄の子供を引き取ったって聞いたことがある。認知してなかったから、いろいろ大変だったらしい」

 ハンドルを繰りつつ、いつもよりきっちりとスーツを着込んだ真志が伏丘について語り始める。

「そのお兄さんが、ヒロムさん?」

「当時の記録ではそうだな。印象が違うか?」

「ううん。ユキエさんのことも物みたいに扱ってそうな感じだったから、さもありなんって感じ」

 丁重に扱う人間ならユキエがあんなにいやがることも、怪我を負わされるようなこともなかっただろう。

「ただ内容が内容だし、私は必要な時まで口を挟まないよ。あなたが進めてね」

 いきなり押し掛けてユキエの霊だのなんだの言ったところで、夫婦まとめて不審者扱いされるに決まっている。

 真志は、ああ、と答えて次の角を曲がる。伏丘の家は市街地を出てしばらく、隣町へ向かう道の途中にあるらしい。住宅より緑が増え始める辺りだ。小学校や公園も見えるから、子供は育てやすい場所だろう。

「ここだな」

 まばらに並ぶ民家の一番端に視線をやり、隣の空き地に車を止める。車から降りて確かめた家は、モルタルの壁もくすんだ小さな一軒家だった。

「ここにユキエさんも住んでたのかな」

「いや、若い頃は市内に住んでたとか言ってた気がする。姪を引き取ってから買ったんじゃねえか」

 頷いて、家へ向かう背に続く。真志の手には、一升瓶を入れた袋が握られていた。

 芝生も枯れた小さな前庭を左右に眺めつつ玄関へ辿り着く。脇に植えられたサザンカは、鮮やかなピンクの花をいくつも咲かせていた。

 真志がチャイムを押すと、すぐにドアが開く。

「あらあ違った、お客さんだわ、藍子あいこちゃん。なら、帰るわ」

 驚いた私達を確かめて、老婆は奥へと声を掛けた。気をつけてね、と明るい声を背に受けつつ、代わってドアを預かった真志に礼を言って外へ出る。

「どうもどうも、お邪魔さんでした」

 手編みと思しきニット帽を被った頭を小刻みに下げて、帰って行った。

「すみません、どうぞ、近所の方が野菜を持って来てくださって。折辺さん、ですよね?」

 聞こえた詫びに視線を戻し、玄関へ入ったあと改めて挨拶を交わす。藍子は三十前半くらいか、ショートカットのよく似合うこざっぱりした女性だった。

 招き入れられて玄関を上がり、案内でリビングへと向かう。

「叔父さん、喜んで昨日からずっと折辺さんの話ばかりしてたんですよ。あの年で警部補なんて一握りだって」

「伏丘さんのご指導あってのことですよ。私に刑事のいろはを叩き込んでくれた人ですから」

 よそいきの顔に同席するのは結婚の挨拶以来か、猫を被った姿には慣れない。

「それも言ってました、俺が道つけてやったんだぞって。折辺さんは、自慢の後輩なんですよ」

 だから十年前も真志の身代わりになったのだろう。あそこで挫折していれば、今とは違う人生を歩んでいたかもしれない。どちらが良かったのか。

 藍子は伏丘を呼びながらリビングのドアを開ける。向こうで、ああ、と声がした。

「よく来たな、折辺」

「ご無沙汰してます。昇進の報告に来ようと思ってたんですが、遅くなってしまってすみません」

「気にするな、忙しくしてるんだろう。で」

 ソファから腰を上げた伏丘は、笑顔で真志に答えたあと私を見る。十年前はそれこそヤクザと間違えるほどだった人相が、驚くほど穏やかになっていた。肝臓の悪そうな顔色は気になるものの、まるで憑き物が落ちたかのような変わりようだ。

「ご無沙汰をしております。その節は大変お世話になり、ありがとうございました」

「こちらこそ、折辺が世話になってるようで。まあどうせこいつのことだから、仕事仕事で放ったらかしてるんだろうけど」

「勘弁してください、連れ戻したとこなんです」

 痛いところを突かれて、真志は私が事実を口にする前に白状した。

「やっぱり逃げられたか、お前も」

「もー、笑いごとじゃないよ。私だって結構根に持ってるんだからね。奥さんなら尚更だよ」

 くすんだ歯を見せてからからと笑った伏丘に、藍子は私達にソファを勧めつつ口を尖らす。

「叔父さん、私を引き取ったはいいものの満足に世話できなくて、近所の人達に頼りっぱなしだったんですよ。さっき来てたおばあさんは、そのうちの一人なんです。本人は学校行事なんかにもぜんっぜん来なくって」

「悪かったって言ってるだろ。ほら、茶を頼む」

 伏丘はバツが悪そうに返して藍子を促し、再び向かいのソファに座った。

「悪いな。しゃきしゃきしたばあさん連中に育てられたもんだから、負けん気が強くて。三十過ぎてんのに、まだ貰い手がねえんだよ。黙ってりゃ器量は悪くねえのになあ」

 ドアが閉まるのを待って、ぼやくように言う。

「うちに、忙しすぎて婚期逃しそうな若いのが残ってますけど」

「いや、あいつに刑事の嫁は無理だ。喧々文句言って、余計帰ってこねえようになる」

 言わなくても、全く帰って来ませんけどね。

 笑みで隣を見上げると、真志は眼鏡を外して眉間を揉んだ。

「この話題はやめましょう。俺が血を吐きます」

「弱えなあ。まあ拝み倒して来てもらった恋女房だ。俺みたいに逃げ切られねえように大事にな」

 核心に触れた言葉だったが真志は踏み込まず、「肝に銘じます」と殊勝なふりで流した。

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