第31話

「エリの話をした時に、『不祥事を起こしても出世できるのか』って俺に聞いたの覚えてるか」

「ああ、うん」

 やがて口を開いた真志は、久し振りの名前を口にする。真志の情報源かつ私と付き合う前の彼女で、私と付き合うために捨てられたあと、残忍な方法で殺された女性だ。改めて思い出せば、胸が冷える。

「あそこで繋がってるのがバレたら、この早さではまず無理だった。俺の代わりに、被ってくれた人がいたんだよ。俺が刑事課に来て一番最初に組んだ、刑事のいろはを叩き込んでくれた先輩だ。死んだ伯父の後輩でな。この店に泥棒が入った時にも一緒に来てた。覚えてねえか、年配の」

「覚えてるよ。泥棒が入って警察呼んだはずなのに、怖い人達が来てびっくりしたもん。みかじめでも取りにヤクザの人が舎弟連れて来たのかなって……」

「俺は怖くなかっただろ」

「怖かったよ。インテリヤクザみたいだった」

 二人揃って目つきが悪く、特に年配の刑事の方は苦虫を噛み潰したかのような渋い顔していた。名前は確か。

伏丘ふしおかさんだっけ。珍しい名前だったのは覚えてる」

「そう、その人だ。エリが殺されたって分かった時に相談したら、『俺に任せてお前は口を開くな、俺はあと数年で定年だから』って言われてな。俺の代わりに処分を受けた」

 そんな身代わりが可能なのか私には分からないが、真志が警部補なのが「可能だった」証拠だろう。真志は障りを背負っていないのに具合悪げに姿勢を崩し、顔をさすり上げて息を吐く。

「その頃、よく言われてた。『お前は俺と似てるから気をつけろ、嫁に逃げられるぞ』ってな。自分は若い頃に逃げられてそれきりだと言ってた」

 まさか。ようやく繋がった鈍い頭に、真志を見つめる。

「三十年前に熊に襲われた家は、伏丘さんの実家なんだよ」

「じゃあ、あの人の奥さんがユキエさんだったの?」

「多分、そうなんだろうな」

 真志は暗い声で答え、更に背を丸めて頭を抱えた。やはり、「わたしといっしょ」はそういうことだったのか。よく似た刑事の夫に、放ったらかしにされている妻。

「ユキエさんが殺されたって、家族が殺したって……知らないの?」

「聞かねえといけねえんだろうな、全部」

 低いところから、声は苦しげに漏れる。初めて見るどん詰まりの姿に、手を伸ばす。頭を抱えたまま動かない手に、そっと重ねた。

「私も、一緒に行っていい? ユキエさんが会いたがってるし」

 控えめに尋ねると、少しの間を置いて頭が起きる。

「なんでまだ憑いてんだ」

「あっ」

 しまった、つい。

 失言に気づいて口を押さえた私を、鋭い視線が刺す。万事休す、か。

「……ごめんなさい。まだ、出して……ません」

 ぼそぼそと白状すると、険しい表情が驚きに変わる。この数ヶ月の関わり方で迷いが出た、と言い訳が浮かんだ時にはもう、腕の中にいた。

「あのタイミングで出してねえんなら、俺はもう無理だぞ」

 熱っぽい声に目を閉じ、長い息を吐く。腕は抱き締め直して、力を込めた。

「帰って来い」

 絆されそうになるものを抑えて、薄く目を開く。

「それはまだ、ちょっと怖い。信じたいし、信じようとしてるけど……『信じてる』って、あなたみたいに言い切れない」

 昔は、どうやって信じていられたのか。少しずつ疑うことに囚われて、今は抜け出せなくなってしまった。

「もう少し、この距離でいさせて」

「仙羽とは、どうなってる」

 真志が、少し硬い声で問い質すように聞く。途端に傷口を開く胸に、溜め息をついた。

「実家に縁談を持ち込まれて外堀埋められたけど、それを理由に『会いたくない』って言ってからは会ってない」

 でも、このままではいられない。決着をつけなければ、私達は終われないのだ。

「二度と会うな」

「でも」

「会うな」

 短く繰り返された禁止に、仕方なく頷く。もしかしたら、会わないようにしなくても「会えなくなる」かもしれない。もう、二度と。

 沈む一方だった意識を引き戻す感触に、視線を上げる。

「何してるの」

「いいだろ、手が勝手に動くんだよ」

 服の下を這う手が、冷えた空気を内へ呼び込む。小さく身震いすると、寒いか、と当たり前のことを聞いた。

「寒いし、作業場だし」

「二階ならいいのか」

「そういうことでも、ないんだけど」

 言い終える前に担ぎ上げられた体に、諦めの息を吐く。こうなったら、もう無理だろう。

「単身赴任中も、したい時しか帰ってこなかったしね」

「そうじゃねえよ」

 真志は私を担いだまま狭い階段を上がりながら、否定する。

「あれは、仕事に侵食されすぎてどうでもいいもんまで疑うようになったら帰ってたんだよ。コンビニ入って、そこにいる人間が全員なんかの容疑者に見えるようになったらな」

 それももちろん、初めて聞く話だ。

「お前の顔見て障り取ってもらって、抱いたらリセットできた。憑いてるもんのせいもあったんだろうけど、帰った日と戻る日の手の温度が違ってな。初めて気づいた時は、冷血だの血が通ってねえだの言われんのも仕方ねえと思ったわ」

 皮肉っぽく続いた内容に、視線を落とす。でも「捜査のためならなんでもする」から、私達やほかのもっとつらい思いをした被害者が救われたのかもしれない。うちは売上金数万の被害だったが、命を傷つけられた人だっているはずだ。大切な誰かの命を奪われた人も。間違った方法でも、あと一歩踏み出せば救えるのなら……どうなのだろう。私には答えが出せない。

 真志は黙った私を連れて部屋に入り、常夜灯の下で組み敷く。逃げるわけもないのに、強く握られた手首が痛い。

「そんなに力を入れなくても、逃げないよ」

 緩んだ拘束から抜け出し、真志の眼鏡を外す。触れた頬が温かくて、ほっとした。引き寄せた手に体は素直に崩れ、重みが重なる。シャツ一枚になった寒々しい背を抱き締めた。

「私、あなたに『好き』って言われたことないの、分かってると思うけど。あの手この手の表現で言い換えて一度たりとも言われたことないの、分かってると思うけど」

「二度も言わなくても分かってる。苦手なんだよ」

 うんざりしたように言い返されるのも、分かっていた。

「だから、ちゃんと口にしてくれる人に揺れるのかと思ったんだけど」

 溜め息交じりに零すと、胸の辺りまで下りていた頭が戻ってくる。常夜灯の下でも分かる炯眼に苦笑して、頬を包むように触れた。

 確かに揺れはしたが、揺れてみて分かったこともある。思い知ったと言うべきかもしれない。金と贅沢では埋められなかった穴も優しい言葉と愛情でなら満たされるような気がしていたが、それだけではだめだった。

「あなたに言われないと意味がないの。私が好きなのは、あなただから」

 少し震えた語尾を飲み、じっと見つめる。真志は長い息を吐いたあと、また体を崩した。

「相変わらず、根こそぎ持ってくな」

「言わない方が良かった?」

 再び下りていきながら、服の下に手を滑らせる。脱がさないのは、寒がったからだろう。

「どうだろうな。どのみちもう俺に離婚の選択肢はねえよ」

「離婚届、私が持ってるけど」

「出しても受理させねえようにできる」

 腹を温める息に、少し伸びた七三を崩す指先を止めた。そんなことができるのか。

「職権濫用?」

「そんな権力ねえよ。あるんだよ、そういう制度が。養子や結婚、離婚なんかの一方的な届け出を防ぐためにな」

 確かにストーカーが勝手に婚姻届を出したり、浮気相手と結託した夫もしくは妻が離婚届を出したりする可能性はあるだろう。

「じゃあ、浮気して妻にバレた人は出しといた方がいいんだね」

「してねえぞ」

 思いついたシチュエーションを口にしただけだったが、真志は我が身のものとして否定する。そういえば、そこが絡まったままだった。

「その話だけど、私、勘違いしてた。ユキエさんの『わたしといっしょ』は夫が刑事で自分を放ったらかしってことだったのに、最初の頃はお風呂で亡くなったあの女性と一緒って解釈してて浮気を疑ったから」

 たくし上げられたスカートに、小さく震える。やっぱり、寒くて無理だ。待って、と体を起こして押し入れに向かう。

「まあ、心情的には限りなく黒に近いグレーだけど」

「してねえ」

 背後の声に苦笑しながら襖を引くと、ユキエの生首と目が合う。驚いて短く息を詰めた私に、ユキエは薄く笑んで口を開く。

「わ、たしと……いっ、しょ」

 呟くように零したあと、大人しく消えた。まるで嘲笑うかのような。

「どうした」

 後ろから絡んだ腕に、詰めていた息を吐く。

「なんでもない。もうちゃんと敷いてしまおうかと思って。あなたは」

「泊まってく。明日、一緒に伏丘さんとこに行けばいい」

 首筋に触れる唇から逃げたくなることはないが、割り切ったはずの迷いが蘇る。

「待って、布団」

「次からでいいだろ」

 私とは違う迷いのない手で歪められる胸に溜め息をつき、目を閉じた。


 初めての告白は、意識が途切れそうになる頃に小さく聞こえる。ずっと聞きたかった言葉に、汗ばんだ体を抱き締めた。

――わ、たしと……いっ、しょ。

 耳に残るユキエの声は警告のように聞こえたが、振り向いてももう戻る道は見えない気がした。

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