六、

第30話

 黒々とした障りに飲まれた真志が姿を現したのは、十二月最初の金曜だった。

 店のドアを叩く音に怯えつつカーテンを引いたらどす黒い障りが見えて、思わず小さく悲鳴を上げてしまった。

「新しい現場にでも入ったの?」

「いや、書類仕事をこなしながら例の仕事を追い掛けてただけだ。月曜辺りからじわじわ来てるのは感じてたけど、今日の仕事終わりにお前のあれが切れた。その瞬間から、このザマだ」

 苦しげに息を吐く真志に肩を貸して作業場まで連れて行き、迷わず障りの泥濘へと手を突っ込む。

――分かったよ、しばらく来ない。会いたくなったら連絡して。

 縁談を勝手に持ち込んだことを理由に会いたくないと告げた私に、泰生はあっさりと踵を返して出て行った。あれが、土曜の夜だった。

 片手では追いつかない状態に両手を背中に押しつけ、しぶとく真志を包もうと蠢く障りの消滅を祈る。

――亡くなったのよ。原因不明の病気で、中学の頃に。お義母様もその数年後、だったかしらね。

 真志の姿を見た時から、アラートのように母の声が脳裏で繰り返されていた。

 まさか、そんなわけはない。そんなことができる子じゃないのは、私が一番よく知っている。こんなことをするはずが。

――――澪ちゃん、ずっと一緒にいようね。約束だよ。

 障りに蝕まれていったあの子達は、私のせいではなかったのか。

 両手でも追いつかない増殖に、真志が呻いて姿勢を崩す。だめだ、このままだと負けてしまう。唇を噛んでしぶとく残る思いを断ち切り、腹に息を落として覚悟を決めた。

 これが死者の念でなく私に消せるものでないのなら、残された道はこれしかない。

「戻れ!」

 うねる障りを見据えて言い放った初めての言葉に、澱みがふっと緩む。次の瞬間天を突く勢いで噴き上がり、砂塵のように散った。

 ああ……本当に、「そうだった」のか。

 震える息を吐いて、真志の背に凭れる。溢れ出るものを堪えきれず嗚咽を漏らす私を、久しぶりの腕は何も聞かず抱き締めた。


 ひとしきり泣いて落ち着いたあと、ようやく触りの消えた真志と向き合う。でもいつもの様子とは違う、迷いと憔悴が透けて見えた。

「どうしたの? いつもと違う」

「あれが憑いてたせいだろ」

 洟を啜りながら尋ねた私に、真志は鼻で笑う。

「もう消えたから違う」

「お前と別れたからじゃねえのか」

「違う。私のことじゃ、あなたはこんな風にはならない」

 たとえ碌に会わなくても、十年も妻をしていたのだ。自分にそんな力がないことは、誰よりも分かっている。言い切って見据えた私に、真志は眼鏡を外して眉間を揉んだ。

「仕事、クビになりそうなの?」

「不吉なこと言うな。そうじゃねえよ、ただ」

 言葉を濁したあと、眼鏡を掛け直して長い息を吐く。

「……こんな話、お前以外にはできねえしな」

 諦めたように零して、ネクタイを緩めた。

「釜茹で事件の釜、仕入先を教えてくれって息子に頼んでたんだよ。被害者には、昔から古民具の収集癖があったらしくてな。まともに交渉して譲り受けてくるならいいけど、ゴミ捨て場や解体現場から勝手に持ち帰ってトラブルになったこともあったらしい。仕入帳を探して見てもらったら、四年前の『K、T県山奥で拾得』がそれじゃないかって。『K』が釜、『T県』はうちだな」

「拾得って、つまりは盗品?」

 イニシャルにするくらいだから、後ろめたさがあるのだろう。それなら記入しなければ良かったのではないだろうか。まあそのおかげで、私達は助かったが。

「だろうな。あんなでけえもん、昼間にふらっと行って見てねえうちに持ち帰るってのは無理だ。噂を聞いて下見して準備整えて、夜こっそり盗んだんだろ」

「普通に、交渉してもらえばいいんじゃないの?」

「交渉したらタダでもらえなくなる可能性もあるし、断られた時に盗んだら足がつく。経験で学んだんだろ」

 いがらっぽい咳をした真志に気づいて腰を上げ、冷蔵庫へ向かう。

「でもそれで、『よし盗もう!』ってなる?」

「なる奴がいるから警察がいるんだよ」

 確かにそうか。ドアポケットから紙パックのトマトジュースを引き抜いて戻り、差し出す。真志は鼻で笑って受け取り、ストローを差し込んだ。

「で、古材の出処の方だけどな」

 飲み終えた紙パックを握り潰して切り出し、溜め息をつく。

「業者のファイルを漁って四年前の仕事をチェックしたら、同じ時期に隣町の山奥で民家の解体作業を請け負ってた。社長も数日前に市内で引っ捕まえてな」

「市内にいたの?」

 ひしゃげた紙パックを受け取りながら、驚いて聞き返す。こんなところに、人を殺そうとした人間が潜んでいたのか。どこかですれ違っていたかもしれないと思うと、ぞっとする。何もしなければ何もされない、は必ずしも正解ではない。

「ああ。女に会いに来たとこを押さえた。通報があってな」

「……その女の人から?」

「そうだ。三歳の子供がいるシングルマザーでな。匿ったのがバレたらしょっ引かれるから、男より子供を選んだんだ」

 ああ、と選択の理由に納得して頷く。たとえ犯人が子供の父親であろうと、そこは蹴り出すところだろう。

「男の方は、呆然としてたけどな。まさか裏切られると思ってなかったんだろう。おかげで『思い出させる』のも楽だった。件の解体作業で出た高く売れそうな古材を数本、売っ払ったのを認めたわ。釜が勝手に消えててぞっとして、数本だけにしたんだと」

「四年前なのに、よく覚えてたね」

 解体業者の仕事が年に一件なんてことはないだろう。釜が消えていたにしても、四年前の解体をそんな鮮明に覚えていたのか。

「三十年前に、一家三人が熊に襲われて死んだ曰くつきの家だからな。両親と息子が、裏山から下りてきた冬眠前の熊に食い殺された」

 あの男性と声だけ聞こえた女性、そしてユキエの義兄であるヒロムか。その頃にはもう、ユキエは殺されていたのだろう。でも、それなら。

「ユキエさんのことは、どう扱われてたの?」

 当然、気になるのはそこだ。完全犯罪が行われたにしても、ユキエの姿がないのをどう夫や周囲は納得したのか。

 尋ねた私に、真志は少し表情を苦しげに歪めて俯く。憔悴の原因は、そこにあるらしかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る