第29話

 玉止めをして糸を切り、一息ついた時には夜になっていた。暗い部屋に今更驚いて腰を上げ、照明を点ける。あんな暗い中でどうやって作業をしていたのか不思議だが、作業中にはちゃんと「見えていた」のだ。

 遅れて空腹と喉の乾きを感じた体に従い、台所へ向かう。戸棚を開けて取り出したカップ麺を数種類並べ、塩焼きそばを選んだ。

 電気ケトルに水を入れ、スイッチを入れる。あとはインスタントの味噌汁でも、と再び戸棚へ向かい掛けた時、背後に久し振りの気配を感じる。

 爪先から這い上がった寒気が突き抜けるのを待って、長い息を吐く。同調も同情もするなとは言われたが、どうすればいいのだろう。もう飲まれたくはないが、対話はしたい。

「あなたが見せてくれたことは、そのまま夫に伝えたよ。あなたに何があったのか、もう少しで明らかになるから」

 ひとまずは冷静に、今の状況だけを伝えていく。電子ケトルの中で、ぼこぼこと低い音が立ち始める。

「あなたは、夫に頼まれて義実家へお義兄さんの世話を手伝いに行った。でもお義兄さんはもちろん、義父母もあなたにつらく当たった。あなたはそれを夫に訴えたけど、仕事の忙しさを理由に、夫はなかなか会いに来てくれなかった。そのうち、あなたは何か人に……夫にかな、知られたら困るようなことをしてしまった。それで、自殺を考えたの? 殺されてしまったのも、その『知られたら困ること』が理由? ともかく、彼らは何らかの理由であなたを殺してしまったあと、犯行を隠蔽するためにあなたを……切り刻んで、釜で煮て、捨てた」

 これまでの情報を継ぎ合わせ、今の時点で考えられるストーリーを伝えてみる。

「あなたの望みは、彼らが捕まって正しく裁かれることでしょ。それは今」

 いつかのように気配はすぐ傍まで迫る。ユキエの顎が、肩に乗ったのが分かった。小刻みに肌が粟立ち、息が浅くなる。同調も、同情もしない。

「私に何かあったら、あの人は捜査をしなくなる。それで一番困るのは、あなたでしょ?」

「……あい、たいの」

 ぎこちなく零して、気配はすぐに散った。

 電子ケトルのスイッチが切れると同時に、緊張感の糸も切れる。座り込んで冷えた扉に凭れ、長い息を吐いた。

 会いたい、か。

 早く捕まえて殺して欲しいのが殺した連中で、会いたいのは夫。仕事を理由に会いに来ない夫か。苦笑して体を起こし、ゆっくりと腰を上げる。塩焼きそばの容器の蓋を途中まで開け、熱湯を注いで三分待つ。

「私が似てるんじゃなくて、夫が似てる……」

 ふと思いついたことはあったが、振り切るように顔をさすり上げる。まさか、そんなことはないだろう。もしそうなら、とっくに裁かれているはずだ。だから、そんなわけがない。

 結論づけて手を下ろし、鳴る様子のない携帯を眺める。

 籠目紋を編み込んだあのミサンガは、退院前に真志の手首に収まった。一定の効果があるのは分かったから、今回は疑いの念を排してひたすら無事を祈りながら編んだ。多分前回の二本よりしっかりと真志を守る一方で、私に何かあればまた千切れて知らせてくれるだろう。

 三分経過を知らせる音に湯切りをし、蓋を剥ぐ。白く立ち上る湯気の中にソースを流し入れて、掻き回す。思い出してインスタントの味噌汁も準備し、ダイニングテーブルへ運ぶ。慣れ親しんだ、一人の夕食を始めた。

 揺れた携帯に箸を置いて確かめると、泰生からのメッセージだった。

 『もうすぐ着くよ』

 確かに「また週末に来るよ」と言って帰って行ったが、火曜日に別れたばかりだ。この週末に来るとは思わなかった。

 離婚届を受け取ったことは、まだ誰にも話していない。真志が話したかどうかは確認していないが、話していたら。「あまり会いたくない」と浮かんだのは、正しいことなのか。答えを出せずにいる間に、表でドアを叩く音がした。

 少し躊躇ったあと表へ出て、泰生の影を写し取るカーテンを引く。ガラスの向こうに立つ泰生は背後から光を浴びて、影に沈んだ顔は表情が見えない。どんな顔で迎えていいのか分からないまま、鍵を開けた。

「いらっしゃい。ごめんね、今週末だと思わなかったから塩焼きそば食べてた」

「そっか。ごめん、来る前に連絡しておけば良かったね」

 泰生は中に入ると、鍵を掛けてカーテンを閉める。

――自宅で襲われるパターンの加害者は、殆どが顔見知りだぞ。

 なぜこんな時に思い出すのか。そんなこと、泰生に限ってあるわけがない。

「泰生くん、おなか空いてる? インスタントで良ければしょうゆラーメン、とんこつラーメン、担々麺、ソース焼きそばがあるけど」

「じゃあ、担々麺をもらおうかな」

 コートを脱ぎながら続いた泰生は、いつもどおりの笑顔で応えた。

 安堵で頷き、奥へ入る。雑多なダイニングテーブルの上を片付けて戸棚から担々麺と味噌汁を取り出す。電気ケトルにまた水を追加して、スイッチを入れた。

「体調は大丈夫?」

「うん。もう塩焼きそばを食べられるくらい元気だよ」

 泰生は古びた椅子に腰を下ろし、セーターの袖をたくし上げる。幼い頃の姿がふと呼び起こされて、笑った。

「何?」

「ちょっと、小さい頃そこに座ってた姿を思い出して。ほんと大きくなったね」

 子供の頃は座っても背もたれが見えたのに、今はすっかり背に隠されている。

「澪ちゃんは昔からきれいな子だったけど、予想どおりの美人に育ったね」

 懐かしそうに目を細める泰生に、今日で袂を分かった妹とのやり取りを思い出す。

「今日、暁子が電話かけてきたの。お母さんが連絡したみたいで」

「そっか、大変だったね」

 内容を話さなくても、そこだけは分かっている相手だ。

「初めて、胸の内を聞いたの。子供の頃から自分は頑張らないと見てもらえなかったけど、私は何もしなくても見てもらえてたって。暁子の目から見た私は、『なんの苦労もなく欲しい物を与えられてた姉』だったみたい。私の力のことを知らないから、泰生くんはなんにもしてない私を気に入ったって思ってたよ」

 知らなければ「ない」のと同じに見えるのは、仕方のないことだろう。ましてや、子供だ。「ほんとは何かあるのかもしれない」と想像するのは難しい。

「その言い方だと、その力がなかったら澪ちゃんのこと好きになってないみたいじゃない?」

 泰生は当事者として口を挟み、組んだ手をテーブルの上に載せる。

「その力に助けられる前から好きだったよ。あと、その力があるから更に好きになったわけじゃない。苦しんでる俺をどうにか助けようとしてくれた姿に、更に好きになったんだ」

 明かされていく恋の内側に、むしり取った担々麺のフィルムを手の内で小さく丸めながら返答を迷う。こういう時は、どう答えればいいのだろう。

「何もできなくても、何もしないではいられなかったんでしょ。俺は勝手に、その思いが力を目覚めさせたんだと今も信じてるよ」

 確かにあの時は、助けたくて必死だった。何かできるかなんて分からないまま、手を伸ばした。

「俺を生かしてくれたのは、間違いなく澪ちゃんだ。澪ちゃんはいつも俺が元気でいることを何より望んで、喜んで……それ以上のことは、何も求めなかった」

 不穏な色を断つかのように、電気ケトルのスイッチが切れる。広げた手のひらで息を吹き返したフィルムを捨て、次の作業へ移った。

「母親は酒に飲まれながら、俺が力をつけて父親の鼻を明かす日を待ってた。俺が自分に代わって父親に復讐する日をね。俺を通して見ているのはいつも父親で、俺じゃなかった。求めるばかり、奪うばかりで何も与えてくれない人だった。辟易してたよ」

 湯気を噴き上げる熱湯を注ぎ入れながら、泰生の人生に張りついた暗がりを聞く。

 私が彼女の止まらぬ飲酒を知っていたのは、泰生が話してくれていたからだ。あとは誰も、おそらく全てを知っていたであろう祖母や母も「まるで何も起こっていないかのように」触れなかった。天上界では取り扱いかねる話題だったのだろう。そして同じく天上界の住人だった、泰生の祖母にとっても。

 結局最期まで、泰生は「病院に行ってる」とは言わなかった。つまり、孝松の家は適切な対処ではなく無視を選んだのだ。センバという大企業の妻となった誇らしい娘の挫折を、なかったことにした。私が本当の死因を知っているのも、泰生に聞いたからだ。表向きの理由は自殺ではなく、心不全だった。

「だから何も求めずただ助け続けてくれた澪ちゃんが、俺は泣きたくなるほど好きだった。同じくらい好きになって欲しくて、気に入られたくていろんなことをしたよ。迎えに行ったり一緒に帰ったり、とにかく喜ぶ顔が見たくてね。喜ばせていれば、俺だけを見てくれるんじゃないかと思ってた」

 カウントダウンを続けるタイマーを眺めながら、人工的な器の中で味噌を溶く。立ち上る香りは少しだけ、胸を救ってくれた。

「でも、澪ちゃんは変わらなかった。だって俺が元気でいればもう、澪ちゃんの願いは叶ってたんだから。でしょ?」

「その辺は、自分では分かってなかったよ。でも、泰生くんは初恋の相手だった。いつも優しかったし、普通に『おめでとう』って誕生日を祝ってくれるのが、本当に嬉しかった」

 一足先に出来上がった味噌汁を前に置くと、泰生は礼を言って笑む。

「嬉しいな。初めて報われた気がするよ」

「ごめんね、もっとちゃんと言っておけば良かった」

 言わなければ伝わらないのに、伝わっていると思っていたのだろう。子供の浅はかさだが、今も似たようなものかもしれない。

 やがてカウントダウンを終えたタイマーに、担々麺の蓋を剥いで泰生の前に置く。手を合わせる泰生を眺めながら、向かいの席へ戻った。

「で、暁子ちゃんは? ごめんね、話の腰折っちゃった」

「いいよ。あとはもうそんな大したことじゃないの。アメリカ来て愛する人達に囲まれて、今は幸せなんだって。ようやく私に勝てたと思ったら、急に私がかわいそうになって電話したみたい」

「相変わらずだね」

 泰生は、赤く染まる担々麺を拭き冷ましながら苦笑する。

「言えなかったこと言えてすっきりしたかって聞いたら『そういう気取ったところも嫌い』って言うから、私も『何言っても素直に謝れば許されれると思ってるその傲慢さが嫌い』って言い返して切った。多分、もう二度とかけてこないよ」

「そっか。言い返したの初めてじゃない?」

「うん。びっくりしてたよ。『言い返せない』んじゃなくて、『言い返さない』だけだったのに」

 乾いて固くなった麺をほぐし、口へ運ぶ。ぼそぼそとした麺を噛み砕いて、冷めた味噌汁を飲んだ。

「でも暁子の思ってたことが知れて良かったよ。私に劣等感を抱いてたなんて、全然気づかなかったから。完璧な大人はもちろん子供なんか存在しないって分かってるはずなのに、私の中では暁子はずっと『みんなから愛される完璧な妹』だった。で、暁子の中では私はずっと『何もしなくても全てを与えられる姉』だった」

「俺は?」

 泰生は短く尋ねて、温められたらしい体に洟を啜る。

「『ちょっと抜けてるところはあるけど、すごく優しい子』だった。鷹揚でね」

 頷きながら答えた私に、小さく笑った。

「何?」

「いや、ちゃんと見てくれてたんだなと思って。見せたいところだけを」

 引っ掛かる最後に、最後の麺を咥えたまま視線を上げる。

「今日、ホテル取ってないんだ。泊めてよ」

――澪ちゃん、ずっと一緒にいようね。約束だよ。

 思い出されたあの声を、私はどんな表情で受け止めたのか。泰生は昏い目で笑み、また麺を啜った。だめだ、やっぱり怖い。

「それなら、泊まって。私は、家に帰るから」

 二度目に浮かんだ感覚をごまかせず、強張りそうな表情を隠して腰を上げる。逃げるように、空容器を手にシンクへ向かった。

「冗談だよ、ちゃんと取ってある。これ食べたら行くよ」

 続いた声に安堵した時、背中に手が触れる。気配なく近づいた影は、ゆっくりと腕を回して私を抱き締めた。

「好きだよ、澪ちゃん。澪ちゃんが思うよりずっと」

 少しずつ下りてきた顔が、首筋に温かい息を吐き掛ける。指に伝う水が、小さく跳ねた。触れた唇に身を捩り腕を振り解いて逃げ、られるわけもない。

「ごめん。もう帰るから、逃げないで。今飛び出したら危ないよ」

 掴まれた腕に涙目で振り向くと、泰生が苦笑で詫びる。ゆっくり離れた手に溜め息をつき、震えた指で滲んだものを拭った。

 泰生は水栓を締めてテーブルへ戻り、容器と箸を手に再びシンクへ向かう。警戒心を捨てられず距離を取る私に構わず洗い終えて、タオルで手を拭った。

「じゃあ帰るよ、ごめんね」

 セーターの袖を下ろし、コートと荷物を手に表へ向かう。

「明日も来るけど、いやなら追い返して。好きだから、何もしないなんて嘘はつけないし」

 泰生はコートを羽織りつつ、カウンターより先に行けない私に告げた。どう答えればいいのか、まだ気持ちの整理が追いつかない。守られない一人は、こんなに心細いものだったのか。離された手の重みを今更噛み締めて、唇を噛んだ。

「じゃあ、俺が出たらちゃんと鍵閉めてね。おやすみ」

 私の動揺を掻き回すことなく、泰生はあっさりと暗がりの中へと消えて行った。

 すぐには近づけず、少し待ってから施錠に向かう。きちんと掛かったのを確かめてカーテンを閉め、長い息を吐いた。

 泰生のことは嫌いではない。ただ……時々なんとも言えないものを醸し出すのだ。どこか底の見えない、得体が知れない感じが。

 暗がりへ向かう思考を断つように、携帯が着信音を鳴らす。びくりとして取り出した相手は、母だった。無視したかったが、多分妹の援護射撃だろう。この際、母にもはっきりと言っておく方がいい。気合を入れるように肩で息をして、通話ボタンを押した。

 しかし母が告げたのは、妹などまるで関係のない「私と泰生の縁談」だった。泰生はここへ来る前に、実家で外堀を埋めてきていた。

「私、まだ離婚してないんだけど」

「でも、するんでしょう? 折辺さんにはそう伺ったけど」

 それを言われると、言葉に詰まる。既に離された手を断ち切れないでいるのは私だ。ユキエからの攻撃を防ぐために判を押してくれたのに、台無しにしているのは分かっている。でも。

 この二ヶ月ほどの間に、この十年になかったほどの会話をした。もちろん浮気疑惑は持ち上がったし、浮き彫りになった溝もある。最初から夫婦の体を為してなかったのも分かっている。ただもう一度。

――夫である前に人間として、俺はお前を信用してる。お前は、大丈夫だ。

 ……あと一度だけなら、信じてもいいのではないだろうか。

「あなたまさか、この期に及んでまだご迷惑をお掛けしてるの?」

「そうじゃなくて、いろいろあるの。だから、今は」

「いつまでそんな駄々を捏ねているの。とにかく、早く帰っていらっしゃい。一から教え直して、せめて泰生くんに相応しい妻として送り出さないとお里が知れるわ」

 いつもの母らしい面倒臭さに、溜め息をつく。今時「お里が知れる」なんて、どこの誰が使うのか。

「いいよ。なんでいちいちそんな大仰にしようとするの?」

「大仰じゃないでしょう、次の社長となる方よ? あなたはその隣に」

「ちょっと待って、『次の社長』ってどういうこと? 弟さんは?」

 気になる表現に驚いて尋ねると、母は深い溜め息をつく。

「あなたは本当に、昔から自分の世界に没頭してばかりで」

「説教はあとでいいから、何があったのか教えて」

 再び遮って要求した私に、本当にもう、と母は後ろめたそうな間を置いて口を開く。初めて聞いた内容に、凍った。

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