第28話

 病室で袈裟の補修はさすがに無理だが、ミサンガを編むくらいならできる。

 かけつぎの仕事を初めて知ったらしい担当の看護師もミサンガは知っていて、私も若い頃に作りました、とひとしきり盛り上がった。今回のミサンガも相変わらず黒一色だが、籠目紋を編み込んでいる。六芒星は魔除けに通じるらしい。

「これいいわねえ、リハビリになるわ」

 やり方を教えたらすぐに覚えた見舞いの叔母も、サイドテーブルの引き出しに片方を噛ませて基本の編み方で取組中だ。

「いいでしょ、無心でできるし」

「そうね」

 叔母は小さく答えたあと、しばらく黙って編む方に没頭した。

「あんたの親達は、離婚して帰ってきた時の挨拶回りについて連日話し合ってるわよ。どこから頭を下げに行くかと、理由をどうするかって。自殺未遂なんて体裁が悪いから、あんたに原因があって子供が出来なかったから引き取ったってことにするみたいよ。我が兄ながら、ほんと情けないわ。暁子のあの性格は、間違いなく父親譲りね」

 今は実家に居候の身だが、ストレスはそれなりに溜まっているらしい。叔母は自分で全部決めて生きたいタイプだから、父に依存し言いなりになる祖母と母に苛立つのだろう。

「私、退院しても実家は帰らないよ。直接店に戻る。本調子になるまでは店は開けずに、袈裟だけちまちま補修しとくから」

「それがいいわ。離婚してなかったら早く戻れって言うだろうし、離婚したら『出戻りなんてみっともない』ってどこぞのじいさんの後妻話を持ってくるだろうから」

「しそうだなー」

 苦笑しつつ、職人の速度で再び手を動かしていく。

「私は泰生くんとさっさとくっついて欲しかったけど、もう、どうでもいいわ」

 少しずつ出来上がっていく籠目紋を爪で整え、少し切羽詰まって聞こえた言葉の次を待つ。

「生きててさえくれば、どこで何してようと、もう」

 揺れた声に、ミサンガからぱっと手を離す。そうだ、自殺未遂が真実ではないと知っているのは真志と泰生だけだった。ほかの家族はどうでもいいが、叔母だけは。

「ごめんね、私」

「私がもっと、きちんとあんたの話を聞いてやっていれば、こんな」

「そうじゃない、違うの!」

 震える声で悔いを口にした叔母にたまらなくなり、ベッドを下りて長椅子の隣に座る。手を握り締め、叔母の痛みが癒やされるよう祈った。

「ごめんね。私、叔母さんにずっと黙ってたことがあるの。このことは、泰生くんと真志さんしか知らない」

 一つ深呼吸をして、怯える胸が落ち着くのを待つ。大丈夫、この人は私の「母親」だ。じっと窺う視線に、幼い頃から私を守り続けてくれた手を握り直した。


――そんな力があることには全く気づかなかったけど、別に驚かないわ。あんたは小さい頃から、針を持つと別人になってたし。感覚で仕事をするのは天才肌だからだと思ってたけど、そういうものとの繋がりが深いんなら納得ね。

 泰生の看病で目覚めたことから自殺未遂の真実まで詳らかに話しているうちに夜になってしまったが、叔母は訝しむこともなく受け入れて帰って行った。まさか職人としての仕事ぶりが説得力に変わるとは思わなかったが、叔母は腑に落ちたように何度も頷いた。

 こうして話したことで、新たな心配を与えてしまうのは分かっている。でも、あそこで「あったこと」にして抱き締めるなんてできなかった。

――お前はどんなに追い詰められても、救うカードが切れる人間だ。

 脳裏に蘇る声に半分まで編み終えた手を止め、引き出しの中から離婚届を取り出す。角の目立つ字で記された『折辺真志』と赤い印影を、じっと見つめた。


 退院は目覚めてから約一週間後、十一月最後の金曜日だった。

 予定どおり店に戻ったあと掃除をして、久し振りの作業に取り掛かる。ほかの仕事は全部叔母が仕上げてくれていたから、残されたのは袈裟だけだ。

 意識が回復したあと、病院から住職に連絡をした。迷惑を掛けた詫びと納期には影響ないことを伝えると、住職は「よく戻ってこられましたね」と穏やかな声で返した。

――闇の中で苦しみもがく者は、鮮烈な光には耐えられず背を向けます。一方でほんのりと照る光は心地よくて、救いを求めて飛びつくのです。本当の救いは鮮烈な光の中にあるのですが、彼らはそれを悟れません。己の知る、己が心地よいと思うものの中に救いがあると、「あって然るべき」だと思いこんでいる。自惚れと言うほかありません。

 続いた言葉は誰かを明確に指したものではなかったが、ユキエのことだろうと想像はできる。やはりあの時、進もうとした私を引き止めてこちらへ戻してくれたのは、住職だったのだろう。あのままユキエを救おうと追い掛けていたら、私の意識は二度と回復しなかったのかもしれない。

 自分にできることをしたいと思う気持ちは今も変わらない。苦しみの中で一方的に奪われた命が一日でも早く救われることを、今も祈っている。ユキエが本当の救いに気づくには、どうすればいいのだろう。

 金糸でほつれた唐草の蔓を補修し終えた時、携帯が鳴る。『暁子』の表示に無視すると、着信音はしばらく鳴り続けたあとで途切れた。ほっと安堵した瞬間、再び鳴り始めて諦めた。多分、出るまで鳴らし続けるつもりだろう。袈裟を置いて応えると、お姉ちゃん、といつもの大仰な声がした。

「お母さんに聞いてびっくりしちゃった、なんで死のうとしたの?」

「あなたには関係ないでしょ」

「関係なくないよ、妹だもん。死のうとする前に相談してくれれば良かったのに」

 一番相談したくない相手に言われるほど、萎えるものはない。

「お母さんは離婚で揉めてたみたいって言ってたけど、そこまで追い詰められてたんなら逃げれば良かったじゃん。命懸けて続けるような結婚でもなかったでしょ」

 胸をざわめかせる言葉に、携帯を握り直して溜め息をつく。少しずつ、胸の底がささくれだっていくのが分かる。

「最初から、どう見ても相性悪かったじゃん。あの人、お姉ちゃんの顔が良かっただけだよ。どこが良かったんですかって聞いたら、真顔で『顔です』って即答したし」

 それは、まともに答えたくなかったからだ。思い当たって、思わず苦笑した。

「小さい頃からさ、いっつも周りに『お姉ちゃん、きれいね』って言われてたの、あたし。小学校の時とか『姉ちゃん美人なのに、お前似てねえな』って男子にからかわれたりして」

 突然の昔話に驚いて、少し視線を上げる。残り一枚が近づくカレンダーの最後が、妹の誕生日だ。今年で三十二、だったか。

 確かにそんな風に褒められたことはあったが、それは顔くらいしか褒めるところがなかったからだろう。妹には常に多種多様な褒め言葉が注がれていたが、私は一種類だった。

「あたしは勉強や運動をがんばってアピールしてやっと見てもらえたのに、お姉ちゃんはいるだけで見てもらえてさ。めちゃくちゃ羨ましかった」

「さんざん『幸薄そう』『未亡人っぽい』って言われてきた顔だよ? お父さんには『顔に甘えて努力してない』とか『年を取ったら取り柄がなくなる』とか言われるし。気も弱いし引っ込み思案だし。ずっと注目されてきたのは、あなたでしょ」

「そうなるようにしてきたの。変わったことしなきゃ、がんばらなきゃ見てもらえなかったから!」

 思わぬ勢いで打ち返された主張に驚いて、黙る。妹がそんな焦燥を抱えていたと知ったのは、もちろん初めてだ。私のことなど、まるで目にも留めていないかと思っていた。

「……かけつぎは、お姉ちゃんがアピールしなくても叔母さんが勝手に見出してくれたんでしょ? 泰生くんも、仲良くなりたくてがんばってたあたしより、なーんにもしないお姉ちゃんを気に入った。あの人もどうせ、泥棒に入られて涙目になってただけのお姉ちゃんに一目惚れしたんでしょ。お姉ちゃんはいつもそうだもん、がんばらなくてもなんでも与えられる」

 かけつぎはともかく泰生と真志は違うが、問題はそこではなく、私が常にそうだと思われていた点だ。妹にとって私は「なんの苦労もなく恩恵を受けてきた姉」だったのだ。

 私はずっと「悪気がなく傷つけてくる妹」だと思っていたが、それは私の勝手な思い込みだったのだろう。悪気はいつも、ちゃんとあった。

「逃げるようにアメリカに来たけど、あたしを丸ごと愛してくれる人や子供達と一緒に暮らして今、幸せなの。やっとお姉ちゃんに勝てた気がする。そしたら急に、顔しか愛されないお姉ちゃんがかわいそうになって」

 いや、やっぱりないかもしれない。苦笑して、溜め息をついた。

「ずっと言えなかったことを言えて、すっきりした?」

「そういう、気取ったところも嫌い」

「私も、何を言ってもあとで素直に謝れば済むと思ってるあなたの傲慢さが嫌い」

 初めて口にした内容に、妹は黙った。まさか私に言われるとは思っていなかったのだろう。これまでは、何を言っても言い返さなかった相手だ。

「家族でも姉妹でも、合わないものは仕方ないの。無理して仲良くする、助け合う必要なんてない。私が死んでも帰って来なくていいから、そこで幸せに暮らして。じゃあね」

 短い挨拶を最後に、今日は自分から通話を終える。もう鳴りそうにない携帯を置いて、窓へ向かった。大きく開けた作業場の窓の向こうに見えるのは、細い通路と向かいの店の裏口だ。

 いつもと変わりない景色を眺めて、冷えた空気を胸に吸い込む。一応は姉妹ゲンカになるのだろうが、悪くはなかった。腹に一物抱え合ったまま消化不良で死ぬよりは、多少痛んでも刺し合って消化した方がいいのだろう。

――己の知る、己が心地よいと思うものの中に救いがあると、「あって然るべき」だと思い込んでいる。自惚れと言うほかありません。

 あの話に主語がなかったのは、ユキエだけの話ではなかったからか。生きていても死んでいても、私達は同じように自惚れる。

 言えなかったことを言ってからでも、遅くはないだろう。

 肌を刺す空気に窓を閉め、カーディガンの腕をさする。再び定位置に戻り、針を手に取った。

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