第27話

 滑り込んだ光に目を細めつつゆっくりと開くと、白い天井と長い蛍光灯が見えた。この光景には、覚えがある。ふっと何かが蘇ると共に、ピーピーと忙しない電子音が聞こえた。

 私は、まだ生きているのか。

 鼻の違和感に管だらけの手をもたげた時、足元の方で人の気配がした。


 私はあのあと、十二日間も眠り続けていたらしい。世の中は既に、今月二つ目の三連休へと突入していた。

「とにかく、無事で良かった。本当に心配したんだよ。おばさんから電話をもらった時、立っていられなかった」

 長椅子に腰を下ろした泰生は髭が伸び、少し痩せていた。顔色も悪いから、あまり寝ていなかったのだろう。

「ごめんね。来てくれてありがとう」

 意識を取り戻してすぐ病室に姿を現したのは、真志ではなく泰生だった。聞けば、倒れたと叔母に連絡を受けてすぐ有給を突っ込んで来たらしい。

「澪ちゃんが抱えてた仕事は叔母さんがほぼ仕上げて、俺が配達したからね。袈裟のことは、俺が寺に連絡しといた」

 叔母が、針を握ったのか。指先のリハビリを続けていたのは知っていたが、復帰はまだ先だと思っていた。

「叔母さん、大丈夫だった?」

「うん。俺も心配したけど、やっぱり職人だね。よっこいしょって座って針持った途端、震えてた手が止まって目つきがシャープになって。仕事が一番リハビリになるわって言ってたよ」

「そっか。でも、そうなのかもね。泰生くんも手伝ってくれて、ありがとう」

 仕事に穴が空かなかったのは何よりだ。新規客が多かったから、ここでつまずいたら次がなくなってしまうところだった。叔母と泰生には、感謝しかない。気になることは、あと一つだけ。

「それで……あの人は?」

「普通に仕事してると思うよ。あと、ごめんね。一発殴っちゃった」

 付け加えられた報告に、驚いて泰生を見つめる。泰生は苦笑して手の甲をさすった。もう痕跡は見えないが、その時には腫れていたのだろうか。

「斎木の家に詫びに行って、土下座したらしいよ」

 え、と思わず目を見開いたが、確かに事実を語れない相手だ。でも、泰生には言っても良かったはずだ。

「お医者さんや看護師さんには覚えていないって言ったけど、本当は覚えてるの。あの人がどう説明したか分からないから、齟齬があったら困ると思って」

 今度は泰生が驚いた表情を浮かべる。

「私は、ユキエさんに首を絞められてこうなったの。あの人は、何も関係ない」

 まだ力の戻らない体を起こしつつ事実を伝えた私をじっと見据え、やがて長い息を吐いた。

「離婚話で揉めて頭を冷やすために部屋に行って、戻ってきたら首吊ってたって話になってるよ」

「……そっか」

 確かにそれが、最善の策かもしれない。一緒にいて、この状態になったのだ。首吊りでなければ、「誰か」が首を絞めたことになる。

「実家は、おばさん曰く『死ぬほどいやだったなら言えば良かったのに』って空気になってるって。折辺さんの両親も頭下げに来たそうだから、今ならすんなり離婚できるよ。まあ、するつもりはないだろうけど」

 皮肉っぽく続けて、泰生はまた手の甲を撫でた。

「この状況で、澪ちゃんが離婚を選択できるわけがない。うまいね、殴らなきゃ良かった」

「そんなこと」

「考えないと思う? 刑事の頭だよ」

 確かに、そうかもしれないが。管の繋がるむくんだ腕を撫で、俯く。

「澪ちゃんは心で動くけど、あの人は頭で動くタイプだからね。計算なんてすぐできるよ」

「できるのは、仕事だけだよ。私生活も計算で動けてたら、私は今頃もっと幸せに暮らしてる」

 真志がそんな男なら、表面上だけでも取り繕って私の機嫌を取っていただろう。私が離婚を切り出さないように、適宜ガス抜きできるよう立ち回っていたはずだ。間違っても「通帳見りゃ分かるだろ」で別宅を借り続け、十年も放置するような真似はしない。それに。

 もし根っから器用な男なら、亡くなった伯父の記憶も思い出に変えて違う道を進んでいただろう。刑事の道にある意味「囚われてしまった」のは、変えて生きられなかったからだ。

「一緒に過ごした時間は短くても、一応は夫婦だからね。あの人の得手不得手は分かってる。そんなに器用な人じゃないよ。私が言えることじゃないけど」

 苦笑しつつ、私の中で唯一器用に動く指をさすりあわせる。私が器用なのは手先だけ、それは子供の頃から変わらない。

 泰生はしばらく黙って聞いていたが、やがて何かを諦めたように腰を上げる。

「目を覚ましたって、連絡してくるよ。澪ちゃんに聞いてからにしようと思って、まだしてなかったから」

「ありがとう」

 礼を言った私に何か言い掛けて、飲む。

「……信じて、裏切られるのは澪ちゃんだよ」

 溜め息のあと言い残して、カーテンの向こうへ消えた。


 障りをまとった真志が姿を現したのは、流動食で構成された夕食を食べている時だった。

 おかえり、と声を掛けた私に答えないまま長椅子へ座り込んで以来、まだ一言も声を発さない。頬の腫れは引いたのか、頬骨の辺りが少し黄ばんだように見える。

「コーヒー飲みたいけど、まだ無理なんだって」

 二週間近く動きの鈍っていた胃に刺激物はもちろん、いきなり固形物を流し込むのは良くないらしい。分かってはいるが、物足りなくはあった。

 食べ終えて手を合わすと、真志は立ち上がってトレイを手に病室を出て行く。運んでくれたのか。これまでにない気遣いに驚いたが、まあ、この状況なら動くのだろう。

 戻ってきた真志に礼を言うと、また黙って座った。仕方ない。

 一息ついて、意識のない間に見た夢について話すことにした。

「意識のない時、ユキエさんが誰かと電話してる場面を三回観た。一回目と三回目は夫で、二回目は実の母親だった。ユキエさん、夫の実家で同居……じゃないな。夫に頼まれたか何かで、実家に年単位で手伝いに行ってたみたい」

「やっぱりそうか」

 ようやく口を開いた真志は、納得したように頷く。ミサンガが二本ともなくなったせいで、障りは久しぶりの濃さになっていた。

「ひとまず、県内にヒロムとユキエが揃った家族がいねえか探したんだよ。いるにはいたけど、ユキエが生きてたりヒロムが子供だったりして条件が合わなくてな。県外か、なんらかの理由で住民票に並んでねえかだと見当はつけてた」

 事件のことなら話せるようだから、しばらくこの話を続けた方がいいだろう。

「夫は仕事が忙しいみたいで、あまり会いに行けてなかったみたい。一回目の電話で謝ってた。で、ユキエさんは多分、お義兄さんの世話をさせられてたみたいなんだけど、暴力があったんだと思う。三回目の電話で、瓶を投げられて脚が折れたかヒビが入ってるって夫に訴えてた。でも夫は義母に言って病院へ連れてってもらえって、電話を切った」

 突き放された時の、ユキエの絶望した様子が忘れられない。夫も実家の家族も、誰も助けてくれない、救いのない状況だった。

 振り返ってみれば、これまでユキエが怒りを露わにしたのは泰生が私を助けようとした時、「救いの手」が伸びた時だった。家族と分かち合えない時や真志に傷つけられる時には同調し、救い出されそうな時に「嫉妬」していたのなら、今回私の首を絞めた理由も納得がいく。ほかでもない、夫である真志に救われた私が許せなかったのだ。「わたしといっしょ」ではなくなった私が。

「そのあと義兄の世話に行くのをいやがったユキエさんを、多分義父が蹴り倒して首根っこを引っ掴んで引きずって行ってた。ユキエさんの悲鳴が聞こえたのが、最後だった」

 映画なら多少引きずっても元に戻れるが、あれは現実だ。あのあとユキエの身に何が起きたのか、想像はできてももう届かない手だ。

「最近、『どうしよう』って動揺してるユキエさんの夢を見てたの。誰かに何かを知られるのを怖がってるみたいだった。その理由は、あの映像では分からなかった」

「やり返した結果、怪我でもさせたのかもな」

 それに報復される形で、殺されてしまったのか。そして隠蔽するために、切り刻まれて。

 脳裏に響くユキエの悲鳴に、視線を落とす。あの暮らしに、救いはあったのだろうか。

「女性が死んだ家の新築と民泊の改築には、お前の予想どおり古材が利用されてた。工務店に売った店とそこに卸した業者、その業者に流した産廃業者の名前までは追えた。隣町の業者だったわ。ただ、社長が逃げて倒産しててな。令状出てるから、理由つけて探しやすくはなったわ」

 逮捕令状か。

「隣町の管轄だけど、先月酔って喧嘩した相手をぶっ刺して逃げてんだよ。殺人未遂に加えて廃棄物処理法違反と脱税で追われてる」

「不法投棄とか、そういうこと?」

 脱税はよく分からないが、不法投棄は田舎へ行くほどよく見掛ける。道路脇や谷に、タイヤや古びた電化製品が転がされているアレだ。業者が摘発されたニュースも、何度か新聞で読んだ。

「産廃業者は、受注した廃棄物を未処理のままほかの処理業者に回す『再委託』は基本的に禁止されてる。中抜きやピンハネの温床になる上に、不正業者の受け入れや不法投棄に繋がりやすいからな。それでもまあ、致し方のない面もあって目こぼしされてる部分はあるんだよ。ただ、目こぼしできねえレベルのことしてたのがバレたんだろ」

 殺人未遂の捜査をしていたら、芋づる式に悪事が出てきたのだろう。それが発覚するのを恐れたから、逃げたわけか。

「あと、破砕に回すべき廃材の類を売り飛ばしててな。例の古材はそれで流されたもんだろう。帳簿につけねえ裏稼業ってやつだ。それが脱税」

「叩けば埃が出る人だったんだね」

 一度踏み外すと罪の意識が薄れて、戻れなくなるのかもしれない。バレなければ許されたような気になって、何度でも繰り返していく。

「隣町の管轄に連絡して、俺も一枚噛んで仕事内容を洗いつつ社長を探してるとこだ。見つけ次第しばき倒……取り調べて必ず聞き出す。あの釜の方もそのうち分かる。だから」

 不穏な表現を言い換えたあと、真志は私を見る。

「お前はもう、実家に帰れ。今なら誰も文句は言わねえはずだ」

 スーツの内ポケットから出した離婚届を、ベッドテーブルに置いた。

「俺と夫婦でいるから『似てる』だのなんだの言われて、絡まれてんだろ。名前書いて判も押した。あとは仙羽にでも証人になってもらえ」

 置かれたそれは、間違いなく二年前に私が差し出したものだろう。一瞥で差し返されて以来、寝室のチェストに入れていた。まさか、こんなところで出てくるとは。

「でも」

「またあんな思いをするくらいなら、死んだ方がマシだ」

 遮るように継いだあと、真志は腰を上げた。顔色が悪いのは障りのせいだけではないだろうが、私にできることはこんなことしかない。

「待って。障りを消すから、ここに座って」

 ベッドの縁を叩くと、素直に背を向けて座った。点滴のチューブを払い、障りで澱んだ背に触れる。

「これからも、つらくなった時は来て。私も、あなたが障りでふらついてると思ったら落ち着かないから。あとミサンガは作り直すから、できたら取りに来て」

 ああ、と小さく答えて真志は黙る。妻としては、これが最後になるのか。痩せた背が涙で滲んだ。

 既に障りの消えた背中を見つめて長い息を吐いたあと、座り直して少し体を起こす。初めて伸ばした病衣の両腕を、真志の体に回した。抱き締めると、少しずつ馴染んだ熱が染みていく。背に凭れて大きく息を吐けば、こんな時なのに胸が落ち着いてしまう。

「十年、苦労掛けた」

 大人しい声に、目を閉じる。涙は頬を伝い落ち、どこかへ散って消えた。

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