第26話

 既読になったものの返信のない状況には不安を覚えるが、仕方ない。向こうの話と合わせて報告するつもりかもしれない。ということにしておこう。

 落とし所を探りながら少し早めの閉店準備をしていると、携帯が鳴る。慌てて引っ掴んだが真志でも、泰生でもない。いやな予感しかしない『父』だった。

 即座に湧いた「切っちゃおっかな」を抑え、通話ボタンを選ぶ。叔母の様子についてかもしれない。もしもし、と控えめに出たあと、つばを飲んだ。

「折辺さんと離婚するというのは、本当か」

 当たったいやな予感に、項垂れる。叔母がうっかり喋ってしまったのだろう。叔母は離婚させたい派だから、言えば面倒になる両親に率先して言うわけがないのだ。

「当人同士で決める話だから」

「何を言ってるんだ。うちはともかく、そんなことになれば折辺の家に申し訳が立たない。折角、お前でもいいと言ってもらってくださったのに」

 深々と溜め息をつく父に、視線を落とす。結婚前に「迷惑を掛ける前に帰ってくればいい」と言ったことを忘れたらしい。空いた片手が、少しずつ拳を作っていくのが分かった。

「離婚が決まっていないのなら、やめなさい。折辺さんに頭を下げて、白紙に戻してもらうんだ」

「……向こうが、浮気をしたのに?」

 ぼそりと呟くと、少しの間を置いてまた溜め息が聞こえた。

「遊びだろう、それくらいの息抜きを許せなくてどうする。夫婦はそうやって困難を乗り越え地固めしていくものだ。暁子を見なさい、アメリカで三人も子供を育てながら必死に軍人の夫を支えているんだぞ。お前は子供もいないのに、夫を支えることすらできないのか」

 いつもどおり、私以外の味方しかしない父の言葉が突き刺さっていく。しばらく聞いていなかったせいか、今日は一段とよく刺さった。

「離婚しても、甘えたお前を受け入れる場はうちにはない。頭を下げて、やり直してもらいなさい」

 一方的に自分の主張を押しつけて、電話は切れる。離婚しようと実家を頼るつもりはないから、そこだけは刺さらなかった。昔からずっと、何も変わらない。

 ぞわりと久しぶりの感覚がして、何かが触れた。

「死んじゃえばいいのにね、みんな」

 私の口を使って、ユキエが話す。そこまでは思っていないが、本当はそうなのだろうか。私の奥底で蠢く何かは、もしかしたらずっと望んでいるのかもしれない。本当は、ずっと。

 不意にまた鳴り始めた携帯を確かめると、今度は真志だった。父が、何か連絡したのかもしれない。

 通話を選んで小さく応えると、切羽詰まった声がした。

「大丈夫か、なんかあったか」

「どうして?」

「今お前が作ったあれが、二本同時に切れたんだ。いやな予感がしてな」

 ああ、と気づいて、長い息を吐く。胸に熱が戻ると同時に、涙が溢れた。

「……私、もうだめかもしれない。さっきお父さんから電話がきて、みんな死ねばいいのにって思っちゃった」

「大丈夫だ。迎えに行くから、店を閉めてじっとしてろ。誰にも会わずに、電話もするな。いいな」

 うん、と涙声で答えて通話を終え、閉店作業を続ける。カーテンを閉め終えて戻った時、また電話が鳴った。表示された泰生の名前に、胸が揺らぐ。

 少し迷ったあと、携帯を伏せて遠ざかったところに座り込む。小さくなって、耳を塞いだ。


 真志は予定どおりすぐ店に現れて、怯えきった私を抱えて家へ帰った。いつもはダイニングだが今日はソファで、肩を抱かれて過ごす。ぽつぽつとさっきあったことを話すと、真志は溜め息をついた。

「俺が拝み倒した立場なのに、まだそんなこと言ってんのか。もう電話には出るな。メールも無視しろ。それでも煩え時は俺の指示だって言えば、その調子なら黙るだろ」

 うんざりしたように零す真志に頷いて、洟を啜る。

「事件のことは一旦俺に預けて、お前はしばらく離れてろ」

「でも、ユキエさんと」

「だめだ、これ以上は飲まれる」

 真志は渋る私の先を塞いだ。そうは言っても、ユキエとコンタクトが取れるのは私だけだ。事件を解決するには、この家でユキエともっと話す必要がある。あの夢を私に見せたのも、伝えたいことがあったからだろう。

「この前も言っただろ。似てたとしても一緒じゃねえ。同情も同調もするな。お前は、死んでもこんなことはしねえ人間だ」

「そんなの、分からないよ。私だって、人を恨んだらどうなるか」

「澪子、こっち向け」

 震える声で可能性を口にした私に、真志は腕を引き抜きこちらを向いて座り直す。私もおずおずと向きを変えて、ソファの上に正座した。

「お前が大丈夫なのは、俺が一番よく知ってる。お前はどんなに追い詰められても、救うカードが切れる人間だ」

 いつかの告白を思い出す言葉に、じっと見つめる。相変わらずの射抜くような視線に、今日は負けて揺れそうになった。私は、自分が弱いことを知っている。

「夫である前に人間として、俺はお前を信用してる。お前は、大丈夫だ」

 嘘には聞こえない言葉に救われて頷くと、真志は私を引き寄せて抱き締めた。大丈夫だ、と聞こえる声に長い息を吐いた時、背後に視線を感じる。決して、心地よいものではなかった。

「澪子?」

「……ユキエさんが、怒ってる」

――わ、たしと……いっしょ。

 思い出した最初の言葉を、胸の内で反芻する。

「どうして怒ってるんだろう、一緒じゃなくなった?」

「やめろ、同調しようとするな」

 でも、と振り向いた瞬間、何かが喉に巻きついて勢いよく体が引き上げられる。掴もうにも掴めないあの感触に、濁った息を吐く。私を呼ぶ真志の悲痛な声は、すぐに聞こえなくなった。



 季節は夏か、庭には緑が生い茂り、蝉の声がする。

長く薄暗い廊下の中央が、磨かれてぼんやりと照っていた。開け放たれた雨戸側の端はところどころが色褪せ、雨に濡れたのか少し浮いたような箇所もある。

 若い女性の声に視線を上げると、廊下の途中に置かれた電話台に向かい、白い受話器を耳に当てる若い女性の姿が見えた。半袖のTシャツを来たほっそりとした体つきと、優しい顔立ちの横顔……ユキエだろう。ふっくらとした色艶のいい頬は、まだ二十代に見えた。

 「悪いな、なかなか行けなくて」「大丈夫。無理しないで、なんとかやってるから」「そうか、じゃあ」「え、もう切るの?」「仕事中なんだよ」「ああ、そっか。ごめんね」

 聞こえてきた会話は電話の内容か、相手は多分、ユキエの夫だろう。

 ユキエは寂しげに少し俯いて答えたあと、電話を切る。ユキエェ、と野太い男の声がどこからか響いて、びくりとしたユキエは慌てて廊下を走って行く。薄暗い角を曲がったあと見えなくなって、景色も暗がりへと沈んでいった。

 再び似たような景色が浮かび上がってきたが、古びたガラス戸が閉められた向こうには雪が見える。今回は冬か。電話に向かうユキエは、黒っぽいセーターを着ていた。青ざめた顔は痩せて、少し窶れて見える。

 「私なんて、この家に嫁いで来た時は大姑も大舅もいたのよ。朝早くから夜遅くまでこきつかわれて、ごはんはみんなが食べ終わってから残り物だけ。お風呂なんかとっくに冷めてたのに、沸かし直しはもったいないって言われて震えながら入った。それに比べたら、お義兄さんの世話が何? 楽なもんじゃない」「でも、殴るの」「私なんか、姑にもお父さんにも殴られてたわよ! それでもあんた達がかわいそうだったから、離婚しなかったの。その程度で帰って来たいなんて、ただのわがままよ。分かったら、こんな暇つぶししてないでしっかり働きなさい」

 一方的に断ち切られた電話の相手は母親か。聞いているだけで、暗澹としてくる内容だった。姑が嫁をその台詞でいびるならまだ理解できるが、娘に言うとは。

 うちは祖母も母もお嬢様を嫁にもらってきたせいか、同居でも下賤な争いは一切なく未だにふわふわとした天界の暮らしを続けている。「氏より育ち」とは言うものの、氏と育ちが揃った生粋の天上人は下界の諍いになど縁がないのだ。

 また、ユキエを呼ぶ声と共に今日は何かが割れるような音がした。

 「ユキエ! 何してんの!」「はい、今行きます!」

 続いたヒステリックな女性の声は、姑か。そしてまた、ユキエは走って夏より薄暗い角へと消えていく。ひたひたと近づく不穏な影を見るのは恐ろしいが、きっと拒めないのだろう。これを観せているのは、ユキエだ。

 やがてまた、季節は変わる。庭は新緑か、紛れて猫柳が揺れて見えた。春か。穏やかな風に小さな白を散らす姿は麗らかだったが、浮かび上がったユキエの姿は庭のそれとはかけ離れたものだった。脚の具合が悪いのか、壁に凭れて座り込み、片脚を伸ばしている。啜り泣く声が聞こえた。

 「……もう、無理だよ。早く、迎えに来て」「今はまだ無理だ。辞令が下りてそっちに帰れたら、必ず行くから」「でも、お義兄さんに瓶を投げられて……脚がすごく腫れてるの。折れてるか、ヒビが入ってるのかもしれない」

 確かに膨れていそうな脛の辺りをさすりながら、ユキエは半泣きで訴える。今回の相手はまた夫らしいが、答えには少し間があった。

 「病院に連れて行くように、母さんに言えばいい」「連れてってくれるわけないじゃない! この家に、私の味方をしてくれる人なんて……」「泣くなよ、ユキエ。仕事が落ち着いたら、会いに行くから。じゃあな」

 泣きながら訴えるユキエを宥め、まるで逃げるかのように電話は切れる。ユキエは受話器を置いたあと、体を折り曲げて顔を覆った。こんな思いをさせて、自分は浮気……ではない。頭が鈍くてずっと引きずっていたが、そういえばユキエは風呂で亡くなった彼女ではないのだ。彼女の夫は確かに浮気をしていたが、ユキエの夫が浮気をしていたかどうかは今の時点ではまるで不明だ。

 「わたしといっしょ」なのは、夫にまるで顧みられない姿と、実家の家族に突き放されるところか。

 ユキエェ、とまた野太い声がするが、ユキエは頭を横に振って顔をあげない。もう、限界なのだろう。再び呼ぶ声が響いた時、近くの障子が開いて七十過ぎに見える厳つい男性が現れる。

 「何してるんだ、早く行け!」「いやです! もういや!」「このグズが!」

 拒絶したユキエを、男性は容赦なく蹴り飛ばす。廊下に倒れてぐたりとしたユキエの服を引っ掴むと、そのまま引きずってあの角を曲がって行った。これまでと違ったのは、そのあとユキエのものと思われる悲痛な悲鳴が響き渡ったところだ。

「ユキエさん!」

 名前を呼び身を乗り出したって、救えるはずもない。分かっているが、だめだ。また景色を消そうとする暗がりを、薄く透ける手で必死に掻き分けた。

 もう一度ユキエを呼ぼうとした時、どこからか経を読む声が聞こえてくる。戸惑う私の前に下りてきたそれは、七条袈裟の生地を思わせるきらびやかな帯だった。

「え……何?」

 しかし細い帯は惑う私などまるで意に介さず、瞬く間に私を包んだあと、ぽんと跳ね上げるようにしてどこかへ飛ばした。

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