五、

第25話

 ああ、どうしよう。こんなこと、あの人に知られたら。でも、誰に相談したらいいの。どうしよう……どうしよう、私。

 ユキエ! と鋭い女性の声に、はい、と答えて目を覚ました。

 ……またか。

 見慣れた暗い部屋に、長い息を吐いて汗ばんだ額を拭う。早鐘を打つ胸を押さえて、落ち着くのを待った。

 汗が冷えきる前にカーディガンを羽織り、布団から抜け出す。カーテンを引き窓を開け、まだ暗い朝の空気を吸い込む。少し湿度を感じる冷たい空気は、鉄っぽい臭いを含んでいた。

 この夢を初めて見たのは、一週間ほど前だろうか。焼肉屋で真志と別れて店へ帰った日の夜だった。最初は、事件のことを考えすぎて夢に出てきたのだろうと考えていた。真志との関係も相俟って、精神状態が悪化していたせいもあるだろうと。

 でもそれから三回ほど、ここ二日は続けて見た。多分、ユキエからのメッセージだろう。あれ以来家に行ってないから、催促しているのかもしれない。今日くらい、行ってみるか。

 もう一度深呼吸して窓を閉め、台所へ下りた。

 シンクで顔を洗い、冷蔵庫から保存袋を取り出す。昨日の夜仕込んだフレンチトーストは、いい感じに仕上がっていた。

 古びた換気扇をつけ、使い込んだ鉄のフライパンにバターを落とす。立ち上る香りを吸い込んで、準備の整ったフレンチトーストを滑り込ませた。

 自分一人の生活に慣れたら、少しずつ丁寧な料理が作れるようになってきた。あの家で暮らし始めた頃は、丁寧に作っては裏切られて傷ついていた。少しずつ、裏切られても傷つかないように手を抜くことを覚え始めたのはいつからだろう。離婚を切り出した頃には、ほとんどの食事をインスタントか冷凍食品で済ませるようになっていた。

 スイッチの切れた電子ケトルに、フレンチトーストを裏返す。ちょうどいい焦げ目に満足してフライパンを揺すり、戸棚からコーヒーミルを取り出した。

 挽き終えたコーヒーをドリッパーへ落としていると、カーディガンのポケットで携帯が揺れる。

 『おはよう よく眠れた?』

 習慣となりつつある泰生からの一通に、ほっとする。

 『おはよう ぼちぼちかな 今日も一日がんばろうね』

 似たような挨拶を送り返してポケットへ戻し、フライパンをまた揺すったあとコーヒーを淹れる。立ち上る心地よい香りに満たされて、小さく笑った。


 今日の予定は午前に集荷と配達、午後は作業。寺に行く際『集荷で留守』と張り紙をしたら、集荷の問い合わせが常連からあった。いろいろと聞き取ってみたら、集荷と配達をしてくれるなら利用したい客が少なからずいることに気づいた。よく考えてみれば、かけつぎを度々利用できるほど余裕がある常連達はほぼ高齢者だ。彼らはみな自分で品物を持ち込むが、加齢や様々な事情で来訪が難しい「未来のお得意様」がいてもおかしくはない。

 試しに常連に紹介してもらったら、すぐに予定が埋まってしまった。市内なら集荷と配達で追加料金五百円だが、出向く苦労に比べれば安い金額らしい。

――いいんじゃない、あんたはまだ若くて体もよく動くし。

 叔母に相談したら、二つ返事で許してくれた。退院して今は実家で療養中だが、体調が回復したら店番をしてくれる予定だ。それを楽しみに、リハビリをがんばっている。

 店にいつもの張り紙をして依頼品を積み込み、確認したルートで集荷と配達に向かう。今は自分の車だが、事業として軌道に乗りそうなら社用車を導入するべきだろう。理想はクリーニングのような手軽さだが、そう簡単でないのは分かっている。

 それでも少しだけ前に出て強くなれたような、これまでとは違う自分になれたような気がして、嬉しかった。


 午前の集荷で請け負った依頼品は、七点。店で待っているだけでは、なかなかこの数は持ち込まれない。

 午後からの作業に向けて昼食で英気を養っている傍らで、携帯が揺れる。鶏南蛮弁当の箸を置いて確かめると、久しぶりに真志からの一通だった。

 『事件のことで話がある』『今日の夜行くよ』『分かった』

 やり取りを終えて、解れた緊張に首を回す。ユキエがどこの誰か、目処がついたのだろうか。私も夢の件で行くつもりだったから、ちょうどいい。

 あれから一週間、障りは増えているだろうが音沙汰がなかった。離婚しても消すつもりでいるのは今も変わらないが、真志はもう来なくなる気がする。私はなんの躊躇いもないが、真志にとっては施しに思えるのかもしれない。赤の他人に戻った私に情けを掛けられるのは、プライドが許さないのか。

――本当に好きになったら、離婚してくれるんだよね?

 あんなことは言ったが、泰生とは別にどうにもなっていない。次は下旬の連休に訪れるつもりらしいが、その時にどうにかなりたいわけでもない。揺らいだのは確かだが、踏み外すような覚悟はない。そもそも私は「真志といる孤独に耐えられないから離婚したい」のであって、「泰生と付き合いたいから離婚したい」わけではないのだ。理由がブレたら、私が真志に知って欲しかったことも変わってしまう。

 知って欲しい、か。

 空になった弁当の容器に手を合わせて、腰を上げる。この期に及んでまだ分かち合えることを望む自分の弱さに、苦笑した。

 容器を洗ってゴミ袋へ入れてもう一度手を洗い清め、歯磨きをして午後の業務へ向かう。最初に取り掛かるのは住職から預かった袈裟の補修だ。

 今回も大量に購入した本金糸は細いもので千メートルが三万円ほど、縫い直しに使う絹糸が三千円弱だから約十倍の価格だ。問屋曰くこの辺で本金糸を卸しているのは私だけらしいが、まあそうだろう。

 七条袈裟と呼ばれる一枚には柄の列が七つ、その隙間を埋めるように違う柄の布が組み合わされている。遠目では、あみだクジのように見える柄だ。今回の補修は刺繍の補修と裏地の交換、そして縫い直しが含まれている。曼荼羅ほどの大きさはないが、今回も半年は掛かるだろう。

 同じ織地をデザインして発注しレプリカを数枚作成してしまえば、費用は掛かるが手間は掛からない。でも、新しいものが必要なわけではない。引き継ぎたいのは袈裟そのものではなく、歴史だ。

 古き良きものに手を入れて再び活かすのは、ただもったいないからではない。曼荼羅でも袈裟でも柱でも、そこに刻み込まれたものを。

――ただ、もちろんですが古材がみな素晴らしいというわけではありません。一つ一つ状態を確かめるのは当然のこと、出処も確かでなければ。

 ふと思い出した住職の言葉に、刺繍の針を止める。

 古民家風の家、改築された田舎の民泊、古いものを集めた民俗博物館。

 ……まさか。

 針を一旦針山へ刺し、携帯を掴んで真志にメッセージを送る。

 『女性が亡くなった新築の家と民泊してて亡くなった男性の家の改築に古材が使われてなかったか、使われていたらどこから卸したものか調べられる? あと、釜茹で事件の釜の出処も』

 私の勘が当たっていれば、彼らの共通点はユキエではない。

 「家」だ。

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