第24話

 真志は生ジョッキを半分まで減らしたあと、で、と私に鋭い視線を向ける。

「今日はどこに行ってたんだ」

「事件があった家と寺とカフェと病院。あの家、泰生くんが買ったんだってね」

 タンをひっくり返しながら窺うと真志は頷いて、皿で箸を揃えた。

「現場も一通り見せてもらったけど、特に気配は感じなかった。ただ帰る時に男女の会話が聞こえてきて。『死んでしまった』『あんたが強く殴るから』『自分じゃない、ヒロムだ』みたいな会話だった。あの人達はユキエさんの家族で、その中にヒロムって名前の人がいたと思うんだけど」

「今回関わった被害者の中にはいねえな。ちょっと枠拡げて当たってみるわ」

 焼き上がったタンを真志の前に置くと、箸がまとめてつまむ。

「あとね、三つの事件を通して考えたんだけど、最初の事件以外が湯船だったのは釜がなかったからじゃないかなって。その辺をいろいろ考えたら、釜茹で事件で遺体があの状態だったのは、猟奇的に見せるためじゃなかったんじゃなくて」

「釜に全部入れる必要があったってことか」

 うん、と答えつつ、カルビを網に載せていく。脂の弾ける音がして、煙が立ち上る。炭と肉の焼ける香りが辺りを包んだ。

「私が聞いた会話と併せて考えると、ユキエさんは暴行で殺されたあと証拠隠滅するためにああいう形でってことになるんじゃないかな」

 思い浮かばないように注意しながら、焼けたものを真志の前に集めた。

「そっちはどうだった?」

「さすがに刑事のツラじゃ聞けねえから、雑誌記者の振りで『取材』してきた。容疑が晴れたとはいえ、恨まれてんのは分かってるからな。当時の仕事はクビになって、今は日銭稼いで暮らしてた。資料館は廃墟と化してたわ」

 真志は肉をすぐ平らげて、ジョッキを傾ける。

「息子は父親の趣味には無関心だったらしい。ただ相談もなく家の隣に資料館を建てられたことには腹が立ったと言ってた」

「相談せずに建てたの?」

「ま、俺の土地に俺が何建てようが勝手だって理屈だろ」

 カルビを裏返してスペースを作り、ロースを新たに並べていく。鮮やかな赤と白のコントラストは、すぐに弱まった。落ちた脂に、炭火が炎を起こす。じゅわじゅわと脂が溶けていく音がした。

「息子さんも、出て行けば良かったのにね」

「その予定で準備してたらしいけど、被害者が認知症になって諦めたらしい。認知症になってからは扱いやすくなったって言ってたしな。『幽霊が見えるって怯えるだけだから楽になりました』って」

 食べ頃になったカルビをつまむ箸が止まる。真志は頷いて、ジョッキを空けた。

「俺が担当した件も、夫は妻が幽霊が出る、声が聞こえるって言うようになって病院に連れて行ったら病名がついたって証言した。民泊経営してた男も、なんか見えて怯えて引きこもってたのかもな」

 「普通の」夫婦や家庭なら、それが第一選択になるのだろう。最初から「お祓いに行こう!」と言い出すよりは、常識的で現実的だ。

 今も真志の肩の辺りで薄く蠢く障りを眺めて、改めてカルビをその前に寄せた。

「……被害者達とユキエさんの関係性は?」

「今んとこ、被害者達の経歴に共通点はねえ。それこそ『ユキエが点々とした先で、トラブル起こした相手だった』ってのが最有力になるくらいだ」

 でもそうなると、ユキエの身元が分からない限りは難しい。

「進んだような、進んでないようなだね。これ、本当に解決するのかな」

「捜査なんてそんなもんだ。お前も焼いてねえで食え」

「こんな話しながら焼肉は無理だよ。さっき冷麺頼んだ」

 苦笑して箸を置き、落ち着かないみぞおちにウーロン茶を流し込む。

「なら、話戻せよ。家行って、次は寺か」

 それはそれで心地よい会話にはならないだろうが、致し方ない。

「そう。数十年ぶりに一般公開される曼荼羅を見に行ってたの。紛失してた曼荼羅の一つが見つかって、この度補修も済んだからって。まあ補修したの、私なんだけど」

 真志は肉をタレに浸しながら、少し驚いた表情を浮かべた。

「そんなもんも手掛けてるのか」

「うん。叔母さんはしてないけど、私はね。こんな大きい仕事は初めてだったけど、ちょくちょく依頼はあるよ。大体はこれ以上ぼろぼろにならないように布を当てたり縫い直したりする感じだけど、今回の曼荼羅は実用を前提した補修だったからかなり手を入れた。四百十四体あった仏様のほぼ全部に刺繍を足したし」

「気の遠くなる作業だな。それでいくらだ」

 下世話な方へ向かった話題に、苦笑する。タイミング良く届いた冷麺を受け取り、ようやく箸を割った。

「言わないけど、高いよ。全部手作業で二年掛かってるし、技術は安く売れないから。まだ、お金の話は苦手だけどね。でも、叔母さんはもうこのまま店長を下りるって」

「継ぐのか」

「そうだね。ずっと言われてはいたんだけど、自信がなくて。でも叔母さんの病気と曼荼羅の仕事を達成できたのが相俟って、なんとか覚悟ができた感じ」

 半透明の冷麺を引っ張り出して啜る。コシの強い麺が好きで、一人焼肉の時も締めには必ず冷麺を頼む。コシが足りないと残念になるが、この店はなかなかいい。

「で、寺の次は」

「泰生くんが、三十半ばの男が一人で行くにはつらい店のパフェが食べたいって言うから、一緒に行ってきたの。確かにかわいらしくて、あれは注文しづらいだろうなってパフェだった。甘すぎたみたいで、ほとんど私が食べたけど」

「旦那を一人旅に行かせてほかの男と食うパフェはうまかったか」

 皮肉を込めた物言いに溜め息をついて、また麺を引っ張り出す。

「連れて行こうとしてくれたこともない人が、そんなこと言うの? 誕生日や結婚記念日すら忘れてる人が」

「誕生日は九月一日で、結婚記念日が五月五日だろ」

「じゃあ、覚えてるのに毎年無視してたんだ」

 分かっていて、連絡一つ寄越すこともなく十年が過ぎた。指輪を外したのは今年の誕生日、もし言葉があればもう少し着けていようと思っていた。勝つはずもない賭けだった。

「お前、そういうの気にする方じゃねえだろ」

 真志は、気まずそうに項をさすりつつ言い返す。確かに、記念日の度にディナーとプレゼントがなければ満たされないようなタイプではない。でも、「何もない」のとは別の話だ。

「しないよ。子供の頃も、普通に祝ってくれたの泰生くんと叔母さんだけだったしね。実家でもケーキ買ってそれなりのことはしてくれたけど、親とおばあちゃんは『大きくなったんだからもうちょっとしっかり』って追い詰めることばっかり言うし、妹は『プレゼントくれる友達がいないだろうから、私ががんばって作った』ってクッキーとかくれるし」

「地獄だな」

 真志は鼻で笑い、自分で焼いたロースを皿に運ぶ。

 私は多分、地獄から違う地獄に移っただけだったのだろう。追い詰められる地獄から、孤独地獄へ。そう言えば芥川の小説にも、そんな話があった気がする。死ななくても落ちる地獄の話だ。

「今日、パフェ食べながらなんとなく、この人とだったら毎年『おめでとう』が聞ける暮らしができるのかもしれないって思ったの。今みたいに、寂しい思いしなくてすむのかもって」

 泰生と一緒にいれば多分、朝の食卓で「今日誕生日だね、おめでとう」と言ってもらえる暮らしができるだろう。指輪を賭けて、勝負なんかしなくても済むのだ。これまで揺らがなかったものが、あの瞬間、初めて揺らいだ。

「澪子」

「本当に好きになったら、離婚してくれるんだよね?」

 じっと見つめる私に、真志は黙る。これまではすぐに返された「しねえ」も、聞こえて来ない。

 しばらく待っても何も言わない真志に、諦めて冷麺を啜る。さっさと食べて、今日は店に帰ろう。

「あいつはやめとけ、不幸になるだけだ」

 冷麺を食べ終え箸を置く頃、少し掠れた声が忠告をする。不幸になる、か。

 一息ついて口元を拭い、手を合わせる。バッグから財布を取り出し、引き抜いた五千円をテーブルに置いて腰を上げた。

「まるで、今は幸せみたいに言うんだね」

 揺れた視線は見ないふりをして、踵を返す。追ってくるわけのない人から逃げるように店を出て、滲む視界を拭いながら夜道を急いだ。


 連休明け、早速連絡して約束を取りつけた寺へ向かう。どんな袈裟を任せてもらえるのか、楽しみで仕方ない。とはいえ、石段はきつい。

 荒くなった息を整えつつ境内へ上がり、人手の少ない辺りを見回す。やはり平日は、こんなものだろう。今日も本堂は開け放たれて、奥にはあの曼荼羅が見える。満足して手を合わせたあと、住職の元へ向かった。

 本堂脇を掃いていた若い僧侶に尋ねると、ああ、と気づいて少しすまなげに笑む。

「お約束の折辺さんですね。申し訳ありません、住職は急用ができまして少し山を下りております。三十分ほどで戻ってまいりますが、お待ちになりますか」

「はい、よろしければ」

 今日の午前中は集荷のため不在だと店にも紙を貼ってきた。三十分くらい待つのは問題ない。

「そうですか、ではこちらへ」

 でも僧侶が柔和に笑んで手を差し向けたのは、いつもの建物の方角ではなかった。

――住職が、折辺さんは座敷でじっと待つよりこれを眺めておられた方が楽しかろうと。

 案内されたのは寺の裏、数ヶ月前の大雨で裏山が土砂崩れを起こした場所だった。現在は土砂や瓦礫が取り除かれ、壊れた事務所を新たに建て直している。ただ、あちこちに据えられた柱や梁は、見る限り新品のものではない。曼荼羅も袈裟も建物の柱も、受け継がれてきたものを大切に使うのだろう。

「お待たせいたしました」

 馴染んだ声に振り向くと、住職が立っていた。

「いえ、お勧めいただいたとおり楽しく眺めてました」

 笑顔で頭を下げ、隣に並ぶ住職を迎える。今日も袈裟姿だったが、前回ほど絢爛ではなかった。ふわりと、香の良い匂いがする。

「使われている柱が古いように見えるんですが、あれは瓦礫の中から救い出したものなんですか」

「いえ、土砂に飲み込まれたものはもう使えませんでした。あれは、よそのお寺が観音堂を建て替えられると仰ったので頂いてきたのですよ。瓦なども」

 予想外の出処に驚いて、組み込まれている柱を数える。全部で七本、決して少ない数ではない。古びた柱で新しい建物を支えるなんて、不安があるのではないだろうか。

「そんなことができるんですね。でも、強度は大丈夫なんですか?」

「ええ。良い木材を使った柱は時間が経った方が水分が抜けて締まり、非常に強くなるのです。特に寺社仏閣は、良い木を潤沢に使っていますのでね。そのまま廃材としてしまうには、もったいないのですよ」

「そうなんですか。てっきり、新しい方が強いと思っていました。こんな風に、古き良き素材が新たな居場所を得て生き続けるのは、素晴らしいですね」

 古いからと捨てず、大切に使い続ける。それはかけつぎの存在意義を支える考え方だ。

「ええ。ただ、もちろんですが古材がみな素晴らしいというわけではありません。一つ一つ状態を確かめるのは当然のこと、出処も確かでなければ」

 住職は目尻の皺を一際深くして笑み、私を見る。

「さ、では本題の袈裟を見ていただきましょうか。お体が冷えたでしょうし、抹茶はいかがですか」

「ありがとうございます、いただきます」

 夢中で見ていた時は気づかなかったが、いつの間にか指先が冷え切っていた。標高が高い分、空気は冷たく澄んでいる。

「うちも、これくらい空気が澄んでたらいいのにな。御札を祀ったらいいんでしょうか」

「御札の前に掃除と換気ですよ。雑巾がけほど清々しさをもたらすものはありません」

「やっぱり雑巾がけですか……」

「ええ、雑巾がけです」

 雑巾がけをすると家も気持ちもすっきりするのは分かっているが、面倒臭さが勝ってしまう。御札でどうにかしようとする根性が間違っているのも分かっている。

「まず、己の怠け心に打ち勝つ必要がありますね」

 答えて苦笑した足を、ふと止めて振り向く。何かが背に触れたような気がしたのだが誰も、何もない。背後では、相変わらず事務所の再建築が続いているだけだ。

「どうかされましたか」

「いえ、何かが背に触れた気がして」

 今のは、ユキエではない。優しく、柔らかい感触だった。

 そうですか、と住職は笑みで頷き、また歩を進める。頭を下げ、小さな背のあとに続いた。

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