第23話

 泰生が気晴らしにと選んだのは、曼荼羅の補修を請け負ったあの古刹だった。

「紛失してた曼荼羅の片方が数十年ぶりに発見されて二枚揃ったから、一般公開されるって新聞に出てたんだ。澪ちゃん、こういうの好きそうだなって」

「好きだよ。ただその見つかった曼荼羅の方、この前まで私がお預かりしてたやつ」

 打ち明けた私に、泰生は石段を上る足を止めて振り向く。

「……ああ、ああそうか、澪ちゃんが補修したんだ」

「そう。二年掛かりの大仕事だったよ」

「すごいな、早く見たい」

 目を細めて嬉しそうに笑う表情に、翳りは見えない。ごまかしたようで胸は痛むが、応えられない。さっきより速度が上がった気がする背に、運動不足の体で無理をした。

 連休中日に件のニュースが相俟って、境内は参道以上の賑わいだ。その殆どが、扉を開け放たれた本堂の周りに集中している。中には入れないよう封じられていたが、外からでも十分に荘厳な趣を感じられた。

「礼盤の右にあるのが補修した胎蔵界曼荼羅で、左にあるのが金剛界曼荼羅。合わせて両界曼荼羅って呼ばれてるんだって。対で飾るものだから、胎蔵界曼荼羅の紛失中は金剛界曼荼羅は掲げられてなかったの」

「そうなんだ。色の差があるのは、その紛失で?」

 補修者の会話はあまり聞かれない方がいい気がして、少し離れたところへ引いてからもう一度眺める。

「うん。住職に任されたから、私も戻って来た時の色味に合わせた台地を選んで補修したしね。紛失をなかったように消してしまうのは、なんか違う気がして」

「どうして?」

 聞き返した泰生に、少し驚いて隣を見上げる。

「感覚的なものだからうまく説明できないけど、紛失してた時も曼荼羅は曼荼羅であり続けたからというか……何事もなかったかのように戻して『これが本来のお姿です』ってなるのは、違和感があったんだよね。泰生くんは、揃えた方が良かったと思う?」

「澪ちゃんの選択に文句があるってことじゃないけど、俺ならそうしたかな。片方だけ傷んでるのが分かるのは、見ててちょっとつらい。紛失ってネガティブな要素を、ずっと目に分かる形で背負わされ続ける感じがして」

 なるほど、そういう考え方もあるのか。

「仏様の表情一つとっても、悲しんでいるように見えると仰る方もあれば微笑んでいるように見えると仰る方もあります」

 背後から聞こえた声に驚いて、揃って振り向く。いつからそこにいたのか、今日は絢爛な袈裟を身に着けた住職だった。

「耳を欹てたようで申し訳ありません。法事から戻りましたら、何やら興味深いお話が聞こえてまいりまして」

「ご無沙汰をしております。お変わりございませんか」

「はい。おかげさまで、このように法事で駆け回っております」

 自分の足で石段を上ってきたのか、相変わらず痩せてはいるが健康そうで肌艶もいい。

「お久しぶりですね、お元気ですか」

「はい。ご無沙汰をしております」

 挨拶を交わす二人に驚いたあと、気づく。

「そっか、孝松の菩提寺はここだっけ」

「うん。ご住職にも法事の時にはいつもお世話になってるよ」

 見上げた泰生は頷いて、正解を与えた。

「お二人は、ご友人でしたか」

「はい。幼なじみなんです。小学校を卒業するまでは、一緒に育ちました」

「そうでしたか。それはそれは」

 住職は目元の笑い皺を深く走らせながら細かく頷き、本堂へと視線を移す。

「あのように再び対で掲げられるようになり、私共はもちろん檀家の皆様も大変喜んでいらっしゃいます。細部に至るまで丁寧に手を入れていただいて、見る度に溜め息をつくばかりです」

「そう言っていただけると、職人冥利に尽きます。私にとってもこれまでで一番大きなお仕事でしたから」

 改めての言葉に、安堵と誇りを感じる。おかげで私も、職人としての自信が少しだけついた。私を信じて任せてくれた住職には、本当に感謝している。

「実はもう一つ、折辺さんの腕を見込んで個人的にお願いしたいものがあるのですが」

「ありがとうございます、どんな品でしょう」

「代々受け継がれてきた袈裟です。私も若かりし頃は愛用していたのですが、傷みがひどくなってからは着用するのを避けておりました。できれば次の代にも引き継ぎたいものですので、この機会に是非と思いまして」

「承知いたしました。では、連休明けにでもまた参りますね。お見積りや期間のご相談なども、その時に」

「はい。どうぞよろしくお願いいたします」

 笑みで承諾した住職と頭を下げあって別れ、私達も帰路に就く。

「話して預かって帰れば良かったのに」

「今日は休みだし、今は泰生くんと一緒にいる時間でしょ。仕事の話は、仕事をする日にすればいいんだよ」

 下りなのに膝が笑う石段を下りつつ、後ろを一瞥する。ありがたくても、それはそれ、これはこれだ。泰生を放置してする話ではない。

「で、次は叔母さんのとこ?」

「いや、その前にもう一軒。三十半ばの男一人で行くにはつらいカフェで、パフェを食べさせて欲しい」

「いいよ、行こう」

 かわいらしい願いを受け入れて、穏やかな日差しの中を下っていく。紅葉の始まった枝の重なりを眺め、残り少なくなった今年に妙な焦燥感を抱いた。


 『メシ行くから帰って来い』『いやです』『焼肉行くから帰って来い』『やだ』『帰って来い』

 何を返しても揺るがなさそうな返信に、夕食の誘いを断って家に帰ったのは六時を過ぎた頃だった。

「ごはんくらい、一人で食べればいいじゃない。準備して待ってる時は散々すっぽかしてきたくせに、私のは許さないって勝手すぎない?」

 戸口で待つ真志に収まらない腹立たしさをぶつけつつ、ワンピースを脱ぐ。焼肉を食べに行くなら、小汚い格好で十分だ。冷えた空気に粟立つスリップの腕をさすり、クローゼットへ向かう。脱いだストッキングを丸めて、洗濯用のカゴに投げ込んだ。

「俺のは仕事だ」

「仕事っていう名の浮気でしょ」

「仕事だ」

 頑なに言い張る真志に、肩で大きく息をする。ジーンズを手に取ったあと、気づいて振り向いた。

「着替えるから出てて」

「いいだろ、別に。見られて困るもんでもついてんのか」

「入れ墨なんてしてないよ、痛いのに」

 図案だけ見れば美しいとは思うが、自分の体に入れるのは無理だ。怖い。

「……何?」

 黙った真志に眉を顰めると、笑って部屋を出て行った。

 スリップを脱いでジーンズをはき、Tシャツの上にパーカーを羽織る。編み上げていた髪を解いて少し高い位置で結び直し、鏡で襟足を確かめた。

――見られて困るもんでもついてんのか。

 今頃思い当たって、首筋を撫でる。自分がしているから、私もしていると思うのだろうか。

「一緒にしないで」

 ぼそりと呟いて溜め息をつき、リビングへ向かった。

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