第22話

 翌朝早くに、真志は出掛けたらしい。昨日の夜は、手を伸ばすこともなく黙って眠っていた。大人気ないことをしたのは分かっている。

「澪ちゃん、大丈夫?」

「ああ、うん」

 運転席から尋ねる泰生に、窓外から視線を移す。

「それで、どこ行くの?」

「最初のとこは、ちょっとしんどいかもしれない。そのあと気晴らし。それからおばさんのお見舞いに行こう」

 全くその予定はなかったのに、本当になってしまった。

「しんどいの、聞いときたいんだけど」

 不安で窺う私を一瞥して、泰生は頷く。黄色信号に、車を減速させて停めた。

「その様子だと、旦那さんからは聞いてないみたいだね」

「何?」

「事故があったあの家、俺が買ったんだよ」

 え、と驚いて泰生を見つめる。今日の泰生は、質の良い丸首のニットを着ていた。仕事柄、見るだけで材質と値段が分かる。泰生のことだから、高いものを買って長く着ているのだろう。

「給湯システムだけを売ってもらうって方法もあったけどね。でも霊が人を殺す家を、それと知ってて黙って流通させるのはいやだった。幸い、俺は連鎖を止められるだけの資金を持ってたし」

「私、このまま放置されたのちに空き家条例に引っ掛かって取り壊しされて終わりかなって思ってた」

 売りに出したところで、二人釜茹でになったような事故物件がまともに売れるはずもない。どうにもならなくなるまで置いておいて、廃屋化して心霊スポット扱いされてからの解体になると予想していた。

「たまたま、旦那さんのご両親が売りたがってるって耳に挟んでね。話をしたらすぐに了承してくれて、売ってもらったんだ。ご両親は、自宅も売ってここを離れるらしい」

「まあ、そうだよね。殺したのは息子さんじゃないです、息子さんもお嫁さんも霊に殺されたんですって教えたところで、少しも救われない。真実なのにね」

 世間的には「夫が妻を殺して罪がバレそうになったため自殺した」で固定され、書類送検も済まされた。真実を持ってしても、現実が覆ることはないだろう。

「ありがとう、泰生くん。私には絶対無理だったね」

「まあ俺も、これが東京なら無理だったかもしれないけどね。田舎で助かった。澪ちゃんの力じゃないけど、自分の持つものを使って自分にできる限りのことをした。いい使い方をしたと思ってるよ」

「やめてよ。私の力なんて微々たるものなのに」

「それ、本気で言ってる?」

 苦笑した私に、泰生は驚いた表情を浮かべた。そんな、驚くようなことなのか。

 信号が青に変わるのを待って、泰生は静かに車を出した。レンタカーらしい一台はコンパクトなセダンで、泰生らしい堅実さだ。自分の車も似たようなものらしい。

「澪ちゃんのその力は、どれだけ金を積んでも手に入らない類のものでしょ。気弱で誰にも言わないのが結果として身を守ってるけど、もし周りに話してたらとんでもないことになってたかもしれないんだよ」

「そうなんだ。あんまり、そんな風に考えたことなかった」

 ずっと一緒に育ってきたからかもしれない。それに除霊ができるわけでも、病気が一瞬で治せるわけでもない。障りが消せて、ほんのちょっと守備力を上げられるだけなのに。

「澪ちゃんがその調子だから、大人になった今も同じ純度で使えてるんじゃないかな。そりゃあ、閉じ込めて純粋培養し続けたくもなるよね」

 少し皮肉っぽく聞こえた声に、視線をやる。今日は眼鏡のない横顔が、急に他人のように見えた。

「人間の一番汚いとこを見る仕事してるから、綺麗なものを傍に置きたくなるんだよ。汚す勇気もないくせに」

「やめて」

 短く遮り、膝のバッグを握り締める。ざわつく胸に浅くなる息を整えた。

「悪口も好きじゃないけど、泰生くんがそんな風に言うのはもっと聞きたくない……ごめん」

 きつく響いてしまった言葉に、気まずく詫びを付け加える。

「いいよ、ごめん。澪ちゃん、苦手だもんね」

 泰生はすぐに許して、長い息を吐く。車は、県道から新興住宅地へと入る角を曲がった。

「澪ちゃんの傍にいたら、きっと幸せに暮らせるんだろうな」

 独り言のような力のない声に、犇めき合う家の群れから視線を落とした。


 既に泰生の名義へと変わったらしい家の前に立ち、深呼吸をする。黒い瓦の大屋根に、白い漆喰の壁。真新しいのに古さを感じる外観を確かめて、門扉をくぐった。玄関前には目隠し用に木製の格子が設置されて、町家のようでもある。玄関戸一つとっても建売ではなさそうな意匠は、夫婦二人で相談しつつ決めたのだろうか。

 泰生に続いて中へ入ると、真っ先にいぶされたような木の色と漆喰の白のコントラストが目に入る。物が全て運び出されているせいか、がらんとした空間は田舎の温かみよりスタイリッシュな印象を与えた。

「広いね」

 大屋根部分に当たるリビングダイニングは吹き抜けになっていて、自然のうねりをそのまま残した太い梁が使われていた。

「首吊りの紐が掛かってたのはそこらしいよ」

 見上げる私の傍に立ち、泰生は声を響かせながら梁を指差す。

「でも、かなり高いよね」

 見上げた場所は、二メートル以上はあるだろう。

「多分、片方の紐を梁に結びつけて垂らす方法じゃなかったんじゃないかな。紐の片方を梁の向こうへ投げて、もう片方の紐の途中に結びつければ自分に適した長さで固定はできる。まあ輪っかさえあれば、ハングマンズノットじゃなくても首は吊れるらしいし」

「へえ、そうなんだ」

 思わず感心してしまったあと、違和感が追いつく。

「で、こっちがお風呂。といっても、給湯システム全部外して送ったからガワしかないけど」

 奥へと向かう泰生に続き、リビングを出た。真志より広い背が、今はなんとなく澱んで見える。

「泰生くん、大丈夫?」

「何が?」

「えっと……いろいろと」

 どう表現していいのか分からず、中途半端なことを言う。泰生は肩越しに振り向いてにこりと笑ったあと、答えないままバスルームへ向かった。

 真志の話していたとおり、バスルームはうちの倍以上ある広さだった。白を貴重にした清潔感のあるインテリアは事件現場と思えない清々しさだが、確かにシステムが取り除かれていた。

「どう? 何か感じる?」

「うーん。やっぱり、無理みたい」

 ぐるりと見回してみたが、事故現場と思えばぞっとするくらいだ。感じ取ろうとしてみても、ユキエの気配は感じられない。

「ただ、ちょっと気になることがあるんだけど」

 三つの事件を通して考えた時に、無視できない違いがあるのだ。

「この湯船、すごく広いよね。二年前の事件の湯船ってどれくらいの広さだったか分かる?」

「幅百四十センチ、奥行き約八十センチだね。これより二回りくらい小さいサイズ」

 泰生は即座に答えて中へ入り、この辺からこっち、と手で示して見せた。

「四年前の釜茹で事件の釜は、大きいサイズだったとしても湯船よりは当然もっと小さいよね。遺体は切り刻んであったみたいだけど、ユキエさんが器に合わせてわざわざ変えたのかな。『あ、このお風呂広いから刻まなくていいや』って判断すると思う?」

 ユキエの体は切り刻まれていて、釜茹で事件の被害者も切り刻まれていた。二年前と今回の事件はそのままで湯船で……ああそうか。

「二年前と今回でお風呂だったのは、どっちの家にも釜がなかったからじゃない?」

「そうか。釜がないから、風呂を釜に見立てて茹で殺したのか」

 泰生も気づいた様子であとに続き、考えるように顎をさする。

「俺、解釈違いしてたな。てっきり猟奇的に見せるために切り刻んだんだと思ってたけど、もしかしたら、釜に入りきるように切り刻む必要があったのか」

 ちゃんと、全部煮られるように。ユキエは、何かの目的のために煮られたのか。

 胃を突き上げる吐き気に、思わず口を覆う。

「大丈夫? 吐いていいよ」

 泰生は戻ってくると、私の口元に器のようにした両手を差し出す。それに驚いて、引っ込んでしまった。

「……大丈夫だった、ありがとう」

 一息ついて、まだ気持ち悪さの残るみぞおちを撫でる。

「じゃあ、もう行こうか。ここにいても、これ以上の収穫はないし。いやな気分にさせてごめんね」

 頷いた私の手を自然に繋ぎ、泰生は来た道を戻っていく。

 重苦しいものを抱えたまま玄関へ出た時、ふと気配を感じてふりむく。肌が、これまでとは違う感触に触れた。

 「ああ、死んだか」「何してんの、あんたが強く殴るからよ」「わしじゃねえわ、ヒロムだ」「もうほんと、こんなの……したら……」

 切羽詰まった声を残して、会話は消えていく。今のは。

「澪ちゃん?」

「声が、会話が聞こえた。多分、ユキエさんを殺した人達のだと思う。ヒロムって名前が出てきた。それで、えっと」

 ユキエが家族に憎まれていたと考えたら、あれは……ほかの家族の会話か。やっぱり、家族に。

 冷えていく体が、ふと温かいものに触れる。

「ごめんね、つらい思いさせて。もういいから、やめよう」

 優しい腕の中から顔を上げると、泰生は寂しげに笑んだ。

「真実に近づくほど澪ちゃんが傷つくなら、もう知らなくていい」

「でも」

「仕事は確かに大切だし、責任者の意地みたいなものはあるよ。でも俺が辞めたって、技術屋なんていくらでもいる。澪ちゃんをぼろぼろにしてまで守るようなものじゃない」

 再び腕は抱き締めて、説くように告げながら頭を撫でる。変わらない、優しい手だ。

「俺に、澪ちゃんの代わりはいないんだ。これまでも、これからも。ずっと好きだった」

 熱のこもった告白に、胸に凭れたまま視線を落とす。真志と出会う前なら、きっと喜んで受け入れていたはずだ。あの頃もまだ、淡い初恋は胸にあった。

「それなら、どうしてもっと連絡してくれなかったの? 年賀状だけじゃなくて」

「年賀状に『楽しく暮らしてる』って嘘書くのが精一杯だったんだよ。『毎日死ぬことばかり考えてる』なんて、好きな人に言えるわけがない」

 今度はちゃんと体を起こして、泰生を見つめる。やっぱり、そういうことだったのか。さっき抱いた違和感の理由は分かったが、少しも幸せにはなれない。薄暗い中に浮かび上がる諦めたような表情が、少しずつ滲んでいく。

 泰生は私の涙を指先で拭って、力なく笑んだ。

「その頃は単純に『澪ちゃんを泣かしちゃだめだ』としか思えなかったけど、今は分かるよ。自分のために悲しんで泣いてくれる人がいる幸せを、俺はちゃんと知ってたんだ。俺が死んだら、誰より澪ちゃんが悲しんで泣くのが分かってた。そんなの、死んでも少しも救われないだろ? だから耐えて、生き延びた」

 複雑な育ちの中で、唯一信じられる相手が私だったのだろう。私も叔母がいなければ、泰生のことしか信じていなかったはずだ。

「『大人になれば澪ちゃんと結婚できると思ってた』って言ったのは、半分本音で半分は嘘だよ。待ってて欲しかった自分は本当にそう思ってたけど、残りの半分は現実に打ちのめされるのが怖くて会うのを先延ばしにしてた」

 私はちまちまとかけつぎをしながら、泰生はとっくに東京で素敵な人を見つけて幸せに暮らしているのだろうと思っていた。寂しく感じることはあったが、迎えに来て欲しいと願ったことはなかった。私しかいなかった泰生と叔母と天職に恵まれた私に違いが生まれたのは、当然のことだろう。

「ショックだったけど、幸せになってくれるならいいと心から思ってたよ。水を差すようなことはしたくなかった。でも」

 不穏な接続詞に、視線を落とす。その先は、私にだって予想できる。

「この十年、幸せに暮らしてるって噂は一度も聞いたことがなかった。聞く度に、自分が傷つけられるより傷ついたよ」

 切々と響く声が胸に痛い。私が願いを叶えて幸せに暮らしていれば、いつか昇華できた思いだろう。私が幸せであれば、良かったのに。

「離婚前に手を出すのが人道に悖ると思ってるのは確かだけど、今は澪ちゃんが一緒に道を踏み外してくれないかなって願うのをやめられない」

 不意に近づいた顔に、思わず胸を突き放す。

「ごめんね、でも」

「謝らなくていいよ。今のは俺が悪かっただけ。ごめんね、行こう」

 慌てて詫びた私に、泰生は頭を横に振って踵を返す。着信も何もない携帯をなんとなく確かめて、あとに続いた。

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